ベルクソンの『時間と自由』第一章

哲学/思想 心理/精神

第一章、心理的諸状態の強度について

はじめに(まとめ)

非常に分かりにくい章なので、長いですが最初にまとめておきます。

心の諸々の状態の「強さ」には、直接体感している「質的強さ」と、間接的に計量された「量的強さ」があり、私たちは多くの場合、質的強さを忘却し量的強さでしか心の状態を把握していません。
本章の目的は、量的強さを批判することで、質的強さを救い出すことです。

諸々の心の状態を代表する「感情」「努力」「感覚」の強さが考察されます。
質的強さを量的強さに解釈し直すために用いられる物差しが、「身体(心の状態に並行する身体的動き)」と「物体(心の状態を生じさせる刺激の原因となる外的対象)」です。
心(内包・質)-身体(外延・量)-物体(外延・量)という三層構造のモデルで考察されています。
心が質として捉えているものを、身体と物体(客体)の量的要素によって量化する過程です。
複合的に作用するので一概には言えませんが、「感情」及び「努力」は主に身体を、「感覚」は主に物体(刺激の原因)を量的測定の物差しとしています。
例えば、怒りの「感情」の強さは身体反応の数量によって測られており(最大量の怒り=全身が震えるような怒り、は単なる比喩表現ではありません)、眩しさの「感覚」の強さは原因となる光源の数や距離やルクス数(照度)などによって測られ、直接的に感じている感覚(質)を上書き的に改竄しています。

まず、一~三節で、質的強さが具体的にどのようなものであるかを、「深い感情」「美的感情」などを通して例示されます。
それと同時に、「概念化」によって、これら例示された質的強さが量的強さに変換されることが述べられます。
この「概念化」は、数量化の基礎になっており、身体因や環境因(つまり物理的要素)にあまり影響を受けず心の中のみで営まれる「深い感情」ですら、量的強さに変換されてしまうことが述べられます。

四節では「努力(肉体的努力感)」が取り上げられ、直接感じられているはずの質的経験が、動員される筋肉運動の数量的合算による量的解釈によって掻き消されてしまうことが述べられます。

五・六節では、あまり外延(物体)的要素に影響を受けない純粋な心的活動(二.三節で述べられたような)と、もろに身体的影響を受ける肉体的努力感(四節)の中間にある、「精神的な努力」の強さについて考察されます。
「精神的集中」状態と、強い身体反を伴う「激しい情動」の状態という、精神的努力の二つの典型例が取り上げられます。
ちなみに、身体的な動きを伴わない深い悲しみ(二節)と、多量の身体的動きを伴う激しい憤怒(六節)では、心の状態のあり方も数量化の方法も異なりますので、混同してはいけません(前者は概念化、後者は身体の動きの計測によって定量化されます)。

七節から最終節までは「感覚」が考察されます。
メインとなる八節以降の「表象的感覚(五官による感覚)」に先立って、七節では「感情的感覚」が扱われます。
ここで「感覚」と呼ばれるものは、「身体に直接関わる単純(純粋)なもの」というニュアンスで使われています。
例えば、身体に直結する苦は感情的”感覚”ですが、身体とはあまり関係の無い深い苦しみの感情は”感情”です。
「表象的感覚」は、主に身体の五官によって直接得られた表象についての感覚を指します。
本節では感情的感覚が人間の「自由」の端緒であることが語られる、やや異質な節となっています。

八節~十二節までは「表象的感覚」が扱われます。
表象的感覚には、感情的感覚を伴っていることが多く(例えば音にも快苦があります)、受動的な身体反応が生じています。
また、感官による知覚の際、大小に関わらず程度の甚だしいものに対しては、能動的な努力を必要とし(例えば、小さい音を拾う際には身体を緊張させたり、大きな音を聴く際には意識が飛ばないよう踏ん張る)、能動的な身体反応が生じています。
表象的感覚の強度を量的に捉える際、これらの身体の動きの量的多寡が参考にされますが、もう一つ根本的な参照枠として「外的原因」というものがあります。
特に身体反応を伴いにくい表象的感覚(感情的でない、あるいは中間的な程度の刺激)の強度(量的)を得る際には、前面に出てきます。

私たちは、経験的に外部原因とそれによって得られる表象的感覚の量的対応関係を概念的に把握し、蓄積しているため、直接的に得られているはずの感覚の質を、それら概念的な量によって上書きします。
経験的に蓄積された原因と結果(表象感覚)の観念の結合によって、直接的に体感している温度感覚より温度計を優先したり、直接的に体感している明るさの感覚を電球数やルクス数によって修正したりし、結果の位置に原因を置くことになります。
このような錯誤の行き着く先に、質を無視して心の完全な定量化を為そうとする「精神物理学(心理物理学)」があり、その創始者であるフェヒナーの理論が批判され、本章は閉じます。

一節、強度量(内的緊張の強さ)と外延量

常識的に、感覚、感情、努力などの意識の諸状態は、増減するものと考えられています。
私たちは、より悲しい、より嬉しい、より暑い、より寒いなど、口にします。
精神物理学(心理物理学)などにおいては、「この感覚はあの感覚の三倍強い」などと断言されます。
しかし、主観的な内的出来事や、空間的な広がりを持たない(非延長的)なものを定量化することには、問題があります。

