ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』第二部

哲学/思想社会/政治

第一部のつづき

第二部、消費の理論

第一章、消費の社会的論理

幸福の平等主義的イデオロギー

人間には幸福追求の自然的傾向およびそれに基づく欲求が備わっていると素朴に考えられています。
「幸福」は消費社会の絶対的基準として、イデオロギー的な強い力を持っています。
しかし、このような力は、各個人の自然の性向に由来するようものではなく、社会歴史的な「平等の神話」の集約・具体化としての「幸福の神話」に由来するものです。
産業革命や19世紀の政治革命以来、平等の神話がもっていた政治的・社会学的有毒性は、現代において幸福の神話へと移転されています。
幸福の神話が平等の神話の担い手になるためには、幸福は(平等のように)測定可能でなければならず、物や記号によって計量可能なものでなければなりません。
記号や数字などの証拠を必要としない十全あるいは内的幸福は端から除外され、消費の理想における幸福は常に目に見える基準によって意味付けられます。
それは、平等主義の要請に支えられ人間および市民の権利宣言によって強化された個人主義的原則に基づくものであり、祝祭や集団的高揚などの幸福とはかけ離れた現代的なものです。
「幸福の革命」は、市民革命や人間の平等を掲げる(だけで実際は出来もしないし本気でもない)諸々の革命の後継者です。
この引継ぎにおいて、民主主義の原則は、能力、責任、社会的機会などの幸福に対する平等から、モノ(テレビ・車など)やステータスといった幸福の明瞭で記号的な平等へと移行しました。
具体的に見えて実質は形式だけの民主主義であり、それは(社会的矛盾や不平等を置き去りにした)形式だけの憲法上の民主主義と同種のものです。
これら二つの形だけの民主主義は、相互的なアリバイとして機能し、真の民主主義と平等の不在を覆い隠す民主主義イデオロギーとなります。

平等の神話性を基に、欲求(ニーズ)と幸福の概念が相互補完的に結びついた新たな神話(幸福の神話)が生まれます。
すべての人間は、(自然主義的な)欲求充足の原理の前において平等である、というわけです(欲求充足=幸福)。
つまり、すべての人間は、モノや商品の使用価値の前では平等(しかし交換価値の前では不平等)なのです。
もはや社会的、歴史的な不平等は存在せず、客観的効用(使用価値)のレベルにおいてはプロレタリアも特権階級も存在しない、という訳です。
[消費社会において富裕層と貧困層の間の文化的なギャップは無くなりつつあり、彼らは、同じようなものを食べ、同じような遊びをし、同じようなテレビ番組を観ます。]
幸福の神話には、不平等の社会的、歴史的意味を排除する強力なイデオロギー的機能があるのです。
福祉国家と消費社会の政治ゲーム全体は、財の量を増やすことで社会的矛盾を克服しようとするものであり、量による自動的な均等化と最終段階の均衡状態(万人が量的に充たされ完全な幸福がもたらされる)を目指します。
[つまり、不平等そのものを解決するのではなく、モノの量の増加によって不平等の社会的緊張を漸次的に弱めていく政策です。例えば、食物の無い飢餓状態の貧困層の隣で富裕層がすき焼きを食べていればその格差に強い緊張が生じますが、大量消費社会において貧困層が和食ファミレスのすき焼きを食べる隣で富裕層が三嶋亭の高級すき焼きを食べていてもそれほど強い緊張は生じません。]
政治的解決(社会的平等)を避け、経済的豊かさによる最終的解決(モノ・財の形式的平等)を目指す「幸福の革命」は、社会主義諸国においても見られる現象です。
「消費社会は平等と民主主義を実現しうるか」というよくある問題提起に意味はありません。
それは論理的・社会学的な分析を隠蔽し、物や記号や数字の(つまり消費の平等の)追求に置き換えるものにすぎないからです。

幸福の神話の理念は、「成長は豊かさを意味する」「豊かさは民主主義を意味する」というものです。
経済成長するにつれ不平等は減少していき、平等へ向かって継続的かつ着実に進歩する、という仮説です。
この仮説に対する反証的事実は、あくまで一時的な機能障害や発展の初期段階の未熟さのあらわれであると捉えられ、一般的・長期的に見れば民主化の実現であると考えられます。
ガルブレイス(経済学者)は、経済成長が不平等の問題を吸収し、もはや重要ではないもとして解決してしまう、と述べます。
「貧困層」とは、何らかの理由で運悪く成長システムの外側に取り残された人々にすぎず、成長の原理自体の問題ではないのです。
本当に彼の言うように、貧困問題は一時的なシステムの機能障害であり、後に成長の加速によって吸収されるようなものなのでしょうか?
現実的には、発展の各段階において貧困を機能的に再生産しているように見え、むしろ、成長そのものが不均衡に基づくと考えられそうです。
ガルブレイスの分析は、成長システムにおいては欠陥が機能的に関与していることを示しながらも、システム自体に疑問を呈するその論理的結論に尻込みし、リベラリズム的な修正を加えています。

ガルブレイスは、最下層にいる人々でさえ、いかなる形態の再分配よりも、加速的な成長の方が利益になると主張します(「生産の増加は再分配の代替物である。」ガルブレイス『ゆたかな社会』)。
しかし、これは見せかけのものに過ぎません。
成長が社会の全ての人々の所得や財を絶対的に増やすとしても、その核心においては(相対的な)不均衡のひずみが進行しており、このひずみの過程および率こそが、成長を構造化し、成長に真の意味を与えているのです。
数、量、絶対的増加、国内総生産で豊かさを簡単に評価し、極端な貧困や不平等が消滅したことに皮相的な満足を得ることは、豊かさを構造的に分析することとはまったく異なります。
構造的に重要なのはひずみ率であり、その率は、途上国と先進国、先進国の低所得層と高所得層、衰退産業と先端産業、農村部と都市部などにおいて大きくなっています。
慢性的なインフレーションはすべての値を引き上げ、この相対的な貧困化(構造的ひずみ)を見えなくします。
成長システム自体がその目的の達成を「ひずみ」に依存していることを考えれば、これが一時的ものだと主張することはできません。
富の絶対量に関わらず、常に体系的な不平等が存在しています。
無くならない機能障害の行き詰まりから抜け出すには、真の問題を抑圧する理想主義者の誤った設定を反省し、構造的なシステムの論理がはたらいていることを認識する必要があります。

実質的に「豊かな社会」も「貧しい社会」も未だかつて存在したことはなく、生産される財の量に関わらず、あらゆる社会は構造的な過剰と窮乏に基き構築されています。
過剰が、神の取り分、生贄、贅沢、剰余価値、利潤、顕示的予算であれ、それは常に特権的少数派の取り分であり、過剰の機能はまさにカーストや階級を再生産することにあり、それ(過剰)が社会の富と構造を規定するのです。
均衡は経済学者の理想主義的幻想であり、社会の実体や論理とは矛盾します。
現代社会のような成長段階に入ったとしても、このプロセスは変わらず、むしろ資本主義(生産至上主義)は、この機能的な不均衡をあらゆるレベルで合理化・一般化し、極限に至っています。
もし、GDPという虚構を放棄するなら、成長は我々を豊かさに近付けることも遠ざけることもないという事実が認識されるでしょう。
成長と豊かさは構造的に切り離されており、不均衡・不平等は、かつては経済成長の無い社会に存在し、いまは成長の中に存在している(成長を通した不均衡の再生産)だけです。
成長そのものが不平等の関数なのであり、成長が平等を生むか不平等をもたらすかなどという疑似問題とは関わりありません。
特権階級を維持する社会構造(不平等)の必要性が、戦略的要素として成長を生み出し、再生産するのです。
技術的・経済的成長に内在する自律性は弱く、この社会構造の規定性に従属します。
技術進歩などではなく、民主主義的平等の原則と特権的支配秩序維持の根本要請の妥協から、成長社会が生じているのです。
むしろ、この矛盾した二重の規定こそが、技術進歩の可能性を支えているのです。
これらのプロセスは、システムによる同毒療法的な調合で少しずつ供給される形で出現します。
この体系的プロセスにおいて、平等は(成長と同様)不平等の派生的な関数として存在しており、それは特権構造を維持する社会秩序の再生産に戦略的に貢献します。
民主化の徴候とは、このシステムの存続に不可欠なアリバイであるのです。

経済成長によって、富の利点(権力、享受、名声、尊敬など)が弱くなり、不平等の問題が重要で無くなった(不平等そのものが消失したのではなく)、とガルブレイスは言います。
しかし、これは現代において、不可欠である社会的差別や権力の価値基準が、富から別の場所に移り、もはや富の平等や不平等が直接的な重要性を失ったために、平等の存在が許されたと、考えるべきでしょう(もはや平等はそこで起こるのではない)。
勿論、社会的権力は、依然として富の水準と結びついていますが、その基準(社会的価値決定要因)のヒエラルキーにおいて、格下げされています。
富裕層は、顕示的消費から慎み深い超顕示的消費(後述の「メタ消費」)へ、量から質へ、金銭から文化(教養)へ移行することで差別化をはかり、特権的地位を維持します。
ガルブレイスらが見落としているのは、経済的不平等が問題ではなくなったということ自体、(問題の解決ではなく)新たな問題への展開にすぎないということです。
不均衡は、所得や消費の領域から、より広範な社会の領域へと移行し、より巧妙なものになっているということが見えていません(というより半ば意図的に見ようとしない)。

