仕事の目的
一般的に、仕事の第一の目的は「食っていく」ことです。
「食っていく」といっても、現代は狩りをしたり畑を耕したりして直接的に生活の糧を労働によって獲得するのではなく、ほとんどの人は直接的には糧とは関りのない労働の対価として金銭を得、その金銭を媒介として糧を購入し、「食っていく」のです。
私は仕事をすることによって、何らかの価値を創出し、その価値を必要とする人を客として、価値と金銭を交換します。
お掃除が得意な私は、「部屋を綺麗にする」という価値を生み出すことができ、その「部屋を綺麗にする」という価値を必要とする人に販売します。
前者が供給(価値の供給者)、後者が需要(価値の必要者)です。
互いが互いに仕えること(仕事)によって、経済が回転します。
「仕事」と「お金儲け」
しかし、価値を提供することによってお金を得るのとはまったく別の方法で、大きなお金を得ることも出来ます。
例えば、株の売買や金貸しのように、価値とお金を交換するのではなく、お金(資産)とお金(資産)を上手に交換しながら増殖させていく方法です。
これは「仕事」ではなく、単なる「お金儲け」です。
資本主義の初期には、このようなお金儲けをする者は、卑しい人間であると蔑まれていました。
価値を創出せずにメシを食う無能者、社会の穀潰しとして扱われていたのです。
しかし、資本主義の末期(現代社会のこと)には、これが反転し、価値を創出するために汗水たらすダサイ「仕事」ではなく、クールでスマートな「お金儲け」で裕福に成った者こそが社会の勝ち組(有能者)として扱われます。
「仕事」の王道
「仕事」とは、メシを食っていくのに必要なお金のために価値を創出し、価値の需要者に対し価値を供給し、お金を得る、という行為です。
価値の大きなものは高く売れ(多くのお金と交換でき)、価値の小さなものは安くしか売れません。
仕事における進歩とは、よい仕事をすることでより大きな価値を創出できるようになることであり、よりよい仕事をすることは必然的に対価としての金銭をもより大きくしていきます。
ですから、「頑張って仕事をして、日々精進し、その結果として大きなお金を獲得する」というのが、「仕事」の本質、王道とも言える方法です。
「仕事」に偽装した「お金儲け」
しかし、先ほどの「お金儲け」が「仕事」とは別の詐術的な方法で大きなお金を獲得したように、「仕事」においても詐術的な方法で大きなお金を獲得することができます。
「価値」を決定するものは、価値の購入者の需要(必要)です。
よい仕事が価値が高いのは、人々がよい仕事を必要としているからです。
よい料理なら、人はそこに価値を感じお金を出しますが、悪い料理には価値を感じずお金を出しません。
基本的に人々の必要(需要)を引き出すのは「よい仕事」ですが、別の方法も無数にあります。
例えば、心理学を援用して、洗脳的・詭弁的な広告によって人の必要(需要)を操作すれば、価値のないものを高額で売ることも可能です。
例えば、価値(≒必要)は状況によって変化するため(「かき氷」の価値は夏場に上がり冬場に下がる)、状況そのものを操作することで、価値の低いもの(あまり必要とされていなかったもの)を高額で売ることができます。
もし、私が製薬会社の社長であれば、こっそり市中に感染症ウイルスを撒き大儲けするかもしれませんし、政治家と仲良くし有利な法改正を促し、価値を高める状況を作るかもしれません。
人々の必要(需要)を喚起するために、「よい仕事」ではなく、仕事とは別の方法で大金を得るのは、「仕事」の体裁をとりながら本質的には「お金儲け」であり、「仕事」ではありません。
「仕事」人という絶滅危惧種
資本主義末期の現代日本においては、大半が「お金儲け」を目的としており、「仕事」をしている人は、もはや絶滅危惧種です。
「よい仕事」が積み重なっていくことで、やがてそれは「天職」となり、人生そのものと一体化しますが、現代の仕事は嫌々やるものであり、私の人生に対し敵対的で分離的な異物と化しています。
仕事の体裁をとったお金儲けの場合、努力精進の必要のない「悪い仕事」をいかに価値あるものに見せかけ、高く売るかの勝負になります。
「お金儲け」の基本は、可能な限り安い投資で可能な限り高いリターンを得るということです。
私たち現代人は、程度の差はあれAmazonの中華業者のように、粗悪な商品を高級に見せかけ儲けるというような、アコギな商売と似たようなことを為しています。
資本主義的競争原理の理想は、ライバル同士でよりよい仕事を競い合い(価値の高め合い)、その切磋琢磨が社会を加速度的に豊かにしていく、というものです。
しかし、現実はその逆で、貧しさの競争(価値の低め合い)です。
どちらがより「よい仕事」かを競い合うのではなく、どちらがより「ずる賢いか」の競い合いであり、仕事の良し悪しは二次的なものです。
よい仕事以外の詐術的方法で価値を高める人ばかりになると、必然的に「よい仕事」は「悪い仕事」の中に埋もれ、「よい仕事」をしてもお金が得にくいという状況が生じ、多くの人々が「仕事」人から「お金儲け」人へと、改宗していきます。
そして、社会から価値を創出する人がどんどん居なくなり、全体として価値の低い貧しい社会となり、やがて廃墟と化します。
さかさまの世界
仕事人とお金儲け人の本質的違いは、実体のある価値を創出するかどうかです。
「仕事人」は実のある価値を創出し、「お金儲け人(金で金を増やす人)」は価値を創出せず、「仕事人のフリをしたお金儲け人」は虚構の価値を創出します。
昔は、よい仕事をする人=高い価値を生む人=社会に貢献する人、ということで、お金持ちは天職の証しとして尊敬されていました。
しかし、現代のお金持ちの大半は、価値を創出することなく、(他人が創出した)社会の価値をいかに収奪するかを考えているだけの卑しい人間です。
しかし、転倒的な現代社会においては、卑しい人間が尊敬され、尊い人間が馬鹿にされるという逆転現象が生じはじめています。
仮想通貨で儲けた億り人や、イグジット(会社の売り抜け)目的の起業家などのインフルエンサーが、札束のお風呂に入っている姿に、人々は本気で憧れと尊敬の眼差しを向けています。
「よい仕事」をしたら負け
真面目に働き「よい仕事」しても、その金銭的対価も人格的評価も低いのであれば、一体、仕事人は何を動機として「お金儲け」ではなく「仕事」をし続けるのでしょうか?
