冷笑系(冷笑主義)とは何か

人生/一般哲学/思想

モノホンの冷笑主義(シニシズム)

冷笑主義(cynicism)は、古代ギリシャの「キュニコス派(Cynicism)」の態度を基にしています。
しかし、両者の実態は正反対のものです。
古代キュニコス派は、社会の偽善を暴くために自分自身がその偽善的社会規範から外れ、生き方そのものを通して批判します。
それに対し、現代シニシズムは、社会の偽善を暴きはするが、どっぷり偽善的社会規範の中に浸かり生き続けます。

ですから、キュニコス派の代表的哲学者であるディオゲネスは、富、名誉、身分、権力、慣習などを捨て、乞食同然の生き方をしながら、それらの内にある偽善を言論より生き様によって批判しました。
「社会は腐っている。しかし、社会が偽善によって準備する価値を捨てても、人間は幸福に生きられる」ということを自らの生き方そのものによって例示するのです。
その彼の生き方が「野良犬のよう(古希kynikos⇒英cynic)」だったので、シニシズムと呼ばれます。

ハッタリの冷笑主義(シニシズム)

それとは正反対の、現代のシニシズムを分析したのが、ドイツの哲学者スローターダイクです。

現代のシニカルな人間の本質は、社会の偽善や欺瞞を知りながら、その偽善や欺瞞に乗っかって生きているという点です。
しかし、その欺瞞を暴く批判的な上から目線の知識だけは持っています。
「世の中の醜い本当の姿を知っており、社会の建前を知り尽くしている」ということ自体が、自分を他者から差別化し、一種のステータスになり、その社会の欺瞞に乗っかる免罪符ともなります。
現代のシニシズムは、社会の欺瞞を知りながら、その社会に適応するための心理的防衛機制として用いられています。
ここにおいてシニシズムは批判的実践という哲学的な機能を失い、反対に現状肯定の非実践的な単なる知的態度に堕ちてしまいます。

喩えるなら、両親の偽善や欺瞞を暴き冷笑しながら、その批判を言い訳にしてニートをしている(両親に乗っかって生きている)幼稚な人間、です。
もし、本物の冷笑主義者なら、両親から離れ独立し、両親の生き方とは正反対の生き様を見せつけることによって、両親を批判します。

冷笑系流行の必然性

しかし、現代の日本で冷笑系が流行しているからと言って、彼らが単に幼稚なだけだと言って済ませることはできません。
なぜなら、現代人は、ネットの知識によって現実社会の裏側を知りすぎてしまったため、冷笑主義者にならざるを得ない、という側面があるからです。

古典的な啓蒙思想で社会の問題は、無知⇒啓蒙⇒真実を知る⇒解放される、と考えますが、現代社会ではその有効性が失われ、以下のようになってしまっています。

第1段階
人間は社会の建前を信じている。

第2段階
啓蒙・批判・暴露が行われる。

第3段階
人間は建前と現実の差を知る。

第4段階
しかし、知ったからといって解決もできず社会からも離脱できない。

第5段階
「どうせ世の中はそんなものだ」という態度になる。

第6段階
シニシズム←いまの日本?

スローターダイクは、現代人が道徳的に堕落したというより、むしろ、啓蒙そのものが成功した結果、シニシズムが生まれたと考えます。
現代日本の文脈で言えば、ネットによって批判的知識が豊富になる反面、どうにもならないという諦めも生じ、冷笑的な態度が醸成されます。
なぜ、様々な分岐がある中で冷笑的な態度に進むかといえば、それが先に述べたように「免罪符」として機能するからです。

「知っていること」が免罪符になる

現代のシニシズムにおける「私は騙されていない」という自己認識は、「だから私は問題の一部ではない」という意識を生じさせます。
「広告なんて全部インチキだ」と言いながらその商品を買う。
「政治家なんて自分のことしか考えていない」と言いながら政治制度を受け入れる。
「SNSなんて承認欲求の塊だ」と言いながらSNSを使う。
欺瞞を知っていることと、欺瞞から自由であることはまったく別ですが、自己欺瞞的にこれらを同一ものとして半ば意図的(あるいは無意識的)に誤謬します(つまり詭弁)。
「私はその欺瞞を知っている」という自覚が、「だから私は欺瞞に支配されていない」という錯覚を生みます。

シニシズムの果てのファシズム

スローターダイクがドイツでベストセラーとなったのは、それが上手くファシズムの発生を説明したからです。
近代以降の啓蒙的、批判的な知性によって、道徳の背後に利害が、政治の背後に権力が、知識の背後に支配が、性の背後に欲望が、宗教の背後に制度がある、などという具合に、社会の欺瞞は暴露されてきました。
しかし、問題はすべてを暴露してしまった後に何が残るのか、という点です。
もし、道徳→利害、愛→欲望、政治→権力、知識→支配、芸術→社会的地位など、すべてを裏返したら、もはや何も信じられなくなります。
しかし、それでも人間はその欺瞞に満ちた社会の中で生きなければならなりません。
ここから、「どうせ世の中そんなものだ」というシニシズムが生じます。
先のシニシズム続きは、以下のようになります。