産業システムと貧困

産業システムの全体像は、以下の二つの異なる立場として要約されます。
ひとつは、ガルブレイスらの理想主義的立場であり、あらゆる負の現象(機能不全、公害、貧困など)を、偶発的で一時的なもの(いずれ修正可能なもの)として、システムの外部に(魔術的に)祓い除けるものです。
もうひとつは、システムは不均衡の上に成立するものであり、負の現象は構造的に組み込まれた必然的で常態的な内部にあるものと考える立場です。
システムは、富と貧困、満足と不満、進歩と公害などの両義的なものを同時に生み出し、社会を常に不安定な状態、絶えざる欠如状態におくことによって、己を維持するものなのです(社会自体の生存戦略として)。
システムが生き残りや再生のために、伝統的に戦争の力を借りてきたことは周知の事実です(今日このような戦争の機能は、日常生活に統合されている)。
成長の理想主義的(魔術的)立場は、客観的現実(成長の構造的パラドクス)を避ける、ナイーブで欺瞞的なものであり、それに基づく政策は何の解決ももたらしません。
貧困や公害などを根絶するための試みがことごとく失敗するのは、それが社会そのものの中にではなく、構造の中にあるからです。
むしろ、この事実は隠蔽されなければならないものであり、戦略的な誤認(メコネサンス)のために数千億円もの予算がつぎ込まれています。
[“メコネサンスは、主体がどこかで確かに有している象徴的な知識(サヴォワール)を想像的に誤認すること。誤認は無知ではない。誤認は、主体が執着する肯定と否定の特定の構成を表す。誤認の背後には、誤認すべきものに関するある種の知識が必ず存在する。”ラカン派精神分析の百科事典(https://nosubject.com/)]
社会は、個人と同様、分析(事実の認識)から逃れようとして自滅する可能性がありながらも、分析がシステム自体にとって致命傷となるため、成長という神話を維持する為の幻(社会の負の現象)との闘いに数千億の無駄金を使っても高すぎる代償とは言えないのです。
成長という神話は、貧困と苦闘しているふりをしながらも、深層に隠された目的に従い無意識的に貧困を永続させています(貧困は神話であり、成長の神話はそれを元に栄華を誇る)。
勿論、現代の産業および資本主義のシステムは、悪意を持って貧困や戦争を利用しているわけではなく(その面でリベラリズムやマルクス主義のような道徳的分析による社会批判は常に誤っている)、例えば、軍事費は教育よりも確実性が高く管理しやすく、システム全体の存続と目標達成により効果的であるという、単純な生存戦略的効率に基く選択にすぎません。
選択が(人間にとって)否定的なものに見えるのは、システムが自らの生存条件以外のもの(つまり社会や個人の内容そのもの)については、何も認識しないためです。
システムの内容(例えば、軍事費を教育に振替えるなど)を修正することでシステムを変えることができるという社会改良主義(資本主義社会の不合理・弊害を漸進的に改良することによってその体制を維持しようとする)的な幻想は無力であり、むしろ、このような社会的要請はシステム自体によってゆっくりと引き受けられ、実現されます。
それはシステムの新たな生産力として発見・配置・組織化され、より大きな栄華のために利用されるのです。
システムは(相対的に)暴力的構造から非暴力的構造へと移行しつつあり、露骨な搾取や戦争から、豊かさや消費に向かっていますが、それは単に自らの法則に従っているにすぎません。

新しい差別

現代において、大量の人工的財やサービスが万人に提供されているのに対し、過去においては万人に無料で提供されていた空間、時間、綺麗な空気や水、緑、静寂は、特権階級だけがもつ贅沢品となっています。
日常的な財は均質化し、社会階層を示すものではなくなり、不均衡は別の所に移転しています。
消費(モノに対する支出や所有という意味での)が、徐々に優越的な役割を失い、他の基準や行動様式が優先されるようになり、最終的に消費が万人のものとなった時、消費はもはや何の意味ももたないものとなります。
すでに、差別化の基準は、仕事の種類や責任、教育や文化水準、意思決定への参加などに表れてきており、知識と権力が、現代の豊かな社会における二大希少財になりつつあります。
勿論、このような抽象的基準だけでなく、具体的記号による差別化も拡大しています。
例えば、現代ではモノよりも空間的な社会的記号が(昔以上に)重視されています。
意識的に仕組まれた土地不足や慢性的な投機と結びつき、地理的差異(都市中心部、郊外、高級住宅地、ベッドタウンなど)と居住空間の差異(住居の種類)の両面において、差別化がはかられます。
自然、空間、静寂などの希少財化と高価格化は、社会階層の両端の支出に表れています。
肉体労働者と上級管理職の支出の差は、生活必需品では100対135にすぎませんが、住居費では100対245、交通費では100対305、レジャーでは100対390となっています。
この数字から、(量的な格差ではなく)獲得される財の質に基づく社会的差別化を読み取るべきでしょう。

健康、空間、美、余暇、知識、文化などの新しい権利と、それに対応する行政組織が生じます。
その制度化された権利は、人間の進歩を表すものであると見られますが、それは同時に逆のことを意味しています。
万人のための土地が無くなった瞬間に土地所有に関する権利が生じ、労働が個人固有のもので無くなった瞬間に労働に関する権利が生じたように、ある権利の発生はそのものの喪失を表しています。
もはや、万人のための静寂な空間はなくなり、空間が大部分の人間の犠牲の上に成り立つ一部の人々の特権となったことの証しとしての、空間の権利なのです。
余暇の権利の発生は、私たちが余暇を失ったこと(管理社会への移行)を意味しています。
豊かな社会で謳われる新たな社会的権利の出現は、その権利に関する要素が、階級の特権の差異的記号と地位を獲得したことの徴なのです。
「きれいな空気の権利」は、自然財としてのきれいな空気の喪失と商品への変容、および、その不平等な分配を意味しています。
資本主義システム(自然的価値の経済的利潤化および社会的特権化)の進歩を、客観的な社会進歩と取り違えてはなりません。

階級制度

学校教育が文化的機会の均等化に役立たず、むしろ社会的格差を増大したように、消費(大量生産)も社会の不均衡を是正するように見えながら、実質的には教育同様、より強力な階級制度をもたらしています。
「誰もが読み書きをでき、誰もが同じ洗濯機をもつ」というような平等は形式的なもの(抽象的な民主主義)であり、この形式的な同質性をベースにして、真の差別システムがより効果的に機能するのです。
それは、経済的な意味でのモノの不平等(モノの購入・選択・利用が階級によって決定される)というだけでなく、より根本的な差別である現実性(リアル)・合理性・自律性の不平等です。
一部の特権層を除く多くの人々は、商品だけでなくあらゆるもの(思想、余暇、知識、文化など)を物神崇拝的な消費的モノとして価値付けねばならない魔術的経済領域(消費のイデオロギー下)において強制的に生きさせられています。

救済の次元

モノは社会の本質(地位-ステータス-)を模倣するものに過ぎません。
地位は、少数の者には運命的恩寵(生まれ)によって与えられ、その他大多数の者には得られないものです。
この世襲的な正統性(血統的であれ文化的であれ)こそが地位という概念の核心であり、社会的移動の力学全体を方向付けます。
あらゆる願望の根底には、生まれによって与えられる(恩寵と優越性を備える)地位という理想(目的)が存在しており、それはモノを取り巻く環境にも潜んでいます。
世間を物神(フェティッシュ)の狂乱へと扇動するのは、この「地位」であり、「恩寵による救済」を得られない人々は、モノの価値によって「行いによる救済」を証明しようとするのです。
[自身の行いによって救われる「行いによる救済 (Salvation by Works)」と、神の恵みによって救われる「恩寵による救済(Salvation by Grace)」は、歴史的に議論され続ける救済論の対立的な立場(自力vs運)です。]
貴族的原理である恩寵という選択的な救済に対立するのが、民主的原理である行い(モノ)による救済であり、前者は後者よりも常に優っています。
下層階級と中流階級は、モノによって自己の優越性(救済)を証明し、天賦の恩寵の地位と並ぼうと必死に戦いながら、結局それは上流階級の占有地でありつづけ、彼ら(上流階級)はモノとは異なる場所(文化と権力の行使)でその優越性を証明します。

差異化と成長社会

この事実は、単に財やサービスの使用価値や欲求充足の論理を超え、社会的な記号表現(シニフィアン)の生産と操作の論理による分析が必要であることを示します。
この(記号論的)論理における消費プロセスは、以下の二つの面(意味上の差異と地位上の差異)から分析できます。

1. 消費活動がその中で意味を付与されるコードに基づいた、意味付けとコミュニケーションのプロセスとしての側面(この消費は交換システムであり、言語活動に相当する)。