外延的(空間的)で計測比較が容易な「外延量」と、内包的(非外延的、非空間的)で計測は困難であっても何らかの比較によって量的に捉えられる「強度量(内的緊張の強さ)」というものがあるとされます。
しかし、「量」とは、分割可能で順序的積み重ねで増減される、「含む-含まれる」の関係をもつものです(小は積み重ねで大に成り、小は大に含まれる)。
分割や包含関係を有さない、意識の諸状態の強度に対し「強度”量”」を語るのは矛盾しています。

強度量(内的緊張の強さ)は、それを生じさせた客観的(測定可能)な原因によって決定できると考える人もいます(詳細は十節、十一節)。
たとえば、明るさの感覚の強度は、光源となる照明の距離や球数などによって決定することができるとします。
しかし、そうすると、外的原因とは無関係に生じる意識の諸状態(例えば記憶を原因とした感情)は計測できませんし、そもそも私たちは意識の諸状態の強度を決定する際、いちいち原因の性質や数などの客観的状況を計測することなく「あの感覚よりこの感覚の方が強い」などと明確に意識しています。

【ミニ解説】
本章の目的は、内的心理状態を定量化(数量化)できると考える人々を批判することです。
論敵は精神物理学の創始者フェヒナーと、感覚が量を持つ(内包量)と考えたカントです。
ベルクソンは、「intensité(強度、内的緊張、内包量)」には、二種類のとらえ方があると考えます。
第一は、結果である心の状態(内的-質)をその原因(外的-量)によって解釈(誤解)するものであり、第二は、解釈ではなくあるがままの多様な状態でその本質を捉えるものです。
前者は精神物理学的捉え方であり、第一章で批判されます。
後者はベルクソン的捉え方であり、第一章で軽く触れられ第二章で主題化されます。
【解説おわり】

二節、いくつかの深い感情

同じ「強度」と言っても、感情、感覚、努力など、諸々の心的状態によって互いに異なる種類の強度を有しているように思えます。
「努力」は筋肉の感覚を伴いますし、「感覚」そのものは身体運動や外的対象の知覚と結びつき生ずるものです。
それに対し、深い喜びや悲しみ、内省的情念、美的感動などの一部の感情は、外延的要素を介在せず自足的に成立しているように見えます。

【ミニ解説】
感情、感覚、努力など、すべての意識の諸状態は、あるがままの純粋な状態であれば、内的な”質”を捉えています。
しかし、それぞれ異なる量的媒介によって、それ(質)を解釈し直し(つまり誤解し)、あるがままに把握されるべき”質”を見失ってしまっています。
「感情」は反省的理性(概念化)と身体的反応(これについてはほとんど語られない)によって、「感覚」は外的因子(感覚の際に生じる身体運動と刺激の原因である外的対象の知覚)によって、努力は筋肉感覚によって、媒介され、上書きされ、歪んだ解釈(誤解)がなされてしまうのです。
「感情」の誤解は二・三・ 節で、「感覚」の誤解は  節で、「努力」の誤解は  節で詳述されます。
特に「感覚」の問題が大きく取り上げられ、これがカント批判とフェヒナー批判につながります。
【解説おわり】

心的事象は、心の表層では各々が並置されうる明確に区別された輪郭を持っていますが、深層へ向かうにつれ、その輪郭は他の輪郭と重なり合い溶け合い、広がっていきます。
ある心的事象が深い状態にあるとは、心の深層に降りていくこの広がり(溶け合い)によって無数の他の心的事象に貫入し、心の全体を占めるような形で関係している状態です。
そのため、表層で意識されていた無数の心的事象の性質が変形され、別様のものといて感じられ、心象風景が一変します。
例えば、或る深い喜びとは、無数の他の心的事象が喜びと関係し、輝かしいものとして性質が変化した状態であり、心の全体が明るく熱気を帯びたものとなります。
それに対し、深い悲しみとは、心の全体が悲しみによって暗い性質に変化された心的事象でいっぱいになり(つまり閉塞し)、虚無に至る状態です。
私たちは夢を見る時などに、そのような心的事象の融合と性質の変化を、似たような形で経験しています【(フロイトの『夢判断』は、強引にその融合を引き剥がし分割(分析)し、心的事象に明確な意味があるように、概念的に暗号解読しようとするものです)。】

反省的意識(いわゆる理性)は、言語的に把握可能な明確な区別や空間的事物と同じようなはっきりした輪郭が無いと耐えられません(理性は論理の基礎である「網羅的かつ排他的な分類」以外認めない)。
ですから、私たちの反省的意識は、共存する心的事象の混沌とした塊の中で生じる深まりによる性質の変化(段階的飛躍による質の移行)を、「量的・連続的に積み重なり増大するあるひとつの心的事象」という風に、明確に(共存を)切り離して把握することになります。
つまり質的変化を量的変化に還元してしまいます。

【ミニ解説】
本節では、数量的解釈(量的な多数性)に相対する強度(質的な多数性)とはいかなるものかを、心的事象をもとにし、簡単に例示されます。
喩えるなら、「量的な多数性」とは、フルーツバスケットのように数えられる食材の集合である多数性です。
「質的な多数性」とは、フレンチ料理のソースのように、複数の食材が融合し元の食材とは性質が変化しており、切り離した時点でその存在価値を失ってしまうような多様的調和が、自己同一性を支えているような状態です。
量的多数性を支えるのは、等質的なフォーマット(媒介)によって異なる事物を同一的に並置可能(裏を返せば分割可能)と見なす、隠れた約束事です。
その隠れた約束事を剥ぎ取れば、現実に把握されてる心的状態の多数性とは、異質物が相互に浸透しながら調和的にその質を生じさせており、その質は深まり(ソースの配合の複雑化)によって段階的(飛躍的)に変質するものです。

