人間はすぐに調子に乗ります。
キャバ嬢におだてられて調子に乗った私は、周囲の客観的な意見も聞かず、社内で人気の女性にアタックし、玉砕し、見事に現実をみせつけられ、調子の波から転落します。
それと同様、人間はすぐに不調子にも乗りますが、ここに大きな問題が生じます。
調子に乗っても、現実の出来事がすぐに引きずりおろしてくれますが、不調子に乗った場合、その波から降りることができなくなるという問題です。
調子に乗ると、積極的な行動が無数に生じるため、その結果として現実に直面する機会も増えます。
現実の失敗が、客観的実力以上の妄想的見積もりによって肥大化した全能感(調子乗り)から、目覚めさせてくれるのです。
しかし、不調子に乗ると、行動を控えてしまうため、結果としての現実に出会う機会(現実によって客観的に実力を査定する機会)がなくなり、私はずっと、客観的実力以下の妄想的見積もりによって矮小化した無能感(不調子乗り)から、目覚めることができなくなります。
調子に乗った時も、不調子に乗った時も、他人の忠告は耳に届きません。
現実の結果によって、実体験として思い知らされない限り、人の考えは変わりません。
すると、私は、偶然やってくる現実に頼って、不調子の波から降りるしかなくなります。
例えば、落ちぶれたボクサーが、偶然飲み屋で屈強な男に絡まれた女性を助けるためにワンパンでそいつを伸したら、実は相手は世界チャンプだった!みたいな展開で、偶然得た現実の査定の機会によって不調子から運よく目覚めるような感じです。
いわゆる「ひきこもり」の最大の問題は、ひきこもることによって現実による査定の機会を完全に失ってしまうことです。
本当(客観的実力として)は優れた仕事ができるのに、本当は魅力的な異性と一緒になれるのに、不調子の波から降りられない彼らは、ただ、偶然の現実の機会を待ち望みながら、老いていくのです。
多くの偉い先人達が、「調子に乗ること」を戒めてくれていますが、私たちは、それ以上に危険な「不調子に乗ること」を警戒しなければなりません。
警戒していても、一度乗ってしまえば自力では降りることの困難な不調子の波にさらわれた時、私はどうするべきなのでしょうか。
それは、不調子である時こそ、調子のいい時以上に調子のいい時のような心持で行動し、現実と出会う機会を得る(その不調子が客観的現実か主観的妄想か査定する)、ということです(調子がいい時とは、調子に乗っている時ではなく客観的に調子がいい時のことを指しています)。
人間の行動は、心の志向通りの結果を生むよう制御されため、不調子の心持で行動しても意味がありません(むしろ現実によって不調子を実証し強化してしまう)。
不調子な時に、調子のいい時のような心持で行動するなど、矛盾しており不可能だと感じられるかもしれません。
しかし、人間は本来矛盾した心的構造をもつ存在であり、私たちは日常的に自己欺瞞や暗示などという生物的には異様な原理によって行動しています。
偶然の現実の機会を待っていられるような長い時間があるなら、一度その矛盾を試してみても損はないはずです。
現実の些細な機会が、私を永遠の不調子から解放してくれるかもしれません。

『アルプスの少女ハイジ』友達との喧嘩という現実の機会によって不調子の波から降りたクララ
おわり