2.社会的ヒエラルキーにおける地位的な価値として秩序付けられる、分類と社会的差異化のプロセスとしての側面。

対象をそれ自体(使用価値)において消費することはなく、集団への所属、あるいはより高い集団への移動のための記号として常に対象を操作しています。
誰もがこの差異化(記号的な自己の位置付け)によって、社会の中に組み込まれ、自己の居場所を確立し、社会の一員となります。
この過程には、生活的側面と構造的側面があり、前者は意識的で倫理的であり、後者は無意識的で構造的です。
それ(構造)は個人を超えた意味の制約や規則であるコード(ソシュール言語学の頁を参照)の中に存在するものであり、消費者は行動を己の願望、自由、選択として経験しながら(それを差異化の強制やコードへの服従とは意識しない)、継続的に己をそれへと登録し続けます。
自らを差異化することは、同時に差異の全体的秩序に協力し形作ることであり、個人はその差異の秩序の中で自らのポイントを稼ぐという行為そのものにおいて、社会の秩序を維持します。
自分とは、特定の差異の体系(その社会のコード)における相対的な存在にすぎないにもかかわらず、絶対的なものとして経験しています。
この相対性という制約こそが、差異の無際限の追及という消費の根本性質(限界のなさ)をもたらすという点で、決定的に重要なものです。
従来の欲求充足理論(使用価値の観点)に立てば、消費はすぐに飽和点に達するはずですが、現実は逆に、消費は加速しており、巨大な生産性が狂乱的消費性向に追いつかないほど需要は増大しています。
その裏で、生産と消費の調和的均衡という本来的な豊かさからは際限なく後退していきます。
この事実は、欲求充足という個人的論理ではなく、差異化の社会的論理によってしか説明が付きません。
差異の記号は常に肯定であると同時に否定の差異でもあり、記号は他の記号に際限なく言及し、消費者の欲求が充足されることは永久にありません。

従来のように、消費の場を均質なものと捉え、統計的な平均的タイプである「消費者」を中心に考えてはいけないのです。
消費の場は均一ではなく、構造化された社会的な場であり、そこでは財だけでなく、欲求そのもの、様々な文化的特徴が、モデル集団である指導的エリート層(上層)から、相対的な昇降関係を形成し、他の社会階層へと移行しています。
「消費者大衆」など存在せず、一般的消費者から自発的に生ずる欲求などと言うものもありません。
消費者の欲求はモノや財と同様、社会的に選択されたものであり、「スタンダードパッケージ」は、(上層の)「セレクトパッケージ」から出てくるものです。
欲求とその充足は、記号を通して距離と差異(差別)化を維持するという原則、一種の社会的命令に基き、下方に浸透(トリクルダウン)します。
消費の場全体を貫くのは、この上から下への法則であり、その逆(下から上へ、完全な均質化に向かう​​)の法則ではありません。

生産物の大量生産・普及(大衆化)は、上層での選別的な革新(イノベーション)によって生じた上級品が距離を維持するための効果を失い(差別化の効果の低下)、他の差異的なモノや欲求に置き換えられた時に、生じます(降りてくる)。
差異的記号の喪失による反動として、社会的距離を回復するためのイノベーションが起こるのです。
そのため、中・下層階級の欲求(ニーズ)とモノは、上層に対して常に時間的・文化的に一定の遅れを取り、これは民主主義社会における重要な差別形態となっています。
財の生産速度は経済・産業の生産性の関数、欲求の生産速度は社会的差異化の論理の関数という、異なるリズムを持つものであり(ここに成長の矛盾がある)、欲求を満たすための財の生産(リズムの一致)とは異なる独自の力学が存在します。
地位競争が一定のレベルを超えると、渇望は不可逆かつ無制限のものとなり、加速する社会的差異化と相互相対性のリズムに従い発展することになります。
つまり、欲求と生産性が調和しない、差異の論理に従い、渇望は制御不能な変数となります。
それは、経済的計算に基づく変数でも、具体的状況に基く社会文化的変数でもなく、他のすべての変数を秩序付ける構造的変数なのです。

勿論、欲求にはある種の社会学的惰性が存在します。
欲求や渇望は、(供給される財ではなく)達成された社会的地位にある程度連動しており、社会移動と同じプロセスが見られます。
そこにはある種の「現実主義」があり、人々は合理的に達成可能な期待の範囲を大きく超えるものを望むことはなく、客観的可能性を少し超えるものを志向することにより、成長社会の公式的規範を内面化します。
しかし、所有するものが少ないほど望みは減少するため(ある閾値を超え、非現実主義が貧困を補償しようとする逆転現象が生じるまでは)、最下層には諦め、最上層には自由な志向があり、願望の生産過程そのものにも不平等があり、客観的可能性は可能性のままに終わります。
消費願望(達成的志向)そのものが、特定の階級におけるこの深刻な社会移動の未達成(満たされない欲求)を補っており、(特に下層階級における)「過剰消費」の願望は、地位への要求であると同時に、その挫折の表出でもあるのです。
[精神分析の「過剰補償」の概念と似た仕組みです。無能であるという不安を埋め合わせる(補償)ために、必要以上の過剰な行動を為す心理状態。]

成長社会における、差異化と地位によって活性化される欲求(ニーズ)は、常に利用可能な財や客観的機会に少し先行する傾向があり、産業システム自体がこの財の供給に対する欲求の常態的な超過を前提にしています。
しかし、成長は、財の増大と欲求の増大の間の不均衡(ひずみ)だけでなく、この不均衡そのものの増大も伴うため、「心理的貧困化」と、潜在的かつ慢性的な危機を機能的に含んでしまっています(増大するひずみによる破局)。
社会的存在(意味の生産者であり、他者と相対的に価値を持つ存在)としての人間の欲求に限界はありません(例えば、食物の摂取量は有限ですが、食の文化システムにおける欲求は無制限です)。
広告の戦略的価値はここに存し、他者との相対的比較関係において具体化された社会的威信への渇望を起させることです。
広告は、一人の個人に向け語られるものではなく(時に個人の心の奥深くの動機に語るように見える)、常に他者との差異的な関係性において標的を定め語っています。
彼と周囲の人々と階層社会全体を、読解と解釈と自己顕示のプロセスへと引き込むのです。

伝統的な社会や小規模な集団においては、地位や差異を表すもののエスカレーションが弱く比較的安定していますが、都市化した社会においては、コミュニケーションが完全になり差異化への欲求は全体を巻き込む競争として指数関数的に増大します。
流行の独裁によるこのエスカレーション、つまり差異化の「連鎖反応」の幾何学的中心が都市となります。
都市の言説(ディスクール)とは競争そのものであり、動機、欲望、出会い、刺激、他者の意見(批判)、絶えざる性愛、情報、広告などが、普遍化した競争の盤上の集団的参加という運命を形作っています。
産業の集中が財の生産の増加をもたらすように、都市の集中は欲求(ニーズ)の無制限の増加をもたらします。
先に述べたように、都市の集中(差異化)は生産性に先行し、これが都市における疎外的現象の根底にあります。
しかし、結果としては神経症的な病的均衡が確立され、生産秩序に利益をもたらします。
つまり、欲求の増大が生産の秩序に逆流しながら、どうにかこうにか(tant bien que mal)統合されるのです。

成長に基く豊かな社会の実態は、その正反対のもの(心理的貧困化)なのです。
そこには、全面的競争および欲求と生産の間の絶えざる緊張(常態的な欠乏感)のうちにある貧しい人々による、生産秩序のために調整された欲求充足しかありません。
個人の自立的な欲求や自然な欲求など存在せず、在るのは成長システムの欲求のみです。
現代社会で問題となっている、自然な欲求を隠蔽する人工的欲求などという対立すら、成長のイデオロギー的産物にすぎない二次的なものであり、それは成長によって再生産され機能的に成長と結びつくものです。
理性的な欲求(教育、文化、健康、交通、余暇など)でさえ、その真の意義から切り離され、成長の体系的な将来的展望に取り込まれます。
ガルブレイスらが指摘する成長社会の機能障害も論理的なものであり、それはシステム自身の合目的性に基く欲求によるです。

財を生産する社会より前に、特権(とその前提となる貧困)を生産する社会であるという意味でも、私たちの社会は豊かさとは対極のものです。
特権と貧困は構造的に結びついており、成長とは構造的貧困の再生産であるのです。
この構造的貧困は、原初的な貧困(財の欠乏)とは異なる、決定的なものです。
原初的貧困は一時的なものとみなされ部分的には成長に吸収されますが、構造的貧困は成長の秩序の論理自体を駆動する体系化された戦略的貧困であるため、永遠に解消されることはありません。
「豊かな社会」の神話がもつ理想主義的図式(成長によって生産された豊かな財が海面のように均等に満ち万人が豊かになる)は自然の慣性に基く幻想にすぎず、社会の慣性は歪みと差別と特権にいきつきます。
成長は民主主義とはまったく異なるものです。
豊かさは差別そのものの関数であり、豊かさが差別を無くすなど論理的にあり得ないのです。

