ハイデガーの『存在と時間』(2)

1のつづき

存在と時間

私たちは基本的に近代科学的な時間の概念でものを見ています。
それは直線的で、未だ来ない「未来」は「現在」になり、やがて「現在」は過ぎ去り「過去」になるというものです。
未来・現在・過去が均質な関係として成り立っています。
けれど別の文化圏に生きる人たちはそれとは違う時間概念の中で生きており、それによって私たちとはまったく別のライフスタイルの中で生きています。
直線時間ではなく、円環的な時間、点的な今だけの時間、反復的な時間、等々。
(『時間の比較社会学 』真木悠介 岩波現代文庫 参照)

ハイデガーの場合は未来・現在・過去の代わりに、「将来」「現成化」「既在」を立てます。
「既在」とは、過ぎ去った過去などではなく、いままで私はどうあったかという事実の引き受けによって生じる生きた過去です。
考古学的に過去を間接的に類推することで認識するような「現在にある過去」です。
それぞれの国によって歴史の教科書の記述内容が違うように、各個人が個人の歴史をどう解釈し意味づけ、何を捨て何を引き受けるか。
それは過ぎ去り博物館の剥製のように固定化して順に陳列される過去ではなく、私の将来と現在が今まであった出来事を素材として形作る生きた過去なのです。
自分は今まで「何者であったか」という「既在」の認識によって、「将来」の「何者でありうるか」が決断できるのです。

その既に在った世界の地盤のような「既在」を土台にして、「将来」へ向かって私をプロジェクト(投企)し、その将来が生み出す目的の網が私をとりまく現在の存在者の世界を照らし出すように意味づけ、事物が現在に成立(「現成化」)します。
ハイデガーの言葉を借りれば、時間性とは「既在しつつ-現成化させる将来」となります。

こうして存在者とその総体の世界が生成され、「存在」というものが人間独自のこの時間的なあり方に依拠して生じ出づることが明らかにされます。
ハイデガーにとってこの時間のあり方が最も根源的なもので、客観時間とも言われる直線的な時間概念や数量化可能な時間などは、ここからの派生物とみなします。

本来的と非本来的

将来へのプロジェクト(投企)が中心となって、私の目的の網目を決定し、それが世界を生み出す(現成化する)として、究極的に最も全体的な将来とは何でしょうか。
それは「世界-内-存在」の私が消滅してしまう「死」です。
この全体的で究極的な将来(死)を覚悟し生きることが、ハイデガーの言う本来的在り方であり、本来的自己です。
誰と交換もできないかけがえのない私の一度きりの人生を生きる、ということです。
例えば、余命宣告を受けた患者が、それにより生まれ変わったかのように日々を真剣に生きはじめ、今までの生活がいかにどうでもいいものに振り回され、自分を充実させていない生であったかに気づくことがよくあります。

たいていの場合、そうやって私たちは全体的な将来(死)を意識せず、目先の将来に目を奪われ、目先の将来を目的として生きています。
いわば自分(本来的自己)を見失った、自分のかけがえのなさを忘却した生き方です。
世間の意見によって動き、世間の常識に追従し、世間に流されて生きる。
いわば私が誰でもない世間一般に溶かされてしまったような生です。
それが非本来的な在り方、非本来的自己です。

「死」を先駆的に意識した上で自分を将来へ向けてプロジェクト(投企)し、いままで何気なく現成化していた世界を、かえがえのない私の決断によって意味付け積極的に現成化させること。
それと同時に、望んだわけでもなく生れ落ちたこの私という場所と私が背負わされた歴史(世界に投げ入れられたという意の「被投性」)を「既在」として引き受け生きること。
それがハイデガーの本来的在り方の本質です。

良心の呼び声

非本来的在り方では「死」は意識してはならない不安の種として、周到に隠蔽され遠ざけられます。
しかし、私たちが普段の生活の中でふと抱く不安や虚無感は決してネガティブなものではなく、非本来的な在り方から本来的な在り方へと導く、良心の呼び声なのです。
仕事帰り夜の車窓に映る自分の顔を見た時に不意によぎる不安、疲れて一日寝て過ごした休日の夕暮れ時に感じる虚無感、大切なものを失った時に色褪せて見えるよそよそしい世界の様。
それらは一時の感情や気分としてすぐに忘れ去られてしまいますが、実は虚無や不安や無意味感は、私が本来的には可能性の中で将来へと自己をプロジェクト(投企)して世界を創る自由な存在であるということのひるがえった表現なのです。

そしてその死や不安や虚無や絶望を転回点として、本来的に生きはじめることを、ハイデガーは呼びかけるのです。

目次へ