図の上側が心の表層(意識)、下側が深層です。

混沌とした心のうちから、あるひとつの心的事象を意識が表層にサルベージ(すくい上げ)しますが、その下には巨大な根をはっており、様々な他の心的事象と結びつき合っています(ソース状)。
或る心的事象が深まるほど広がり、それが心を占有していき、他の心的事象と結びつき、段階的にその質も飛躍的に変化していきます(深い感情とは、材料の多い複雑な味のソースのようなもの)
しかし、理性はひとつの心的事象しか捉えることができないため、その異質なものとの融合を無視し、深まりとともに飛躍的に変化していく質を、単純に量的に増大する一個の感情の変化としてスケール化します。

勿論、感情には多くの場合、身体的反応が伴うため、それを媒介とし、質的変化を量的に解釈するという意味での量化も行われます(この量化については感覚の項で詳しく述べられますが、感情でもそれが働いていることが、たった一行ですが本節で示唆されています)。
【解説おわり】

三節、美的感情

【ミニ解説】
美的感情の本質は共感(美的表現と鑑賞者の内的合一)、美的感情の強度の変化とは共感の質の変化、その進展とは様々な共感の要素が融合していき最終的に”心からの共感”にまで至る段階的移行です。
勿論、芸術表現には共感させる”内容”がある為、単に共感させる芸術家の技術の高低が作品の良し悪しを決定する訳ではありません。
例えば、深い悲しみの感情を表現する『オイディプス王』のような作品もあれば、浅い悲しみの感情を表現するSNSの感動系ショート動画もあります。
美的感情の強度と表現内容の深さ(表現される思考の深さや感情の深さ-強度-など)の両方の揃った芸術表現が、本当に優れたものと言えます。
一般的なコミュニケーションモデルのように、芸術家(発信者)は表現内容(情報)をアウトプットし、鑑賞者(受信者)に与えるのではなく、鑑賞者の胎内に表現すべきものを(直接的因果によってではなく)共感を経由する間接的な暗示によって産みだすのが芸術です。
【解説おわり】

次いで、美的感情の強度(つまり質)の変化が、量的変化と誤解されてしまう事例を挙げます。
例えば「grace(優美、優雅)」の感情の弱い段階は、ある種の軽快さや余裕を感じさせるものです。
この余裕の本質は、現在の姿勢の内に未来の姿勢が予め示されているということです。
例えば、ギクシャクした折れ線よりも、流れるような曲線に美しさ(優美)を感じるのは、曲線があらゆる瞬間に次に転じる方向を予示しているためです。
ダンスなどでこの曲線の動きに音楽のリズムや拍子が付け加わると、一層、現在の内に未来が予示され、やがて鑑賞者の予見(意思)とダンサーの動きが一致する状態になります。
この身体的共感がさらに精神的共感の予示となり、最終的なこの精神的共感の発生状態が、強い優美の感情の源泉となっています。
予示とその予示されたものの現出が、さらに別の予示を生み融合的に変容していくという質的進展(私と対象-芸術表現-の合致-共感-がより強くなる)が、優美の美的感情の強度の高まりであるにもかかわらず、単純化した論理的把握しかできない反省的意識(理性)は、美的感情の量的増大として捉えてしまいます。

一般的に、自然の美が芸術の美に先立ち、芸術的技法によって自然の美を抽出するのが芸術家の仕事だと思われています。
しかし、芸術家の意識的な努力によって生み出された美が先にあり、次いで、芸術的在り方をしている自然なるものが発見されるというのが、健全な見方です。
芸術の目的は、人間の活動的で抵抗的な力を解除し、ある種の催眠的従順に入らせ、提示される観念や感情や感覚を直接実感し、表現された内容と直接共感するような状態に置くことではないでしょうか。
例えば、詩の韻律のリズムや造形芸術の構成的リズムによってあやされ眠らされた鑑賞者の魂は、夢の中のように自意識から解放され、詩人や美術家の生み出す感情や観念と直接的に同化し、強い感動を得ることが出来ます。
芸術家は感情などを表現する(expressing)というより、鑑賞者の内に起こさせ印象付ける(impressing)のです。
自然においても、美的感動が生じますが、それは人為的なリズムによるものではなく、調和によるものです。
自然の調和的均衡が、鑑賞者の注意を一点に集中させないようなフラットな状態に導く時、知覚はこの調和のゆりかごに眠らされ、自身の内にある抵抗的な力による制限を解除し、感性は自由に飛翔し感動のうちに自然と一つになります。
美的感情は特殊な感情ではなく、普通の或る感情が(直接的な因果によってではなく)間接的な示唆・暗示によって引き起こされる場合に生じるあらゆる感情です。

美的感情の強度は、先の催眠の強さ(意識的抵抗諸力の解除の強さ、ひいては共感の強さ)の進展の段階であり、この各段階は度合いではなく質的に異なる別の相にあるものです。
しかし、強い美的感情を生じさせる(つまり強い催眠状態を生じさせる)芸術作品が優れた芸術作品であるという訳ではありません。
人間は美的感情の強度(いわば形式)と同時に、その感情の深み・豊かさ(いわば内容)も捉えています。
示唆・暗示されるものが、感覚だけあるいは一つだけのものでは作品として浅く貧しく劣ったものであると感じますが、様々な無数の感覚・感情・観念を含むものである場合(第二節参照)、深く豊かで優れた作品であると感じます。
芸術家は、彼らの催眠的技術によって、表現者と鑑賞者の意識の間にある空間的・時間的障壁を壊し、導き入れ、鑑賞者に芸術家の豊かな感覚・感情・観念を孕む人生を体験させ、強くかつ深い美的感情を生じさせます。
美的感情の”強度”は内的状態の変化の段階、美的感情の”深さ”は心的諸事象の要素的な豊かさです。