旧石器時代、最初の豊かな社会

「豊かな社会」の通説を捨て、マーシャル・サーリンズ(文化人類学者)の考えを受け入れるべきでしょう。
未開社会とは反対に、私たちの生産至上主義的な産業社会こそが(市場経済に特徴的な)希少性への執着に支配されている、という考え方です。
私たちは生産すればするほど、豊かさの目的地点(人間の欲求目標と生産の均衡・調和)から遠ざかっていくのです。
成長社会(生産性の増大)において満たされるものは、生産秩序の欲求(ニーズ)であり、人間の欲求ではないのです(成長システムは、これらのニーズの錯誤に依存している)。
組織化された希少性の支配(構造的貧困)のために(真の)豊かさは拒絶され続けるため、私たちは豊かさから際限なく後退していくのです。
サーリンズは、狩猟採集民(オーストラリアやカラハリ砂漠などの遊牧民)は絶対的な「貧困」にもかかわらず真の豊かさをもっていた、と考えます。
彼らは所有物を持たず、物に執着せず、​​自由な移動のために投げ捨てます。
生産装置も「労働」もなく、いわば「余暇に」狩猟採集を行い、獲得物はすべてを集団内で共有します。
経済的な計算も蓄財もせず、すべてを即座に消費する完全な浪費家なのです。
ブルジョア階級の発明品である経済人(ホモエコノミカス)とは無縁であり、(絶えざる欠乏と競争による不安とは正反対に)自然資源の豊かさに信頼を置き、安心しよく眠る、というのが彼らの経済システムです。

未開社会の特徴である集団的な「将来に対する気遣いの欠如」と「浪費」こそが、真の豊かさの証しであり、私たちが持つのは豊かさの記号にすぎません。
サーリンズは、貧困とは財の量の少なさではなく、人と人との関係の貧しさだと言います。
社会関係の透明性と互恵性が未開の人々の「信頼」の根底にあるからこそ、貧しさの中にあっても豊かに暮らせるのです。
そこには、自然物、土地、道具、生産物(労働)などの、独占や不公正な交換による欠乏もなければ、(権力の源泉となる)蓄積もありません。
贈与と象徴的交換の経済においては、財は常に人から人へと渡るため、少量の有限量の財だけで普遍的な富を生み出すことができるのです。
富は財のうちではなく、人々の間の具体的な交換のうちにあるのです。
たとえ限られた数の個人の間での交換サイクルであっても、交換の各瞬間において価値が付加されるため、(限りないサイクルにおいて)富は無限となります。
原始的な社会においては、人と人との関係性そのものがモノの価値を生じさせ、(社会=個人の)富を増大させるのに対し、現代社会においては、他者との関係における相対的差異が所有するモノの価値を決定するため、(個人の)欠乏を増大させます。
社会的関係は豊かさを生むものから、文明化と産業化を経て、競争と差異化に基く無限の欲求と絶えざる欠乏を生むものとして転化されるのです。
極めて生産性の大きい現代の「豊かな」社会において豊かさが失われていくという主張は矛盾ではなく、豊かさと富の構造上の定義の誤謬であり、社会関係の革命だけがこの定義を正すことができます。
未開人の豊かさも、現代人の贅沢で(見世物的に)華々しい貧困も、共に社会的論理に基づくものです。

 

第二章、消費の理論のために

ホモエコノミクスの解剖

ホモエコノミクス(経済的人間)は、次のような行動原理をもちます。
1. ためらうことなく己の幸福を追求する。
2. 最大の満足を与えてくれるモノを選好する。

一般的な消費の理論は、「人間は欲求を授けられ、その欲求は充足を与えるモノへと導く」という昔ながらの神話的寓話に倣うものです。
経済学者にとって欲求とは「効用」、消費目的で特定の財を欲しその財の効用を消滅させること、です。
したがって、欲求は利用可能な財によってあらかじめ目標付けられており、選好も市場で提供されている製品の選別によって方向付けられており、欲求とは基本的に有効需要(購買力を伴う需要)なのです。
心理学者にとって欲求は、もう少し複雑な「動機付け」理論となり、「対象指向」というよりは「本能指向」的なものです。
社会学者および社会心理学者は社会文化的側面を加え、上のような欲求の観念的仮説に基づき欲求の社会的力学を語ります。
社会と歴史の全体と関係する壮大な「文化モデル」としての欲求です。
社会学者らは以下のように考えます。
選択は偶然によるものではなく、社会的にコントロールされた(ある特定の文化モデルを反映した)選択であり、財の生産も消費も偶然ではなく、ある価値体系との関係において何らかの意味を持つものだと。
経済の目的は個人の生産の最大化ではなく、社会の価値体系との関係における生産の最大化なのです。
人々は、或る特定の社会の階層(ヒエラルキー)における自分の位置に応じて所有する財を選択しているという事実からして、消費者の行動は社会現象と捉えざるを得ません。
経済学者の言うような経済的に合理的な選択などではなく、社会的に順応的な選択であり、欲求は「モノ」にではなく「価値」に向けられています。
消費者の(自動的で無意識的な)選択は、特定の社会のライフスタイルを受け入れることであり、もはや選択とはいえないものです(この事実から消費者の自律性と主権の理論は否定される)。
このような考えは、リースマンの「スタンダードパッケージ」という概念に集約されます。
それは、平均的なアメリカ人の基本的な富を構成する財とサービスの集合体であり、中流階級の生活の標準モデルです。
一部の人々はそれ(American way of life)を超え、他の人々はそれを夢見るだけですが、これは財の内実というより、同調の理想を意味するものです。
[「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」は、大量消費を基盤とする豊かな生活様式を指す言葉。郊外の庭付き一戸建て、自家用車、家電製品、カジュアルウェア、外食・レジャーといった消費行動を通じて、自由や幸福を体現するアメリカ特有の文化や価値観をあらわすもの。]

しかし、このような社会学は前進をもたらしません。
それは、これが単なる同語反復的な言い換えにすぎない(特定の財を消費するから特定の社会集団に属するのであり、特定の財を消費するのは特定の社会集団に属しているからである)、ということだけでなく、経済学者の「個人とモノ」の関係が社会学者の「個人と集団」の関係にそのまま転用されているにすぎないからです(以下に詳述)。
経済学者の「効用」と社会学者の「順応」の間の相異は、消費者は選択において自由な個人であると考える経済学者には現れない、「欲求の条件付け」の有無です。
欲求の条件付け(特に広告による)は、社会学的に消費を論じる際の主要なテーマであり、その「人為的で」「疎外された」欲求に対する大袈裟な嘆きは、人間主義的伝統に基づく古い道徳・社会哲学の根にあるイデオロギーを強化するものにすぎません。
それよりも客観的な考察に基づくガルブレイスの理論に焦点を当てる必要があります。
現代資本主義の問題は、「利潤の最大化」と「生産の合理化」の間の矛盾ではなく、「潜在的に無限の生産性」と「生産物を販売(処分)する必要性」との間の矛盾であると、彼は考えます。
この段階のシステムにおいては、生産装置だけでなく消費者の需要をコントロールすることが不可欠になります。
それは、生産行為に先立つ手段(世論・市場調査)や生産行為の後の手段(広告、マーケティング、条件付け)を通じて、購入者から意思決定権を奪い取り、企業側に移し、自由に操作できるようにすることです。
個人の市場行動と社会一般の態度を、生産者の必要とテクノストラクチャー(大企業経営の実質的支配権をもつ専門家集団およびその技術的経営構造)の目標に順応させることであり、この順応は大企業システムに本質的な論理的特徴です。
消費者が市場を通じて生産企業に影響を与える「正統的・古典的な因果連鎖(消費者→市場→生産者)」から、生産企業が市場行動をコントロールし消費者の社会的態度や欲求を形成する「逆転した因果連鎖(生産者→市場→消費者)」に代わったのであり、これは生産秩序の全面的独裁とも言えます。
[この二つはガルブレイスの用語「accepted sequence(公認の因果連鎖)」「revised sequence(改正した因果連鎖)」ですが、ボードリャールは「filière classique(古典的な因果連鎖)」「filière inversée(逆転した因果連鎖)とニュアンスを変えています。]

この「逆転した因果連鎖」は、経済システムにおいて権力をもつのは個人であるという「古典的な因果連鎖」の神話を打ち砕くという意味では、批判的価値をもちます。
個人の権力の強調は、消費者主権の拡大を大義名分とした、システムの機能障害や公害や矛盾の正当化に役立つものです。
市場調査や動機調査などの経済的・社会心理学的装置全体は、客観的プロセスとは逆の過程(消費者主権)を演出することによって事実を隠蔽することが唯一の目的となっています。
販売が製造よりも困難になった時、人間が人間にとって科学の対象となったのです。
ガルブレイスは、テクノストラクチャーによる「人工的加速装置」が、需要の安定化を不可能にしていることを非難します。
需要の過剰刺激によって過剰化された所得、購買、労働は、「心理的欲求」の高揚に基づく狂乱の悪循環、消費の地獄のロンドを形成します。
自由な所得と自由な選択に基づいている(と消費者自身に思われている)心理的欲求は、「生理的欲求」とは異なり、非常に操作しやすいものとなるのです。
ここでは広告が重要な役割を果たし、広告は(一見、個人的欲求と製品に合致しているように見えながら、実際は)産業システムに合致しているのです。
広告を通じて、社会の目標をシステムの利益へと誘導し、システム自体の目標を社会全体の目標として植え付けるのです。
文明の到達点である消費者の自由と主権(個人の自由な欲求充足と自由な選択)は単なる神秘化された幻想に過ぎず、それは、産業システムのイデオロギーそのものであり、システムの恣意的な権力とあらゆる公害(環境汚染や文化の堕落等)を正当化するものです。
「逆転した因果連鎖」は選挙制度のイデオロギー的補完物であり、ドラッグストアと投票所は体制の二つの乳房となっています。

