私たち人間は、人間として生まれる限り、強制的に「言語」を取得させられます。
言語という象徴の体系に参入させられれば、もう二度とその象徴世界から出ることはできなくなり、現実を象徴(記号)を介してしか捉えられなくなります。
言語は、意味(「何であるか」という国語辞典的な定義)と価値(「何のためにどれほどのものか」という質的・量的価値判断)から成り、あるひとつの言葉は前者の「区別(横の意味区分)」と後者の「差別(縦の価値区分)」において、(色立体のように)その文化独自の体系内に収められます。
そして、その文化特有の象徴の体系に従い世界を判断し、それがその人にとっての「現実」となります。

言葉の区別化(定義)および差別化(価値)の仕方は文化によって異なる相対的なものです。
あるモノを指す言葉が異なる地域の象徴体系において逆の価値を持っていたり、あるモノを指す言葉が別の時代の象徴体系には無くそのモノが存在として認識されていなかったりします(勿論、個々人においても異なりますが大枠は文化的に決定されています)。
しかし、私たちはそのような相対性を省みない為、いち象徴にすぎない(私の)現実世界を実体化してしまいます。
つまり、言葉とモノが表裏一体の絶対的な関係にあり、私の象徴は直接現実を表現するものだと考えるのです。
言語なしに人間は何ものも認識(対象化)できず、「世界」もまた文学にすぎません。
「文学」の反対に位置付けられる「数学」は、物体を扱うのに特化した象徴の体系であり、出自は同じ単なる記号です。
「現実的」でないことを「文学的」と言って批判する人は、自身の象徴の体系を絶対化する、むしろ非現実的な人(他人の文学性を批判することにより自身の文学性を覆い隠す自己欺瞞)です。
強制的に象徴世界に参入させられた瞬間に、人間は記号化されない真の現実世界(そんなものがあると想定して)を永遠に失うのです。
くだいて言えば、世界はポエムであり、人間は皆デイドリームビリーバー(白昼夢を信じる人)なのです。
楽しむためにポエムやドリームを用いるのは良いですが、苦しむために用いてはいけません。
それは「記号にすぎない幻想世界(素朴に信じられた現実のこと)ごときに苦しんでんじゃねぇ。生(なま)の現実をもっと楽しめよ!」というような仏教の坊主のようなことを述べているのではありません。
「生の現実」なんてたぶん無いので(悟ったことないので知らんけど)。
そうではなく、ネガティブなポエム(悪詩)やドリーム(悪夢)からは、自分の意志で醒めましょう、という話です。
例えば、「バカ」というネガティブな言葉を私に投げられたとしても、醒めて見れば、それは単なる空気の振動(音声言語)あるいはインクの染み(文字言語)にすぎませんが、言葉を実体化する私はそれを真に受け、憤慨して相手を殴り殺したり、傷心して自殺したりしてしまうかもしれません。
(無意味な)戦争が起こりそうな時は「なんで俺たちはこんなポエムに命を懸けようとしてるんだ?」と醒め、平和な公園で恋人といい感じの時はそのポエムに全力で酔い楽しむということです。
受験競争に負けてビルの屋上から下を眺める時は「なんで俺はこんな白昼夢のせいで死ぬ必要があるんだ?」と醒め、受験競争でトップを走っている時はその白昼夢に全力で酔い楽しむということです。
ホモ・ロクエンス(言語的存在)として人間に成る以上、嫌でも人類皆ポエマー、ドリーマーであり、生きている間は世界を美しく描きつづけるという天職(使命)があります。
おわり