道徳的感情の一種である憐憫の感情の強さも、量的な強度ではなく、質的な段階変化です。
浅層段階では、不憫な状況にいる人間の立ち場に身を置いた際の”恐れ”をベースとした利己的道徳感情(己個人の恐れの解消のための道徳)であり、中層段階では、同胞を助けたい不正を除去したいという社会的的道徳感情、深層段階では、世俗的な幸福を超越した宗教的道徳感情、というように進展します。

先(二節)に述べたように、外的原因や身体的動きなどの外延的要素を介在せず自足的に成立する感情は、ごく一部にすぎません。
次いで、この外延的要素と密接に関わる「努力の感覚」について考察します。

四節、努力の感覚

肉体的な努力の感覚が量的に強くなると私たちが考える(勘違いする)のは、以下のような仕組みです。
例えば、手を徐々に強く握りしめていくと、手→腕→肩→腹筋→脚→肺(呼吸を止める)というように、随伴的に全身の筋肉の運動が加担し拡大していきます。
それと同時に、中心となる局所的な筋肉の感覚は、重さ→疲労→痛みへと感覚の質を変化させていきます。
このような周縁の随伴的な身体感覚の数的拡大と、局所的な中心部分の質的変化の二重の知覚が、肉体的努力の強さの感覚をもたらしています。
しかし、単純な意識は局所的中心(この場合握り拳)のみにしかスポットを当てず、周縁の随伴的な筋肉の運動には意識を向けないため、それら諸々の筋肉の運動感覚すべてを、拳の運動にだけ帰属させ、「拳の努力量が(数量的に)増大した」と、勘違いしてしまいます。
“質的進展(質的多数性)”と”複合性の増大(量的多数性)”の混在した漠然とした知覚を、意識(理性)が空間的に明確に分節された一つの場所や語によって指示し局在化してしまうのです。
例えば、「拳」という場所、「悲しみ」という語を軸にして、質を量へとスケール化するのです。

このような錯誤は、身体的(外延的)要素を含まない「深い感情」と、身体的要素に直結する「肉体的努力感」の中間状態(いわば精神的努力感)においても当てはまります。
次いで、そのような諸々の状態について考察します。

五-六節、注意と激しい情動

注意(精神集中)や知的努力、激しい情動(憤怒、憎悪、歓喜、熱愛など)のような、精神的な努力感の強さも、身体感覚の数的拡大の知覚によって測られます。
注意の強さが増すと、額が収縮し、目や眉に力が入り、口は変形します。
憤怒の際には、鼓動が速く、顔が赤く、呼吸は乱れ、鼻腔が広がり、歯を食いしばり、拳が震えます。
怒りの感情とは、身体感覚の総和にすぎないと観るウイリアム・ジェームズは、この問題の半面を言い当てています。
この身体的動きは、激しい情動の反面を担う構成要素なのです。
もし、これら表面的動きのあらゆる痕跡を剥奪したなら、単なる観念しか残らず、情動の強さというものを把握することが出来なくなります。
「恐怖」からあらゆる身体的動揺を除けば、ただの知的な「危険予知の表象」以外の何ものでもありません。

【ミニ解説】
二節では肉体的感覚を伴わない心的な「深い感情」が、四節では肉体的感覚を伴う肉体的な「努力感」が、意識の諸状態の両極として説明され、本節ではその両方を有する中間状態である「精神(心)的な努力感」が取り上げられます。
具体例として「注意(精神的集中)」と「激しい情動」が挙げられ、注意も激しい情動も、肉体的努力と同様、身体的運動感覚の総和による量的多様性によって、その強度が測られていると述べられます。
ただ、注意および激しい情動の質的進展(質的多様性)に関しては、記述が非常に簡素かつ曖昧で、明確に捉えることが出来ません。
あくまで推定ですが、「注意」に関しては二重の質を有しているように思われます。
ひとつは注意そのものの収斂の段階の質的変化と、注意に伴う肉体的努力の質的変化(圧迫→疲労→苦痛)です。
この二つの質的多様性が、身体運動の総和(量的多様性)によって上書きされているということです。
「激しい情動」に関しては、両極(深い感情と肉体的努力感)が変換関係にあるという意味で中間状態であることが以下に語られています。
【解説おわり】

情動の激しさは、それに伴う周囲の身体感覚の数的拡大によって測られますが、その情動が落ち着き外的激しさを失うにつれ、内的深さに置き換わっていきます(例えば全身で取り乱すような悲しみの激しい情動が落ち着くと共に、沈潜したような深い悲しみの感情に変わる)。
外的な身体の運動が内的な心の運動に変化するということは、反対から言えば、内的なものが外的運動に置き換えられるように現れるということです。
先(二節)に述べた「深い感情」と本節の「激しい情動」は表裏一体のものであり、強度の観点から見れば本質的に異なるものではありません。
深い感情の深さが無数の異質物の調和(複雑なソース)に依るのと対応(変換)するように、激しい情動の強さにおける無数の身体的動きの複雑さ(豊富なフルーツバスケット)が連繋しているということです。