消費における欲求の条件付けの問題は、疑似哲学的な疎外論として主題化され、それ自体が消費の一部としての集団的表象を作り上げています。
観念論的な人間学的仮設によって万能感をもつそれは、批判されなければならないでしょう。
ガルブレイスは、個人の欲求は(疎外がないなら)安定化可能であると考えます。
人間には自然な経済原理のようなものが備わっており、均衡の取れた満足を得る傾向が存在し、もし「人工加速装置」がなければ人間の目的や欲求や努力は調和的に制限されたものとなるのであり、それは、同様に調和のとれた集団的欲求の社会組織に基づくであろう、などという理屈(ユートピア的空想)です。
ガルブレイスら消費に関する疎外論者たちは、(大団円で登場させるための)自由で意識的な主体を必要不可欠な前提とするため、人間は、人間とモノとの関係および人間と自己の関係において、欺かれ、操作されているという主張に固執します(この疎外論神話自体をモノと同じように消費しながら)。
そのため、彼らは、自らが発見するあらゆる機能不全を、(広告や動機づけを武器とするテクノストラクチャーという)悪魔的な力に帰するしかなくなります。
疎外論者のような個別に切り離した欲求(ニーズ)など無意味であり、欲求のシステムのみがあるだけです。
欲求とは、個人の水準での、生産力の合理的システム化の進化形態に過ぎないということであり、そこにおいて消費は論理的かつ必然的に生産の役割を担う(中継する)ものなのです。

ガルブレイスの問題点は以下の三つです。
1.消費者の経験から、欲求充足のどれが「人工的(偽)」でどれが「自然的(真)」かを決定することなど出来ず、もしテレビ視聴を疎外的な欲求充足であると述べるのであれば、それは知識人たちが疎外された道徳屋であるということを示すにすぎません。
2.経済成長および産業システムの発展によって、途上国のお気楽な人々が自然な性向を捨て、競争的な消費傾向をもつ都合のよい労働者と成るという事実は、差異化の社会的論理なしには説明がつかず、それを見落としたガルブレイスは「システムの受動的な犠牲者としての(疎外された)個人」などという幻想に頼らざるをえません。
それは社会構造の根幹を成す民主主義社会のカーストであり、あらゆる欲求は記号と差異(差別)の客観的な社会的需要を中心に再編成されています。
「調和のとれた」個人の満足(自然の理想的な規範によって制限可能な)としての消費ではなく、無制限の社会の活動としての消費を根拠づけるものです。
3.「欲求は実際には生産の産物である」とガルブレイスは言いますが、それは生産システムがなければ多くの(人工的)欲求は存在しないという意味であり、「自然な真性の欲求」の巧妙な言い換えにすぎません。
企業は商品やサービスを生産すると同時に、それらに対応する欲求も「生産」していると彼は述べますが、もしそうであれば、消費者の心は商品に対応(経験的モノの鏡像としての経験的欲求)して入れ替わるショーウィンドウのようなものとなってしまいます。
しかし、現実の消費者はそんな単純なものではなく、企業側の指示に抵抗したり、欲求とモノを自身で関係付けたり、広告が反対の反応をひき起こしたり、同一の欲求に対してモノが代替的に入れ替わったりします。
企業の生産戦略に消費者の心理学的・社会学的な複雑な戦略が貫入しているのです。
したがって、単に「欲求は生産の産物である」と言うべきではなく、「欲求のシステムは生産のシステムの産物である」と言うべきでしょう。
欲求のシステムとは、(欲求がモノとの関係において個別に生み出されるのではなく)消費力として、生産のより一般的な枠組みの中で全体的な性向として生産されることであり、この意味においてテクノストラクチャーはその支配力を拡大していると言えます。
生産の秩序は、享受の秩序を自らの目的のために捕らえるのではなく、享受の秩序を否定し、あらゆるものを生産力のシステムへと再編成することにより、取って代わるのです。

現代が豊かさと享受(消費)の時代と言っても、欲求と消費の実態は、生産力の組織化された延長にすぎず、いまだ産業革命時代の支配的な道徳観(生産至上主義的なピューリタン的倫理)につきまとわれています。
ピューリタンのイデオロギーは、消費のプロセスによって再活性化されており、現代人の消費を内側から駆り立て、強迫的で無制限な性格を与えているのは、まさにこの倫理なのです。
[ピューリタン的倫理とは、マックス・ウェーバーの言う資本主義の精神のこと]
個人の私的領域(欲求、感情、願望、衝動)を生産力として統合することによって、産業システムは構築されてきました(特に19世紀以降)。
個人の領域は、抑圧、昇華、集中、体系化、合理化、疎外という図式の一般化を伴わざるを得ないのです。

モノの流動性、欲求の流動性

現代までの消費に関する分析は、古典的経済学のイデオロギーの延長線上にある「欲求とその対象および充足」に関する理論でしたが、これは同語反復的なもの(「私はこれを買うのは、これが欲しいからだ」」)であり、およそ理論とは言えない魔術的思弁です。
このレベル(欲求充足の合理主義的神話)では消費の理論は成立しません。
消費に固有の領域は、対象が記号的な価値を帯びるコノテーション(共示義)の領域なのです。
[コノテーション(共示義)についてはバルトの記号学の頁を参照してください。簡単に言うと表示的な意味(デノテーション-表示義-)に対する表示的でない意味のことです。例えば、駐車場の黒い物体の表示的意味は「メルセデス・ベンツ社の車」ですが、表立った明示的でない別の意味として「お金持ち」「ヤクザ」などという無数の意味(義)が共に示され(共示)ています。]
消費におけるモノは、もはやそれ固有の表立った意味や機能や必要(つまりデノテーション的なもの)から切り離された領域(コノテーション)にあるのです。
消費においては無数のあらゆるモノが洗濯機と置き換え可能になります。
[つまり、表示義においては異義だが共示義においては同義。「ベンツの車(乗る物)」と「ロレックスの時計(時間を見る物)」は表示義においては異なるが共示義においては同じ(お金持ちアピ)であり、共示義を軸とする消費においては交換可能。]

モノと欲求は、ヒステリー的な転換性障害(心因性の身体的疾患や障害)のような論理に従い、ずれ、転移、変換が為されます。
(症状とその身体部位に必然的関係が存在する通常の病気と異なり)その症状は記号と同様に相対的な恣意性をもち、頭痛、胃腸障害、腰痛、咽喉頭異常感、全身疲労などといった身体的な記号表現(シニフィアン)の連鎖に沿って「ぶらつく」のです。
それと同様、モノと欲求は合理的目的性の必然性によって結びつくのではなく、記号としてのモノの連鎖を欲求が「ぶらつく」のです。
もし私たちがある欲求をある特定の物への欲求と素朴に考えるなら、医者が心因性の障害に対し通常の(身体的部位への)治療を為すのと同じ過ちを犯すことになります(症状は転移し続け特定の部位にはない)。
現代消費社会における物と欲求の世界は、一般化されたヒステリーの世界のようなもので、同様の転換のパラダイムの中にあります。
この生滅する絶え間ない流動性によって、欲求の客観的な特殊性を定義することが不可能になります(ヒステリーにおいて病気の客観的な特殊性を定義することが不可能であるのと同様)。
なぜなら、それは存在しないからです。
ある記号表現(シニフィアン)から別の記号表現への生滅流転は、それ自体が欠如(非存在)に基づいているからこそ、永遠に解決できない欲望となり、次々と変化するモノと欲求において局所的に自らをあらわすことになるのです。
欲求とは特定の対象への欲求ではなく、差異への欲求(社会的な”意味”への欲求)であると認めるならば、合理主義者たちが述べるような欲求充足などあり得ず、欲求の定義付けも不可能であることが分かるでしょう。
欲求の流動性に差異的意味作用の流動性も加えて考えなければなりません。
個別的な欲求の流転的な交代によって、欲求は意味の真の領域(欠如と差異の領域)を、覆い隠してしまうのです。

享受(享楽)の否定

消費は「対象を欠く渇望(リースマン)」であり、モノと享受(享楽)が目的である(ように見える)消費行動は、欲望の間接的な表現にすぎず、実際は差異的記号を通じた価値の社会的コードの生産へ向けられています。
モノ群を通した自己利益という個人的な機能ではなく、記号群を通した価値の交換、伝達、分配という社会的な機能なのです。
消費は、享受の機能でも個人的な機能でもなく、生産の機能および集団的な機能であるというように、伝統的な考え(享受の現象学)を転倒しなければ理解することはできません。
消費とは、記号の秩序化と集団の統合を保証するシステムであり、この社会的機能と組織構造が個人のレベルを超えた無意識の社会的強制となっているという事実に基かねばならないのです。