第6段階
シニシズム「どうせすべては偽善だ」

共通の価値への信頼が失われる

政治的無力感・冷笑

「だったら、強い意志を持つ者に任せればいい」

権威主義への傾斜

第7段階
ファシズム

という流れです(勿論、この最後の部分は必然的な因果関係ではありませんが)。
「何も信じられない(シニシズム)」「だからこそ、何かを信じたい」という反転が起こります。
「民主主義?建前だろ」「自由?金持ちにとっての自由だろ」「平等?そんなもの現実にはない」「愛国心?政治家が利用しているだけ」と、すべての理念について「裏には利害がある」と批判し続けると、最終的には「では、何を信じればいいのか?」となります。
[勿論、「民主主義にも偽善がある」ということと、「民主主義は無価値だ」ということは全く違いますが、現代のシニシズムはこの二つを混同します。]

「すべてが嘘」になると、「本気であること」が魅力になり、ここでファシズムとの接点が生じます。
シニシズムがもたらした空白に、嘘でもいいから嘘だと分かっていながら埋めてくれる何かを求めることになるのです。
そこに「私は本気だ、私は真実を言う、私は決断する、私を信じろ」と述べる強き者(の姿をした道化)が入り込みます。
シニシズムであれば、当然その強き者の欺瞞を見抜いていますが、そのようなシニカルな批判理性は役に立ちません。
シニシズムを通過しているがゆえに「まあ、政治なんてそんなものだ」という前提を既に持っており、もはや批判的な機能をもちえません。
ファシズムの危険性を知っていながら、シニカルな無関心によって放置するのです。

ハッタリの冷笑主義を解決するのはモノホンの冷笑主義

では、どうすればこのようなシニシズム(冷笑主義)から脱出できるのかという問題が生じます。
「もっと正しい知識を与えればよい」という啓蒙主義的方法は現代のシニシズムには効きません。
現代人はすでに十分知っています。
だから必要なのは、知識の追加ではなく、行動です。
シニカルな人間はすでに真実を知っているので、理屈によって彼を変えることはできません。
必要なのは、ディオゲネスのように真実を身体化・行動化し、既存の欺瞞的な権威や規範を実践によって相対化することなのです。

具体的に言えば「行動実践による脱神秘化」です。
例えば、消費社会において商品が現代のカーストとして機能しているという欺瞞を言説によって批判するのではなく、ブランド品を一切持たずに堂々と社会生活を送れば「ブランド品がなければ自分は価値がない」という観念が崩れます。
単なる言説的批判では、(欺瞞的な)規範はほとんど揺らぎません。
しかし、誰か一人が堂々とその規範を破りながらも、社会生活を成立させることがあれば、周囲の人に「本当にその規範は必要だったのか?」という疑問が心の底から生じます。
つまり、行為が社会規範の必然性と欺瞞性を可視化するのです。
それはアナーキズムではなく、「社会が欺瞞的に絶対視しているものを、絶対ではないものとして取り戻す」という作業です。

冷笑系とは何か

「冷笑系とは何か」に対する答えは、「冷笑主義のカスのカス」となるでしょう。
モノホンの(古典的)冷笑主義から実践という中身を抜いたカスが、思考的機能しか持たないハッタリの(現代的)冷笑主義でした。
そしてこの思考の中身すら抜いた形式だけの冷笑主義(つまりカスのカス)が「冷笑系」です。
中身のない理屈で他者の欺瞞を暴き批判する形式のみによって、自己の優位性を感じたり、攻撃による快楽(ドーパミン放出)を得たり、他者に依存している情ない自己のプライドを補償したり、斜に構えた俺カッケーに酔いしれたり、無数の自己満足を獲得する者です。
スティーブ・ジョブズのように本当に意識の高い人の形式のみを真似、スタイルだけを消費する人々を「意識高い系」と呼びます。
それと同様、「冷笑系」とは、現代的冷笑主義のスタイルだけを消費する人々を指します。
もはや、それには、古典的冷笑主義との接点すらありません。

おわりに

私(管理人)のニックネームが「樽の中のネコデゲス」です。
野良猫と(大樽の中に住んだ)ディオゲネスの生き方に共感してつけたネームです。
だからこそ、昨今の冷笑系ブームを冷笑すると同時に悲しんでもいます。
冷笑系がハッタリの冷笑主義者に成ってくれることを、さらにハッタリの冷笑主義者がモノホンの冷笑主義者に成ってくれることを、期待しています。

おわり