七節、感情的感覚

ここまでは、あまり外的原因(外的対象)とは関係のない「感情」や「努力」という意識の諸状態を扱ってきました。
それに対し、「感覚」の強さは、外的原因と共に変化する等価物のように見えるほど密接な関係があります。
非外延的なはずの「感覚」の中に、どのようにして量的概念が侵入するかを解明するために、先ずは二つの感覚、感情的感覚(七節)と表象的感覚(八節)を区別して考察する必要があります。

【ミニ解説】
似たような概念が多く分かりにくいので、整理します。
「深い感情(センチメント)」…純粋に心的な感情
「激しい情動(エモーション)」…肉体的なもの(努力)に強く結びついた心的感情
「感情的(アフェクティブ)感覚」…以下に詳細(情緒的感覚とも訳されます)

ここで「感覚」と呼ばれるものは、「身体に直接関わるもの」というニュアンスで使われています。
例えば、箪笥の角に小指をぶつけた時の直接的な苦は「感情的感覚(感情的な”感覚”)」ですが、事故で骨折した時や失恋した時を思い出して感じる苦は「感情」です。
「感情的感覚」は、複合的に構成される「感情」と異なり、単純で原初的で直接的なものを指し、意識の諸状態のひとつの構成要素となるものです。
例えば、憤怒のような「激しい情動」も身体と結びついていますが、心的なものとも結びつく複合的なもので、また身体から直接与えらるものではなく、間接的に生ずるものです。

「表象的感覚」は、主に身体の五官によって直接得られた表象についての感覚を指します。

本章全体は、a.内的な心・精神(非外延・内包)⇔b.身体的な動き(自己の外延)⇔c.外的原因(対象の外延)、の三層の次元で語られています。
意識の諸状態は、これらの様々な組み合わせ(というか配分比)によって構成されています。
「深い感情」は、ほとんどa.のみで、「肉体的努力感」はほぼb.のみで構成されていることがここまで述べられましたが、八節の表象的感覚以降はc.を中心に語られていきます。
【解説おわり】

感情的感覚を、身体器官の動揺の意識的表現、あるいは外的原因の内的反響としてしか見ない常識的な態度に問題があります。
自然は非常に功利的に作られているため、もはや人の力の及ばない「過去-現在」に生じた身体的動揺や外的動きを、快や苦のような感情的感覚として意識に表現(情報提供)するとは考えにくいでしょう。
むしろ、これから生じようとしている事態を、感情的感覚として指し示す機能があるのではないかということです。
人間は、動物と同じような自動的(反射的)な運動と共に、自由な(意志的)運動を有しています。
この意志的運動のきっかけとなる外的作用に続いて生じる意志的反作用の間に、感情的感覚が介在しているということに注目する必要があります。
感情的感覚は、ごく少数の特権的生物種にのみ見られますが、それは、その生物種が自動運動に反抗する意志的運動を持つためのの資格ともなっています。
感情的感覚に存在理由があるなら、それは自由の始原であるということです。
人間は、感情的感覚によって、準備されている自動運動(未来の反射運動)を意識に示すことによって、はじめて意志的行動(自由)を起すことが出来ます。
感情的感覚は、既に起こった事象(過去)と同時に、未だ起こっていない事象(未来)の双方に関わるものである(特に後者)ということです(例えば、人は苦を感じるがゆえに、そこから意志的に脱するという行動がとれます)。

喩えるなら、苦という感情的感覚の強度は、単音の高まりとしてではなく、周縁の様々な身体部位の様々な感覚を伴う苦の音を基調としたシンフォニーとして構成されています。
強い苦とは、新しい状況に直面した際に生命体(有機体)が課す新たな要求を、心的シンフォニーによって表現したものです。
私たちは、苦の強度を、その苦に共鳴し反応する諸々の身体部位の数と広がりによって、評価します。
苦に随伴する諸々の身体部位の反応が無ければ、苦はひとつの質でしかなく、量的にとらえられることはないでしょう。
“苦”とは反対の”快”の大きさを比較する際も、有機体の諸部分が、その快に関わり動き出そうとする傾向の数と広がりによって評価されています。
この快の反射作用の慣性力に身を委ねたままにするか中断するかの意志的行動は、その快から逸らせてしまうような事象が現れた際の抵抗によって意識されます(苦の感覚は、そこから脱したいという意識と意志を、快の感覚は、そのままでいる慣性力を止めるような抵抗が現れた際に意識され意志を生じさせます)。
【ミニ解説】
これまでは、身体の動揺の総量的計測によって、心的なものの”質”が無視されるというネガティブな面が強調されてきましたが、ここではポジティブな面が述べられます。
感情的感覚の強度が身体の動揺によって測られることで、環境変化に対する適切な反応が採れるということです。
環境の変化→身体の動揺→強い感情的感覚(こうありたいという未来を含んだ)→意志的行動、という流れです。
これは行動分析学のスキナーの理論とは真逆の発想です。
スキナーは、心的なものを完全に無視し、環境の変化→身体の動揺→自動的行動と、中間(心の過程)をすっ飛ばしますが(理論的要請として仮設的にそうしている)、スキナー以前から多くの人々がこれと同じような視点を持っており、「人間の自由」を無いものとし、数量的な機械運動に還元しようとしていました。
ベルクソンはそういう安直な人々から人間の意志(自由)を護ろうとしているわけです。
感情的感覚は自由の種であり、自動的行動に際して一瞬スパークする心の花火(スキナー)などではありません。
ベルクソンは、別に”質”は良くて”量”は駄目だと言っているのではなく、質と量(あるいは結果と原因)を混同したり片方を無視したりするのではなく、きちんと両者を区別をして、現実に即して心を考察しろと訴えているだけです。
【解説おわり】