逆説的ですが、消費は享受を排除するものとして定義されるのです。
社会的論理としての消費システムは「享受の否定」という基盤の上に成り立ち、享受はもはや合理的でも目的的なものでもなく、目的が別の場所にあるプロセスの(個人的なレベルでの)合理化として現れるのです。
人々は個人の意識のレベルでは自分個人のために消費し楽しみますが、それは決して個人が行っているわけではありません(これは消費に関するあらゆるイデオロギー的言説によって巧妙に維持されている消費者の幻想です)。
人々はコード化された価値の交換と生産という一般化されたシステムに無意識のうちに入り込み、すべての消費者と相互関与しているのです。
消費は、言語(ソシュール)や原始社会における親族体系(レヴィ=ストロース)のような意味作用の秩序なのです。

構造分析

婚姻の規則が、社会集団内での女性の循環を確保する、つまり生物学的秩序における血縁関係のシステムを社会学的なシステムに置き換える方法を表したものであったように(レヴィ=ストロースの頁を参照)、消費の規則は、財と生産物の機能的・生物学的なシステム(生物学的な欲求と生存レベル)を、社会学的な記号システムに置き換えるものです。
それらは一種の言語活動、すなわち個人と集団間の特定の種類のコミュニケーションを確保するために設計された行為と見なすことができます。
財やモノは、コトバや原始社会の女性と同様、人為的で一貫した包括的な記号システムを形成しています。
この文化的システムは、必然的な欲求と享受の世界(自然的・生物学的秩序)に代わる、価値と分類の社会秩序なのです。

欲求や自然的効用が存在しないということではなく、現代特有の消費を特徴づけるのは、この消費の第一段階(どんな社会においても当てはまる)から記号体系へと全般的に再編されたことであり、それは自然から文化への移行の特有な様式の一つであるということです。
差異化された記号としてのモノの流通、購入、販売、保有は、現代人にとっての言語活動、コード化であり、社会全体が互いにコミュニケーションを取りあっています。
それが消費の構造であり、それ(ラング)と比較すると、個人の欲求や享受(享楽)は単なるパロール的なものに過ぎません。
[ラングは一般(普遍)的な言語体系、パロールはその言語体系に基づく個人の具体的発話]

娯楽システム、享受の強制

消費の原理と目的が享受ではないことを示す証拠は、現代においてそれが強制され、権利や楽しみではなく、市民の義務として制度化されていることです。
ピューリタン(ウェーバ―的な)は、自分自身を、神の栄光を高めるために利益を獲得する事業と見なしていました。
人生をかけて築き上げる個人的な資質(人格)は、無駄遣いなく管理し適切なタイミングで投資すべき資本でした。
反対に(しかし同じように)、消費的人間は自分自身を享受と満足を義務付けられた事業と見なします。
幸福で、夢中で(amoureux)、おもね/おもねられ、魅了し/魅了され、関与的で、陶酔的で、活力に満ちていることを己の義務と見なします。
これは、接触と関係性を増し、記号やモノを積極的に利用し、あらゆる享受の潜在力を体系的に開発することによって存在(existence)を最大化する原理です。

消費者(現代市民)にとって幸福と享受の強制は、伝統的な労働と生産に相当する回避不能な新しい倫理です。
労働による生産に費やす時間が減少しますが、自らの欲求と満足の生産に費やす時間は増していきます。
幸福の権利のために、常に自分のあらゆる潜在力、消費能力が発揮されるよう(強迫的に)気配りしています。
現代人は受動的などではなく、常に活動に従事しており(従事しなければならない)、もしそうしなければ、彼は(自分が持っているものに満足する)反社会的存在になるという危険が生じます。
もはや問題となっているのは特定の欲望でも嗜好でも性癖でもなく、漠然とした不安感に駆り立てられた一般的好奇心、「娯楽の道徳」であり、楽しみと満足を得るための自分のあらゆる潜在力を最大限に引き出すことへの義務なのです。
ここにおいて、料理、文化、科学、宗教、セックスなど様々なものが一般的好奇心の対象として復活し再び活力を得ます。

新たな生産力の出現と統制としての消費

消費は、社会的規則によって常に制約されている個人が私的な領域で自由意志や個人的裁量を取り戻すことができる不確定なセクターであると考えられていますが、消費の実態は、集団的な活動、強制、道徳、制度であり、集団の統合と社会的統制の機能をもつ価値体系です。
消費社会は、消費を学習し訓練する社会であり、新たな生産力の出現と、高い生産性をもつ経済システムの再構築に結びついた、特殊な社会化様式なのです。

消費社会において「クレジット(信用販売)」は典型的概念であり、重要な役割を果たしています。
なぜならクレジットは、「満足と豊かさへの容易なアクセス、快楽主義的精神、倹約などの古いタブーからの解放」といった名目のもとに、本来であれば需要計画に乗らず消費力として搾取されることのなかったであろう人々に対して、強制的貯蓄(収奪されるための)と経済的計算に関する体系的な社会的訓練を行うものだからです。
「賃金労働」が労働力の搾取と生産性の増大という合理的プロセスであったのと同様に、「クレジット」は、貯蓄の搾取と需要の調整の訓育的プロセスなのです。
これにより、大衆はもれなく資本主義的基礎行動を為す精神性を習得し、「近代生産主義的資本主義の基礎にある合理的かつ規律的な倫理(ウェーバー)」は、これまで資本主義が捉えきれていなかった領域全体を浸食することになります。
19世紀に生産部門で起こった生産力の合理化の過程は、20世紀に消費部門において頂点に達します。
産業システムは、大衆を労働力として社会化した後、次いで彼らを消費力として社会化することで、自らの計画を完成させます。
消費するかしないかを自由に選択できた戦前の無統制な消費者は、もはやこのシステムにおいては居場所を与えられないのです。

消費のイデオロギーは、「私たちは革命によって、苦難に満ちた英雄的な生産の時代を克服し、安楽な消費の時代、新時代に至ったのだ」と宣伝します。
しかし、(真実の)消費は、生産力とその統制の拡大再生産という同一のプロセスなのです。
システムによる命令は、逆の形(つまり欲求の解放、個人の実現、享楽、贅沢、など)をしており、極めて巧妙な策略として、人々の日常的な意識や倫理を浸食していきます。
本質的に何も変わらない一般的なプロセスとシステムの枠組みの中で、(相対的に)非効率になった古い価値体系が、新しい価値体系に置き換わっただけに過ぎません。
新たな目的となるはずであったもの(豊かさ、消費、享受)がその真の内容を空虚にすることで、システムの再生産の強制的媒介になってしまっているのです。
消費者の欲求と満足は、他の生産力(労働力など)と同様に強制され合理化された生産力なのです。
豊かさと消費は、実現されたユートピアなどではなく、同じプロセスの新しい道徳によって二重に規定された客観的状況にすぎません。

現代の消費は、以下のような強制として現れます。
1、構造分析のレベルにおける、意味作用に伴う強制。
2、戦略的(社会的・経済的・政治的)分析における、生産と生産サイクルに伴う強制。

豊かさと消費は、現実的経験としてではなく常に神話として生きられ、それは新しいタイプの集団行動への”適応(順応)という客観的過程として耐え忍ばれるもの”となっています。
政府は自由の名のもとに個人や民間団体の力を強調し、消費は市民としての義務となり、自分たちの力(消費)によって自国の経済成長を促進するという使命を帯びています。
もはや「倹約は反アメリカ的」(William H.Whyte)なものなのです。
「(生産力としての)消費」のみならず、「欲求(ニーズ)」も生産力ととらえられ、それは英雄時代の「労働力」の等価物です。

個人のロジスティクス機能

「個人は、貯蓄およびそこから生じる資本の提供によってではなく、製品を消費することによって産業システムに貢献する。宗教、政治、道徳といった他のいかなる事柄においても、個人がこれほど大掛かりかつ巧妙に高額な費用をかけて教導されることはない」(ガルブレイス)。
システムは、個人を労働者および貯蓄者としてよりも、消費者として必要としています。
現代において生産性は技術と組織に委ねられ、投資は企業自身に委ねられており、個人が代替不可能な必須の存在となるのは、消費者としてです。
システムの重心は、競争的資本主義の象徴である起業家や個人貯蓄者から、個人消費者へと移行しています。
競争段階における資本主義は、個人主義的価値観と利他的価値観のハイブリッドな体系によって維持されてきました。
伝統的(キリスト教的)な利他的社会道徳という虚構が、社会関係の対立を吸収する役割を果たしていました。
しかし、今日ではそのような均衡を維持することは不可能です。
「自由市場」が事実上消滅し、官僚的・国家的・独占的コントロールに取って代わられたのと同様、利他主義的なイデオロギーでは最低限の社会的統合を回復するにも不十分で、個人主義の激化を止める唯一の手段は国家による集団的制約のみです。
システムは消費者の個人主義を増進させると同時に、制約しなければならないという矛盾を抱えています。
消費者に対して「消費水準こそが社会功績の公正な尺度である」と強要しつつ、同時にその消費に対する社会的責任やモラルを強制しますが、これは矛盾しています。
なぜなら、消費は社会労働であり、個人は消費活動そのものによって既にその社会的責任を果たしているからです。
消費者は「生産」のレベルと同様に、消費のレベルにおいても労働者として動員されています。
したがって、「消費労働者」に、労働の賃金に比する消費の対価(個人の満足)を社会の利益のために犠牲にするよう求められないはずです。
[例えば、私は自動車を買っても、「交通渋滞」という自動車の生産と消費がもたらす社会的問題に対する責任とモラルのために、公共交通機関を使ってレジャーに向かうという自己犠牲的な振る舞いを求められます。]
消費者たちは、潜在意識のどこかで、この疎外された労働者としてのこの新たな地位を直感的に理解しており、(消費者の責任に対する)社会的連帯を求める呼びかけを欺瞞的なものとみなし頑固に抵抗しますが、これは政治的な防衛反応に過ぎません。
消費者の「熱狂的な利己主義」は、現代における新たな被搾取者であるという無意識的な自己認識のあらわれでもあります。
この抵抗と「利己主義」がシステムを解決不可能な矛盾へ導き、システムはそれに対し強制を強めることしかできないという事実は、消費が巨大な政治的領域にあることを示しています。
消費に関する言説は、消費者を(政治的社会的解放の挫折に代わる、あるいは挫折にも拘らずかかわらず達成される)「人間解放」を実現する普遍的(理想的)人間と考えます。
しかし、消費者は普遍的存在などではなく、政治的社会的存在であり、ひとつの生産力であり、それゆえに(生産手段ではなく)消費手段の所有権および経済的責任(生産の内容に対する責任)などの根本的な問題を孕み、深刻な危機と新たな矛盾の可能性を含んでいます。