内発的動機付け(やりがい)で仕事を楽しむ一部の人はそれで良いかもしれません。
自己の成長や仕事の探求そのものが楽しいなら、金銭的対価や人格的評価が低くても、仕事人で居続けられるでしょう。
しかし、多くの人々は評価や報酬という外発的動機付けによって仕事をしています。
よい仕事をしても、まともな評価や報酬が得られないなら、お金儲け人に転向するか、悪い仕事のままダラダラ生きるのが(いわゆる計画的怠業)、最適解になります。
「働いたら負け」「働かないおじさん」という言葉の流行の裏には、資本主義末期の奇形化した仕事に対する嫌悪感と諦めがあります。
仕事が魅力的でないものになればなるほど、人は「よい仕事」を止めるどころか、仕事そのものを辞めてしまいます。
社会は、価値を作らず奪うだけの人(金儲け人)、虚構の価値を作る人(仕事人のフリをした金儲け人)、戦略的に価値の低いものしか作らない人(働かないおじさん)、価値を作らない人(ニートなど)の構成で占められ、今後、日本全体の質が加速度的に悪くなっていくでしょう。
共産主義は、仕事(価値創出)の競争を止めさせることによって仕事に対するモチベーションを奪いますが、資本主義は仕事(価値創出)の競争から金儲け(価値収奪)の競争にスイッチすることによって仕事に対するモチベーションを奪います。
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真の穀潰しは誰か
お金儲け人の一部は、貧しい労働者(貧しい=生産性が低い)や生活保護受給者(生産性ゼロ)を社会の寄生虫として蔑みます。
「俺の税金で養ってやっている穀潰したち」だからです。
しかし、実質は、社会的な価値を生み出していないという意味では、お金儲け人も生活保護受給者も同類です。
お金儲け人は、貧しい労働者が生み出した価値を収奪することによって得た大金を、税金という形でほんの少し返しているだけにすぎません。
暴君や虐待親のように、奪うだけ奪って、時々、被害者にほんの少し返し与えることによって、己に対しても被害者に対しても扶養や愛という優位性の幻想を生じさせることができ、巧妙に被害者の敵意を敬意に変え、搾取構造を永続化します。
生活保護受給者は現在仕事(社会的な価値の創出)をしたくてもできない人達(さらに言えば過去あるいは未来においては価値を創出する可能性の有る人)であるのに対し、お金儲け人は、非常に高い能力を持ちながらも仕事(社会的な価値の創出)をせず、自らの意志で大量の社会的価値を食いつぶす穀潰しになっているという点で、より質の悪い存在です。
お金儲け人は自らの寄生性・依存性を、生活保護受給者に投影し、叩くことによって、自己欺瞞的に己のプライドを保護します。
誤謬から事実認識へ
ここで生じているのは単純な誤謬です。
「社会的に優れた人(社会に価値を提供する人)は、人より多くのお金(対価)を得る」という事実から、誤った論理(いわゆる後件肯定の誤謬)によって、「たくさんのお金をもっている人は、社会的に優れた人である」という原因(主)と結果(従)を転倒した勘違いを生じさせています。
人々が、誤謬に気付き、事実による認識に立ち返り、お金の量ではなく価値の大きさを基準にすれば、実は、現在、底辺職と呼ばれている人々が尊敬すべき社会的に優れた人であるということに気付くはずです。
札束の風呂に入るインフルエンサー(お金儲け人)に憧れるのではなく、社会に大きな価値を提供している街角のいち働き者(仕事人)に憧れる人々が増えれば、それだけ社会は豊かなものになっていきます。
一部の過激なお金儲け人は、貧乏人を駆除すれば社会はもっと豊かになる、などと述べますが、実際にそれが実現すれば、己の資産がどんどん減少し、己が貧乏人に養ってもらっていたことに気付くはずです。
もし、お金儲け人が、マネーの魅せる幻想から醒め、事実に立ち返り、己の優れた能力を社会的価値の収奪ではなく、社会的価値の創出に向け変えれば、社会は飛躍的に豊かになっていくでしょう。
それは形骸化した資本主義に実質を取り戻す作業でもあります。
©Nibariki Co., Ltd.
おわり