八節、表象的感覚

表象的感覚の多くが感情的感覚を伴っており、表象的感覚の強さの評価においても、この感情的感覚による反応が考慮されています。
光、音、匂い、温度、味など、大抵の表象的感覚は、快と不快のような感情的感覚の性質を有しています。
例えば、異なる”苦味”には、質的違いしかありませんが、それが与える苦痛や不快などの感情的感覚に伴う身体反応の多寡によって、苦味の強度を量的にとらえます。

感情的性格を伴わない純粋な表象的感覚であっても、身体運動は生じるため、それが強度の計測に利用されます。
例えば、弱い光や音を知覚するためには、身体を緊張させたり注意を凝らす必要がありますし、強い光や音を知覚する際には、意識を保つ努力などを必要とします。
【ミニ解説】
表象的感覚が生じる際、受動的身体反応と能働的身体反応が生じています。
例えば、太陽のような強い光を直接見ようとする時、苦痛に似た感情的感覚による受動的身体反応と、意識を強く凝らして表象的感覚を得る能動的身体反応が同時に生じています。
仮に前者のような感情的性格を持たない表象的感覚であったとしても、後者の身体運動が生じるため、それが量化の評価基準につながると言っています。
しかし、この能動的身体運動は、刺激が中程度の表象的感覚では意識されにくいため、今度は量化の評価基準として、感覚刺激の原因となる外的対象の物理量を採用することが以下に述べられます。
【解説おわり】

Charles Samson Féré (1852-1907)の研究によって、明確な意識的努力を必要としない中間程度の無意識的知覚においても、筋肉の運動を伴うことが示されていますが、このような運動はほとんど意識されないため、表象的感覚の小さな差異を区別する私たちの評価には、別の要因が働いているはずです。

感情的性格を失い、純粋な表象的感覚に変化するに従い、身体反応的運動(とその考慮)も消え、代わりに外的原因(延長的事物)の認知が、強度の計測に利用されることになります。
私たちは、一生を通して、常時、外的刺激の変化に対応して内的感覚が変化することを経験しています。
そのため、結果である内的感覚の質に原因である外的対象の量を観念的に結びつけ、感覚を観念的にとらえると共に質を量に置き換え、強度を量的に評価することが習慣となります。
例えば、右手に持った針の先を、左手に徐々に押し付けていくと、くすぐられるような感覚→押されるような感覚→鋭い局所的痛み→ジンジンと拡散する痛み、というように、段階的に感覚の質が変化します。
しかし、私たちはこの異なる感覚の質を無視し、「針を徐々に指すと徐々に痛みも増す」と観念的に量的な強度として評価してしまいます。
外的原因である針を持った右手の漸増的な物的な力を、結果の内に導入し解釈(誤解)してしまっているということです。

【ミニ解説】
・感情的感覚を伴う表象的感覚の量的評価においては、感情的感覚の量的評価が表象的感覚の量的評価に強い影響を与えます。
・感情的感覚を伴わない、かつ刺激の極端(強弱両方に)な表象的感覚の量的評価においては、その感覚が生じている際の身体の動き(先に述べた能動的反応)の量が評価軸になります。
・感情的感覚を伴わない、かつ刺激が中間的で無意識的な身体的動きで済む表象的感覚の量的評価においては、その感覚を生じさせている外的原因の外延量(物理的数量)が評価軸になります。
【解説おわり】

九節、音の感覚

強さの差が明瞭な「音の感覚」について考察します。
当然、音の感覚においても、身体の反応が強度の評価に影響を与えますが、それを除外したとしても、音は質としてではなく、外的原因を基準にした量的な強度として解釈されてしまいます。

私たちは、大声を張り上げたり、太鼓を背一杯叩いて大きな音を出す経験などを通して、大きな音を出すのに必要な物的運動量を観念的に結びつけています。
音の強度を評価する際、このような運動量の観念が瞬時に精神の内に現れ、強度の質を量として解釈するのです。
発声と聴覚は表裏一体であり、聴く際は発音者の立場に、発声する際は聴者の立場に(過去の経験を通じ)身を置いた上で、表現したり感受したりします。
そうでなければ、音楽表現の感動(感情移入)が成立しません。
特に身体反応が生じにくい中程度の音の評価において、この経験的に獲得された運動量の観念が用いられます。

音の大きさだけでなく高さの感覚においても、本来は質の変化しかないはずですが、声帯緊張筋の運動量の経験的観念や、物理的計測による振動数の数字などによって、数量的評価に置き換えてとらえています。
私たちがある種の音の質を”高さ”と呼ぶのも、高い音を出す際は頭(上方)に低い音は腹(下方)に響くという経験的知覚に規定されている可能性もあります。