消費的自我(エゴ・コンシューマンス)

[社会学の「消費する存在(Homo consumans)」をもじった見出しです。]
労働(生産者)は分業という事実により集団の一部であるため、労働における搾取は集団的な社会労働の部門に影響を与え、ある一定の閾値を超えると連帯を生み出し、それは(相対的な意味での)階級意識をもたらします。
一方、消費財やモノの所有(消費者)は、個人化させ、連帯と歴史性を奪うため、消費における搾取は孤独でバラバラな群衆全体に及ぶものとなります。
消費は閉鎖的なものであり、消費の満足も不満も自己のうちで展開され、不満に対する抵抗が集団行動へと至ることはありません。
この私的領域は、否定性をもたないモノ(私の肯定によって選ばれしモノたち)だけで構成された閉じた空間であり、消費対象(モノ)は人を孤立させるのです。
それでいて、この私的領域、個人の欲望の領域は、生産システムの政治的戦略によって外部から構造化されており、私たちの「存在の物質性(単調さと気晴らしの欲望のサイクルにおけるモノの消費)」を占拠しています。
この消費対象は差異を生み出し、社会的地位の階層化を生じさせ、消費者を分別化して集合的コードを割り当てますが、この集合性はいかなる連帯にもつながらない(むしろ逆の)ものです。
消費者は、19世紀初頭の労働者のように意識を欠いた未組織の孤独な存在です。
民主主義において、民衆が政治的・社会的領域に参入せず未組織状態の労働者である限り「民衆」として称賛され担ぎ上げられたのと同様、消費者は消費することだけに満足している限り「強力な消費者(Powerful Consumer)」(ジョージ・カトーナ)としておだてられるのです。

 

第三章、個性化(パーソナライゼーション)、最小限界差異(P.P.D.M.)

自分らしくあるべきか、そうでないべきか、それが問題だ(To be or not to be myself. )

高級車の種類によって己の個性を表現する富裕層も、ヘアカラーの種類によって己の個性を表現するマス層も、社会階層の著しい隔たりはあれ、差異化・個性化へのプレッシャーにおいては同じです。
それは、モノの選択による「パーソナライズ」というジャングルを切り拓き、己の奥底に潜む個性を際立たせる何か、自分を自分らしくしてくれる僅かな差異(最小限界差異-後述)を必死に探し求めているという点で、消費者全員共通しています。

しかし、もしある人が「何者かである」ならば、それで自分の個性を「見つける」ことができるのでしょうか?
そして、その個性があなたを悩ませている間、あなた自身は一体どこにいるのでしょうか?
もし、あなたがあなた自身であるとして、あなたは「真の」自分自身でなければならないのでしょうか?
もし、あなたが偽りの自己であるとして、ヘアカラ―の些細な色の違いで真の自分を取り戻すことなどできるのでしょうか?
そして、あなたが自分自身であるとするなら、どのようにして「これまで以上に真の」あなたになれるのでしょうか?
まるで、企業の資産における剰余価値のように、自分自身に価値を付加していくことができるのでしょうか?

今日最も求められているのは、このような(非論理的で内的矛盾に満ちた)「パーソナリティー(個性)」であり、広告が呪文のように唱え続ける「自分で自分自身をパーソナライズしなければならない」という「過剰に自己言及的な」指令が語る裏の真実は、「もはや誰も居ない(個性を持つ人間の不在)」という事実です。
かけがえのない特性と絶対的な価値を持つ「個性」(ヨーロッパの伝統が神話として持ち上げてきた情熱と意志と個性を持つ主体的人間)はすでに絶滅し、私たちの機能的世界からは一掃されているのです。
この失われた存在は、記号の力によって、差異の多様化において、つまりメルセデスやヘアカラーにおいて、合成的な個性を再創造するために設計された無数の記号の中で、抽象的に再構成され、最終的には完全な匿名性の中で砕け散ることになります。
なぜなら、差異とは定義上、「名前」を持たないものだからです。
[記号的差異に基く個性の探求は、必然的に挫折します。]

差異の産業的生産

すべての広告は意味が欠如し、意味作用のみを伝達するだけであり、その意味作用(およびそれが引き起こす行動)は決して個人的なものではなく、すべて示差的で組合わせ的でマージナルなものです。
この意味作用は、差異の産業的生産によって生じるものであり、この事実が消費システムを定義付けるものです。
[意味作用(シニフィカシオン)は、「意味するもの(シニフィアン)」と「意味されるもの(シニフィエ)」を関係付ける意味の獲得プロセスそのものです。]

かつて個人を特徴づけていたリアルな差異は、人々を相容れない存在にしていました。
それに対し、「個性化」の差異は、個人同士を同じモデル(無限の尺度で階層的に配列された)に収束させるものであり、このモデルに基き、差異は生産・再生産されています。
自己を他者と区別すること(個性化)は、この抽象的なモデルに所属し、流行の組み合わせ形態を参照して自己を特徴付ける(ラベリング)ことであり、これは同時に、他者や世界との具体的対立関係の中でしか生まれないリアルの差異や特異性を自ら放棄することでもあります。
差異化は奇蹟であると同時に悲劇であるのです。
消費過程全体は、人工的に(力を増幅させるために)数を減らしたモデルの生産によって支配されており、独占的傾向が見られます。
差異の生産にも独占的集中が存在するのです。
「差異」と「独占」という相反するものが結びつくという矛盾は、まさにその差異が本当の差異(個人を特異な存在として際立たせるもの)ではなく、コードへの適合および価値の階梯への統合を示すものだからです。
現代人は、リアルな「自然」を排除した上で記号的に復元する「自然化」された自然にしか接しないように、「個性」は「個性化」された個性としてのみ存在します。
リアルな機能(使用価値)に上書きされる抽象的な機能(記号価値)であり、このような抽象的な機能(ファンクション)化は、歴史的に規定されるものです。
産業の独占的集中により、リアルな「差異」が消し去られ均質化することで、「差異化」の支配をもたらしたのです。
財の生産のみならず、諸関係も差異も独占的に生産されます。
そして、巨大な企業の独占的生産構造と、微小な消費者の個人主義的消費構造には論理的共謀関係が存在しています。
個人が消費する差異は、一般化された生産の主要セクターのひとつにすぎないのです。
生産と消費の様々な内容(財、モノ、サービス、関係、差異)は、独占による均質性によって結びつけられています。
今日においては、すべてが同じ様式で生産され消費されるよう運命付けられているのです。

上述のような機能化された組み合わせ的文化(文化化)は、組み合わせ的パーソナリティー(個性化)にも反映しており、「文化化」がマスメディアを通じた「最小共通文化(P.P.C.C.)」(第三部を参照)の集団的な再教育によるものであったように、「個性化」は日々の「最小限界差異(P.P.D.M.)」の再教育によって成り立っています。
それは、己のスタイルやステータスを示すための小さな質的差異を探し出すよう求めるものです。
ケント(煙草)、アルファロメオ2600(車)、ジャック・ファットの香水、ブリジット・バルドーと同じビルトインコンロ、特別な焼目の入るトースター、プロヴァンス産のバーベキュー炭、等々、こうした「マージナルな」差異自体が、微妙なヒエラルキー(階層構造)に属するものです。

こうした些細(マージナル)な差異はすべて、差異表示物の分配に関する一般的法則(刑法以上に無視できない法則)に従い、厳格な社会的差別を形作ります。
流動的ではあるものの、ひとつの儀礼であるこの差異の規範(コード)に違反することは許されていません。
上司と同じメルセデスを買ったセールスマンが解雇されたという面白いエピソードが語るように、使用価値としてのモノの前では万人が平等ですが、厳格なヒエラルキー(差別的階層)に基く記号や差異としてのモノの前では平等など存在しえないのです。

