ルソーの『社会契約論』

社会契約

まだ社会共同体のない自然状態にいる人間を想像してみましょう。
ひとりで自然と闘い日々の糧を得、生活環境を作り、天災などのアクシデントに対する安全の保障もない不安定な状態で生きることになります。
また、他者からの暴力や略奪に対しても無力で、時に自分にとって最も大切な自然的自由すら奪われて、他者の奴隷として生きなければならないこともあります。
そんな原始状態にある非力な人間が、自己保存を妨げる様々な障害や危険にうち勝つことができなくなった時、その存続のあり方を変えるしか方法がなくなります。

そのあり方とは、個々ばらばらで対立しあう人間が契約を結び共同し力を合わせることによって、障害を乗り越えるという選択です。
「各共同者の身体と財産を共同のすべての力で守り保護する」形式です。
しかし、それは以前に持っていた自然的自由を共同体に売り渡すものであってはなりません。
もしそうすれば自身の保護の為に強者の奴隷になる道を選ぶことと違いがないからです。

個人と社会の弁証法

これを解決するためにルソーが選んだ方法は、「各共同者をそのすべての権利と共に共同体にまったく譲渡すること」です。
全ての人間(各個人)が、全ての人間(共同体)に自分の権利を与えれば、結局は誰(特定の者)にも自分を与えないことになります。
全ての人間が自分が与えたものと同じ権利を返還されますが、返還された権利は同時に共同全体の所有でもあるため、守られ(保障され)るわけです。

分かりにくいので、例をひとつ挙げます。
仮に100人の共同体があったとして、私の権利を「10個のドングリ」と喩えるなら、いったん各個人が持つ10個のドングリを共同体一般に譲渡し、共同体所有の1000個のドングリにします。
今度はそれを100人の共同体成員に再分配すれば、また各個人の手元には10個のドングリがあることになります。
しかしその10個のドングリは、私のものであると同時に共同体全体のものでもあるわけです。
だから私が誰かの権利(ドングリ)を奪おうとすれば、共同体一般の権利(財産)の収奪となり、共同体が全力で私の収奪を阻止するために動くことになります。

仮に成員の誰かが誰かの権利(ドングリ)を奪い余分に持てば特権者を生じさせ、社会契約そのものが崩壊し、社会は専制的になり特権者と奴隷の関係としてまた自由のない世界へと逆戻りしてしまいます。
だからこそ、各個人は平等に「~全ての権利を~まったく譲渡する」必要があるのです。
私が隣人の権利を奪うという行為は、隣人に危害を加えると同時に社会すべての成員を傷つけるという社会への挑戦なわけです。

国家と一般意志

この共同体一般としての公的な人格が国家であり、主権者であるわけです。
そして各個人は、その主権に参加する者としては市民、国家の統治の元にあるものとしては臣民と呼ばれます。
また、この公的な人格(市民共通の自我)がもつ意志決定の主体を「一般意志」と名付けます。
これは決して各個人の利益を追求する特殊意志の総体(加算全部としての全体)ではなく、すべての個人に通じる共通の利害追求を一般化した意志です。
だから国家は原理的には市民の利益に反することをできもしなければ、欲することもできません。

しかし、時に個人の利害追及(特殊意志)が一般意志を侵害することがあります。
各個人が主権者の一般意志に従うという義務を負わず、自己の権利だけ主張するという例外(特権)を作るなら、国家そのものの成立条件が崩れてしまいます。
その時はじめて国家は臣民に強制的に服従を強いることになります。

法と政府

この一般意志の具体的な働きが「法」であり、国家の意思は立法権と呼ばれ、国家の力は執行権と呼ばれます。
そしてこれを行う執行人が「政府」であり、国家と市民の間をつなぐ公的代理人いわば公僕です。
主権者はあくまで市民と国家(一般意志)であり、ただ委任された雇われ人である政府の執行力を制限したり修正したり取り上げ解任することも自由にできるわけです。

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