十節、熱と重さの感覚

熱の感覚の強度変化も純粋な体感としては質的変化ですが、外的原因(熱源の距離や広さや物理的熱量など)の知覚と、それによってもたらされた身体反応との、経験的に獲得された観念的つながりによって依って、量的に解釈されることになります。
過去の経験をリセットし、あるがままに感覚を省察すれば、表象的感覚の大きさは、結果の内に外的原因を置いてしまうことに起因し、それに伴っている感情的性質の強さは、感覚の中に外的刺激によって生じる身体反応の多寡に依拠していることが分かるでしょう。

熱さと冷たさの対概念や、重さと軽さの対概念は、同類の感覚の量的変化の両極などではなく、それぞれ別の質の異類の感覚です(つまり、熱さと冷たさや重さと軽さは異なる感覚であると言っています)。
そして、重さ軽さなどの度合い(質的な強度変化)も、異なる類(重-軽)の内の種(重a-重b-重c-…、軽a-軽b-軽c-…)としての質的変化です。

そして、この質的差異は、身体的運動に用いる筋肉の部位数と性質によって、量的差異に解釈され直してしまいます。
例えば、イタズラで、重量物の入った箱を空にして、誰かに持ち上げさせれば、平衡感覚を失いひっくり返ってしまいます。
これは、対象の重量に見合った身体部位の協調的運動を予め計測し準備しているからこそ生じる現象であり、重さの感覚の強度が、身体運動の計測によって解釈された感覚であることを証示しています。

それと同時に、等質空間内で運動を知覚するという我々の習慣(現代人は頭の中にニュートン的な等質空間の3D座標を作り物理的動きをマッピングするよう教育されている-詳細はパノフスキーの頁を参照-)が、この解釈を強化しています。
例えば、片腕だけで軽い錘と重い錘を同じ速度と軌道で同じ高さに持ち上げた時、それぞれ使う筋肉の部位も強度も連携も異なります。
人間は同じ刺激であっても身体部位によって感覚の質が異なるため(例えば、手の甲、脇、背筋、内腿、と指で順に同じ力で撫でると、それぞれ全く違う触感覚であることが分かります)、身体中の筋肉の連繋全体に生じる感覚の質は、軽い錘と重い錘で相当異なります。
しかし、人間の意識は、等質的な物理空間内での腕の同一の動きにしか意識が向いていないため、意識から漏れた過剰なそれらの質の違いは、運動以外の外部の場所(錘)に求めなければならなくなります。
そこで、「これら錘を持ち上げた際の違いは、同じ運動の感覚の、異なる重量の感覚である」と解釈してしまいます。
運動と重さの区別は、最初に述べたような理性による反省的意識がもたらすものにすぎず、直接的には運動と重さの一体化した感覚を持っているだけです。

十一節、光の感覚

私たちは経験的に、光源の光量変化がもたらす表象的感覚および感情的感覚の変化を日常的に学んでいきます。
明るい照明の前では眩暈がしたり、暗い部屋では物の輪郭がぼやけたりすることを、誰でも知っています。
それに従い、外的原因と内的結果(感覚)を観念的に結びつけ、質的変化を量的変化に解釈(誤解)するような習慣が付きます。
光源の明るさの増減によって、物体の明度と彩度だけでなく、色相も変化しますが、私たちは後者の変化は見逃します(光の強さによって青味がかったり黄味がかったりする微細な変化)。
観念化によって、「それぞれの物体には決して変化しない固有の色(色相)がある」という先入観を持ってしまっているからです。
人々にその色相変化を認識させても、「物体の色の質が変化したのではなく、光の増減に対応し観察者の感覚が変化してそう見える」という解釈を採ることになり、直接的に感受された質的印象は理性(反省)的に上書きされることになります。

精神物理学者は、人間の目は光度計のように機能しており、光源の増減による明るさの変化を、定量的変化として認識していると考えます。
私たちは日常的な経験によって生じる先入観だけでなく、そのような理論を通じ、例えば、複数の蝋燭で白い紙を照らし、蝋燭を一本一本消していった場合、白→灰→黒というように、光の減少に正確に対応するように量的に明度が変化すると捉えるよう習慣付けられています。
しかし、私たちは環境変化(原因の変化)を結果の内に導入し、そう解釈(誤解)しているにすぎません。
一本一本蝋燭の灯が消される度に、瞬間的な薄い影の帳が下りるのを知覚し、それ(原因変化の知覚)を軸にして、「明度の落ちた白い紙」として認識しているにすぎません。
何らかの方法で原因の知覚を遮断し、白い紙の変化のみ見る場合、それは数量的な連続性を持たず、(蝋燭の増減に正確に比例しない)段階的な質の飛躍的変化として感覚されます。
白→灰→黒にいたる明度の変化の各々の段階は、色のスペクトル(色相)変化と同様に、固有の色調・質を持つひとつの色であり、「明度の落ちた白」などではなく、最初の白とは別の白なのです。
結果の内に外的原因を忍び込ませ、純粋な内的感覚印象(質)を経験的知識によって観念的に塗り替えるのです。
精神物理学は、外的原因変化の連続性と内的感覚変化の連続性には一定の比例関係がある、という理論的前提をもっていますが、この前提そのものが誤っている可能性があります。

デルブフ(Joseph Delboeuf,1831-1896)は以下の図のような回転体を作り、自由に円環三層のグレートーンを生じさせる装置によって実験した結果、被験者がかなり正確に中間トーンを当てられることを実証しました。

