マルクス・アウレリウスの『自省録』1

自省録の概要

マルクス・アウレリウスの哲学をいくつかの要素にまとめるとすれば、「世界をありのままに見、自然の摂理を受け入れ、自己の理性に従い、今この時を生きる」ということになるでしょうか。
徹底していることは、「現」に今ここにあるものへの信頼です。
それは実存哲学の系譜の始まりともいえるストア哲学の根幹にあるものです。

「現」に徹し何者の奴隷ともならない主体の哲学は、状況に支配される奴隷または環境因の産物としての人間観を否定する、主人(皇帝)の哲学ともいえます。

世界をありのままに見る

マルクスは人間を悩ます多くの問題は、世界をありのままに見ないことから生ずる一種の幻想のようなものとみなします。
世界の現実を明晰に見ることに徹し想像の産物を廃すれば、多くの問題は解消します。

例えば小学生がインフルエンザの予防注射を受ける時、彼らはありのままの現実の痛みや恐怖をはるかに超える想念をもってしまいます。
刑台へ向かう順番待ちという階段が、恐怖と痛みの想像を徐々に増幅する間を与え、客観的にはしっぺ遊び程度の痛みしかないはずの注射が、逃げ出したくなるほどの恐怖に変わります。
多くの場合、私たちの苦悩は環境が生み出す(外因の)ものではなく、私たちの目と頭の中にある「ものの見方、考え方」が生み出す(心因の)ものなのです。

具体的にするため、人間を悩ます最大の恐怖である「死」について挙げてみます。
マルクスは「死」を徹底的に明晰な目で見ることにより、その苦悩を除去します。
「死」という事は、完全に意識を無くしてしまうことです。
だから死ぬ瞬間に意識を失ってしまう私たちは、「死」そのものを経験することが出来ません。
宇宙の外に出られない人間とって宇宙の外は語りえず、それは何ものでもないものでしかない様に、「死」も何ものでもありません。
ただ私は他人が死ぬ様を見ることを経験できるだけで、「私の死」はそこから想像するおとぎ話でしかありません。
明晰に「死」を観れば、それはただ何か大きな変化の起こる契機であり、私たちが感じるものは単なる変化への恐怖でしかありません。

君の不幸は~環境の変異や変化の中にあるわけではない。~なにが不幸かであるかについて判断を下す君の能力の中にある。(『自省録』神谷美恵子訳岩波文庫4巻の39より)
想像力を抹殺せよ。人形のように糸にあやつられるな。(同7巻の29)
すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。~するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前にあらわれるのは、見よ、凪と、まったき静けさと、波もなき入江。(同12巻の22)

指導理性

このような世界を明晰に見る私(主体)を「指導理性」と呼びます。
世界の意味づけを自由に導くことのできる理性です。
それは想像の産物を滅することだけでなく、むしろ苦悩や恐怖のようなネガティブな事象をポジティブなものに変えられる自由な理性です。

例えば、山登りそのものには快苦などありません。
親に連れられて無理やり登山をさせられる受動(奴隷)的な少年にとってそれは苦痛でしかなく、逆に登山を楽しむ能動(主体)的な山岳部の少年には快いひと時になります。
目の前に苦難の山が立ちはだかった時、嫌々それを登る受苦としてではなく、指導理性によりその意味づけを転換し、「この試練を乗り越えることによって自分は一層強くなるよう与えられたチャンスなのだ」と捉えることもできます。

話し下手で友達ができないなら聞き上手になればいい、貧乏でオモチャが買えないなら想像力と創意工夫で遊べばいい、不細工で恋人ができないなら誰よりも心優しい魅力をもてばいい、人生の時間が無いのならその分まで充実した日々を送ればいい。

我々の精神はすべてその活動の妨げになるものをくつがえし、これを目的の達成に役立つものと変えてしまう。~道の邪魔をしていたものが、却ってこの道を楽にするものになってしまうのである。(同5巻の20)
指導理性とは自ら覚醒し、方向を転じ、欲するがままに自己を形成し、あらゆる出来事をして自己の欲するがままの様相をとらしむることのできるものである。(同6巻の8)

2へつづく