メタ消費

この個性化、ステータスの追求は、モノや財そのものに基づくのではなく、記号と差異に基づいているという事実が、「過少消費」の逆説を理解可能にします。
見せびらかし的な顕示的消費ではなく、控えめで飾らない消費によって示される超-差異(差別)化が「過少消費」の本質であり、これは誇示的過剰がその反対へと転化しより巧妙な差異へと変化したものです。
差異化は、モノの拒絶、消費の拒絶という形をとることがありますが、あくまでそれはより高次(メタ)の消費形態にすぎません。
[メタ消費の典型がブルジョワヒッピー(現代でいうBOBOS)です。BOBOSとは、裕福(Bourgeois)でありながら、ヒッピーのような自由でカジュアルな精神(Bohemians)を好む現代の上流階級。]
記号のレベルでは絶対的な富も貧困もなく、富の記号と貧困の記号の間に対立もなく、流動的相対的に変化します。
上流階級のメタ消費に対し、中流階級は(ひと昔前の古臭い富裕層と似た)顕示的消費の傾向があり、文化的に素朴であるといえます。
この背後には階級的戦略があり、上流階級は顕示的消費をあえて抑制すること(過少消費)によって新興勢力に対する壁を築き、階層を維持しようとするのです。
このような記号の反転に惑わされ、階級間の区別のあり様の変化に過ぎないものを民主化の効果と誤解してはなりません。
インテリ層の「misérabilisme(貧困主義)」や「prolétarisme(労働者主義)」は、あくまでブルジョワ的条件を基盤として消費されるものであり、失われた貧しさは豊かさの基盤の上で完成し消費されるのです。
転倒される効果、矛盾した言葉による祓い除け、失われる現実は、差異の論理に基づく消費を現示するものです。

社会的な差異化の論理によってのみ消費を具体的に定義できるのであり、それ(記号としてのモノの消費)は使用価値(とそれに結び付く欲求)の追放の上に成り立っているのです。
消費における嗜好は、個人と文化的対象とを関係付けることにより個人の能力(個性)を発展させるようなものではありません。
文化的対象が、他者との関係性を築くための方法として多用される場合、対象は個人的な価値観において意味を持つことが無くなってしまうためです。
現代における(要・不要問わず全ての家にある)自家用車の所有は、個人の使用価値によるものではなく、アメリカ的生活の象徴としての社会的な記号的価値によるものです。

区別か順応(同調)か

伝統的社会学は、「個人を他者と差別化したいという欲求」と「他者と同調したいという欲求」という相反するものを交互に存在させ、何の論理もないまま、社会心理学的レベルで共存させています。
この混同状態は、「平等と差別の弁証法」「同調と独自性の弁証法」などと名付けられています。
しかし、消費は、名声(差別化)や同調の要求に応じて集団の文脈に上に指数化される、「個人の欲求をもつ個人」を中心に秩序付けられているわけではありません。
先ず差異化の構造的論理が存在し、個人を「個性化されたもの(互いに異なるもの)」として生産する反面、それは一般的モデルとコードに従うものであり、個人は個性的に成る(個性化)という行為そのものにおいて、それに順応します。
独自性/同調性の図式は本質的なものではなく(それは単なる体験的レベル)、根本的な論理は、コードに従う差異化/個性化の図式です。
同調とは地位の平等化、集団の意識的な均質化などではなく、共通のコードを持ち、他の集団とは異なる存在となるために同じ記号を共有することです。
集団のメンバー間の同質性(同調性ではない)を生み出すのは、他の集団との差異であり(差異に基く合意)、同調は単にその結果(効果)に過ぎません。
意識的な社会力学の表面的現象の研究から、無意識的な社会論理の領域へと、つまりコード、構造的関係、記号体系、差異表示素材の分析へと移行しなければなりません。

システムをシステムとして成り立たせているのは、個々の人間の固有の内容と特異性を排除し、区別する記号として産業化・商業化できる差異的形態に置き換えるという事実です。
あらゆる本来の性質を排除し、差異を生み出す図式と、その図式の体系的生産のみを残すのであり、このレベルにおいては、差異はもはや相互排他的なものではなく、モードの組み合わせにおいて論理的に相互関連し合います。
集団の統合を確固たるものとするのが差異の交換であり、コード化された差異は個人を分断するどころか(相互関連する)交換の素材となります。
消費を定義付けるのは、モノの機能的な使用でも単なる権威付けでもなく、コミュニケーションと記号の交換のシステムとして定義付けられるのです。
現代において、消費されることも交換されることもない本質的な差異などなく、社会化された諸記号の差異が巨大な消費の連合体の中で交換され続けています。
この交換可能性は、慣習の「自由化」などというものではなく、差異が体系的に生産され、それらすべてを識別記号として統合する秩序に従うことにより生ずるものです。
代替可能な差異の間に本質的な緊張や矛盾は存在しえず、もはや露骨な暴力的闘争は無く、個々人はモードというコードを通して濾過されたゲームのような抽象的競争を通して集団に貢献しているのです。
集団のメンバーは選好を社会化し、評価を交し、絶え間なく競争することによって、集団の内部的相互性と自己愛的結束を確保しているです。

コードと革命

現代の社会システム(資本主義、生産主義、脱工業化)は、平等主義的かつ民主主義的なイデオロギー的文化的価値体系に基づき、社会を統制しているわけではありません。
学校教育や社会学習を通じてかなり内面化されているとしても、権利や正義などの意識的な平等主義的価値は脆弱であり、明らかに客観的現実と矛盾しており、社会を統合するには十分な力をもちません。
このようなイデオロギー的レベルでは、矛盾は常に爆発する可能性がありますが、システムは無意識的な統合と規制の装置に頼ることができます。
この装置は、平等とは正反対に、個人を差異(差別)のシステム、記号体系に組み込むものです。
これが文化であり、言語活動であり、最も深い意味での「消費」なのです。
政治的に有効なのは、矛盾を平等と均衡に置き換える状況ではなく、矛盾を差異に置き換える状況を作り出すこであり、社会的矛盾の解決策は平等化ではなく差異化にあるのです。
この記号体系のレベルでは革命は起こり得ず、あるのは日々生じる無害なモード(流行)の革命のみであり、それはリアルな革命の可能性を圧し潰します。

「消費」が社会の強い緊張を緩和できるのは、個人に快適さ、満足感、社会的地位を惜しみなく与える(溺れさせるを)ことによってであると、古典的分析の支持者は考えます。
このような稚拙な欲求理論は、むしろ人々を(やがて訪れる)極度の困窮に陥れ反乱を誘発しようとする、不条理な希望でしかありません。
そうではなく、「消費」が社会的緊張を鎮めるのは、人々を無意識のうちにコードとそのレベルでの「競争的協同」に馴化させることによってです。
より快適な生活を送らせることによってではなく、ゲームのルールに従って行動させることによって、緊張を緩和するのです。
消費は、あらゆるイデオロギーに取って代わり、原始社会における階級制や宗教的儀式のように、社会全体を統合する役割を単独で担うことができるのです。

構造的モデル

広告は、視聴者の独自性の欲求を満たすナルシシズムを掻き立てながら、同時に大量生産された量産品を売りつけます(「個性化された」ナルシシズムというパラドックス)。
私は私の選択した理想に(消費によって)近付き、「真に自分らしく」なることで、私は集団の命令に最も忠実に従うことになり、押し付けられたモデルに一致するのです。
消費社会における個人のナルシシズムとは、独自の特性を享受することではなく、屈折した集団的特性なのです。
ここにおいては、独自性を求めるナルシシズム的過程は、同調主義と矛盾しないのです。
それは常に、P.P.D.M.(最小限界差異)を通した自分自身へのナルシシズム的な投資(investissement)として現れます。
[investissement:投資、没入、心的エネルギー備給(精神分析)]
現代社会ではいたるところで、個人は自分を好きになり自分の満足と自己陶酔を得るナルシシズムを促されています。
ここにおいては、他者との関係だけでなく、自分自身との関係も消費される関係となります。
これは、己のリアルな特性によって自己満足を得る(消費とは無関係の)自発的で自然的なものではなく、記号によって媒介された消費の関係によって定義されるものです。
自己を消費できるのは、自分自身に対する関係が記号によって客観化されているからであり、それらの記号こそが消費の真の対象となるモデルを構成しているのです。
「自己を個性化(パーソナライズ)」する際に消費するのは、まさにこのモデルです。
自然な特性によって自己の価値があることと、あるモデルに従い既成のコードに順応することで自己を価値あるものにすることは全く異なり、後者は機能的特性・関数的価値にすぎません。
ナルシシズムの形態は、マスメディアによって産業的に生産され、かつ識別しやすい目立つ記号で構成されたモデルによってあらかじめ定められ与えられているのです。
ブリジット・バルドーと同じ記号(髪型、服装、口元の形など)を所有し群衆から自分を際立たせること、つまりモデル(機能的○○性、ここでは機能的女性性)の実現によって己の独自の個性を獲得した気になるのです(それでいて皆が同じようなものになる)。
自分を創造するつもりで行為をしながら、実際には自分自身を消費しているだけなのです。

第二部おわり

第三部につづく