二層を固定し、一層のみ変化させていき、その変化する一層が固定した二層の中間トーンであると被験者が感じた時の扇形の角度を調べると、角度の比(黒に対する白い部分の面積比)が中間状態にあることが分かりました(つまり物理的な比と感覚的比がほぼ対応している)。
グレートーンの変化を、認知可能な微小単位まで微分化し、その数によって中間位置を決定することも可能です(下のグレースケール図を極限まで細かくし、任意の二地点の中間を数量的に割り出す)。

しかし、根本的な問題は、これらグレートーンの異なる位置の差異が比較できるのかということです。
デルブフ実験の一層と中間層の差異と、中間層ともう一層の差異が同じだと、どうして言えるのか、グレースケールの明るい方の微小単位の差異と、暗い方の微小単位の差異の同一性は、何によって保証されているのか、という問題です。
そして、これを保証する隠れた前提は、フェヒナーの精神物理学の基礎にあるものです。

十二節、精神物理学

【ミニ解説】
フェヒナーの法則とは、人間の心理的感覚を物理的に定量化するものであり、その基本則は「感覚の強さは、刺激の強さの対数に比例する」というものです。
対数とは指数の反対で、よく言われる「指数関数的増加(いわば敏感な増加)」とは正反対の「対数関数的増加(鈍感な増加)」により感覚は強くなります。
例えば、下の画像左側の点10個分の増加の感覚と同等の効果を、右側の100個以上の点においてもたらすためには10個増加では全く足りず、右下は110個点を増やす必要があります。

より詳しく知りたい方はこちらの記事へ飛んでください→ウェーバー・フェヒナーの法則|人間の五感を数値化https://club.informatix.co.jp/?p=7106
【解説おわり】

ウェーバー・フェヒナーの理論の作為的前提となっているのは、最小可知差異(JND値、just noticeable difference)、つまりかろうじて差異を知覚し弁別できる感覚刺激の値(増量分)が、いかなる位置においても等しいとするものです(十節のグレースケールと同じ問題を述べています)。
二つの感覚の間に同一性を措定しなければ、心理的なものを定量化することは出来ません。
本来、同一性は質と外延の両方が揃って完全に保証されますが、その困難さを避けるために、精神物理学は質的要素を無視し、外延的要素の一致をもって同一であるとします。
しかし、暗黙裡に排除されたこの質的要素こそが、精神物理学が計量しようと求めている当のものなのであるという矛盾を抱えています。

量(刺激)は連続的に変化しますが、質(感覚)は唐突な飛躍による段階的(一段一段高さの異なる階段)変化で、本来、同一視することはできません。
しかし、「最小差異」という共通の単位を同一性の基準にすることによって、感覚の差異に固有の質や変化を捨象し、数量的に管理できるようになります。
いかなる感覚も、先行する最小差異の加算による総和(いわゆる微分化と積分化の処理)と見なされ、フェヒナーの理論は成立します。
現実的には、感覚Sから感覚S´に変化した際、私がもつのは飛躍的な移行(瞬間的気付き)であって、どのようにしてもSとS´の間に幅(量的間隔)など決定しようがありません。
事後的に数量的な刺激量の差を告げられ、感覚の幅なるものを与えられるだけです。
ここには、恣意的な定義付け、ただの人為的約束事以外のものを見出すことは出来ません。
継起する二つの感覚の間には、瞬間的な移行しかありませんが、この二つの感覚の各々には、数量的に比較可能な(刺激の原因の)物理的性質が対応しており、経験的にこれらを結び付け並置した上で(例えば、まぶしさ=照明のルクス数)、「瞬間的移行」を「連続的数量差分」で上書きし、あたかも始めから感覚的変化は連続的で定量的なものであったと誤解してしまいます。
瞬間的移行は、最小の差分という相等しい平均的な単位として置き換えられることによって、感覚は計測可能なものとなります。
先に述べたように、外的原因と内的結果を混同し曖昧にすることによって、重要な問題(質)が回避され無かったことにされてしまうのです。

私たちは、蝋燭の数や距離などという外的原因を媒介とすることで、眼前に感じている白い紙の色質の様々な飛躍的変化を比較可能な相等しいものとみなします。
そのような観念的結合(与えられた感覚と外的原因の状態の結び付け)は経験的に蓄積され、グレースケール的な連続的数量変化として明度を捉えるようになります。
外的原因(計測可能な物理現象)による、象徴的・記号的解釈によって、質的なものは量的なものへと転換され、二つの感覚の間に挿入される感覚数の概算的推計としてまとめられます。
最小差異を用いるフェヒナーと中間段階を用いるデルブフというように、手段は異なりますが、その本質は変わりません。
精神物理学が、決して交わることのないはずの、外的延長をもつもの(量)ともたないもの(質)を、交ぜ合わせることが出来るのは、ある種の恣意的な理論的公準(約束事)に依拠することによってであり、結局、彼らはその小さな箱庭(約束事)の上で堂々巡りすることしかできません。

結局、精神物理学が為していることは、私たちの常識的に行っている思考を極端に推し進め、定式化したにすぎません。
私たちは、主観的状態を他者に伝えるために、外的原因の表象に依ってそれを対象化・客観化します。
そして、そのような知識が増えていくにつれ、内的な強度(内包的なもの)や質的なものの背後に、外延的なものや量的なものを習慣的に認知するようになり、やがて感覚を数量化して扱うようになります。
その行き着く先が精神物理学であり、心的状態を外的原因と混同するという錯誤を拡大し、頑迷に内的諸状態を無かったことにし、全てを計測可能なものと考えるのです。
これは、物理学一般の抱える問題でもあります。

 

第一章おわり

第二章へつづく