自殺願望とは何か

人生/一般

隠れた願望の手段としての自殺願望

「自殺願望」とは、自ら死を望むことです。
しかし、重い病気から安楽死を望むようなごく一部の人を除き、「自殺願望」を持つ人は本当は死を望んではいません。
死はあくまで手段であり、真の望みは別の所にあります。

例えば、虐待に近いような厳しい英才教育を受けてきた青年が自殺する際の真の望みは”両親への復讐”であり、死ぬことそのものではありません。
「そら見ろ、お前ら(両親)のせいで俺はこんな風に成っちまったんだ。お前らの最も大切なもの(お利口さんの子供)を破壊してやるよ。ざまあみやがれ」という感じでしょうか。
わざと不良少年に成って復讐するなど、この両親に報復する方法は様々ある為、自殺はそれら手段のうちのひとつにすぎず、交換可能で、本質的な要素ではありません。

自殺は多くの場合、別の真の目的(願望)の為の手段であり、自殺そのものを第一の目的とするような状況(※1)は極めて稀です。
つまり、「自殺願望」を持っているように見える人の多くは、自殺を願望などしておらず、本当の願望を満たすためには、自殺とは別の途(手段)が必ずあるということです。

今風の軽い言葉で言うと、自殺は問題解決の手段としてあまりに”コスパ”が悪すぎます。
台所の小蝿を一匹やっつけるために家ごと燃やすような、極端に分の悪い選択です。
自分の本心と向き合い、本当の願望を知り、その願望充足のためにもっと効果的な手段を見つけ、人生の舵をそちらに向け変える必要があります。

※1…自殺以外の手段が見つからず、手段と目的が完全に連結し合致している状態です。これは医療現場や戦場などで議論されるような尊厳死レベルの問題であり、日常的に生じることは稀です。

すべてを無にしたい願望としての自殺願望

別の目的の為の手段としての自殺願望と並んで、よく自殺願望が生じる場面は、打開策の無いような追い込まれた状況にある時です。
八方塞がりで打つ手がなく、将棋の盤ごとひっくり返してやりたい(何もかも無にしたい)、というような願望です。
世界を無にすることは出来ないので、自分を無にすることでそれを達成します。
この際、一次的な願望は”勝つためによい手を指すこと”ですが、それが出来ないため、将棋盤ごとひっくり返したい(つまり自殺したい)という二次的な願望が生じています。

しかし、将棋のレベルが低い人間には”詰み”に見えても、上手い人に代わってもらえば、下手な人には見えていなかった手(手段)を見つけ、あれよあれよという間に逆転し勝ってしまいます。
将棋には厳しい時間制限がありますが、それに比すれば人生は時間無制限とも言えるほどの、持ち時間があります。
人生において八方塞がりの状況が生じた時、すぐに盤ごとひっくり返す(自殺)必要はありません。
ゆっくり休むことも、ゆっくり考えることも、練習してレベルアップして出直すことも、誰かに相談することもできます。
そうすれば、自分の目的を達成するためには、自殺以外のもっと良い手段がいくらでもあることに気が付くはずです。

「人生詰んだ」という驕り

当然、追い込まれた状態で、そのような客観的な態度をすぐに取ることは出来ませんが、「自分は未だレベルが低いから、八方塞がりに見えているだけだ」という謙虚な姿勢は持てるはずです。
いったん退席して、五年、十年修業し直した後、対局室に戻ってくるくらいの謙虚な気持ちです。
人生の”詰み”を判断できるほど、人間は賢くありません。
自殺を人間の傲慢の極みと考える宗教家は多くいます。
修業し直し、あらゆる可能性を検討できるほどレベルの高い人間になって尚、”詰み”であると判断するなら、つまり自殺以外の途が無いと確定できるようになった時、実行すればよいのです。
多くの人はその境地にたどり着く前に寿命を迎えます。

冷静な自殺願望のみ本物

思考と感情は連動しているので、感情を落ち着かせることなしに正しい思考は出来ません。
追い込まれて感情的になっていたとしても、「感情的になっている時の思考は、誤った考えや幻想にすぎないので、とりあえずそれには従わない」という棚上げの判断(とりあえず何もしないという判断)くらいは出来るはずです。
そういう経験を積むと、後にあの時(自殺を考えていた時)の思考がいかに稚拙な妄想であったかということがよく理解され、いずれ自殺願望が浮かんでも、それを信じなくなるでしょう。
深く勉強をし、広く経験を積み、人生の知見を得、冷静に長い間考え抜いた上での自殺願望でない限り、感情が生み出した一時的な幻なので信じてはいけません。

 

おわり