バラージュの『視覚的人間』(2)

芸術/メディア

(1)のつづき

第五章、クローズアップ

映画のルーペは生組織の個々の細胞を我々の眼の前にもたらし、具体的な生の素材と実体をふたたび我々に感じとらせる。それはきみの手がなでたり打ったりしているのに、少しもきみが注意を払わず気づきもしないその手の動きをきみに示す。きみの生が手の中でいとなまれているのに、きみはそれを見向きもしないのだ。それはきみの生き生きとしたあらゆる身振りの内証の顔をきみにみせる。その身振りの中にきみの魂が現われているのだが、きみはそれを知らない映写機のルーペは、きみが気づかずにそれと共に生きている、壁に写るきみの影を示してくれるだろう。また何も知らないきみの手の中にある巻煙草の冒険と運命をきみに示してくれるだろうし、きみの道連れであり互いに生を形成し合っているすべての事物の-注意をはらわれないがゆえに-秘められた生を示してくれるだろう。きみはこの生を音痴の人間が管弦楽曲を聴くときのように観察していたのである。一つの主導旋律しか彼の耳には入らない。他の音はワーンというとりとめのないざわめきとなってぼやけてしまう。良い映画は、しかしクローズ・アップによって、多声的な生の総譜を読むことをきみに教えるだろう。また大交響曲がそれによって組立てられているあらゆる事物の、それの肉声を聴きとることをきみに教えるだろう。

クローズアップは、強調の術である。それは主要なものや重要な意味をもつものを黙って暗示することであり、描かれた生はそれによって同時に解釈される。同じ筋、同じ演技、同じ全景をっている二つの映画も、クローズ・アップが違うと二つの異なった人生観をあらわすものとなるだろう。(同上)

この際、観客が映画の連続性や空間の感覚を失ってしまわないよう、各ショットをうまく構成しなければなりません。
ショットが論理的に組み込まれていなければ、観客の頭は混乱します(例えば、全景⇒細部ではなく細部⇒全景の順だと、観客は遡行的に推論する必要が生じる)。
時間と空間の全体性が客観性の感覚を生じさせるため、これが壊れていると、夢遊病者の幻覚のようなものになってしまいます。
また、ショットのサイズ(アップ~ミディアム~全景)によって、心理的な時間の流れる速さ異なるため、ショット間の時間の統一性にも注意を払う必要があります(例えば、まぶたを閉じる場面をクローズアップで撮る場合、フルショットより時間をかける必要が生じる)。

映画において重要なものは、適切なイリュージョンです。
ショットの構成によって真実性を確保する明瞭な現実印象を生み出す必要があります。
切り取られることのない全景の連続が生じさせる過剰な情報は、むしろ知覚を妨げます。
また、クローズアップによって、普通に撮っては写すことのできないもの(心理や情緒などの見えないものや、物理的あるいは経済的に不可能なもの)を表現することができます。
微かに震えるまつ毛のクローズアップによって感動する心を、少し開いた扉の隙間の暗闇のクローズアップによって不安の予感を、突き上げられた拳のクローズアップによって無数のデモ隊を、夜露に映る星空のクローズアップによって全宇宙を、生じさせます(イリュージョンとして)。

人間にしろ風景にしろ、部分や場所によって、表情の豊かさに違いがあります。
哀しむ人間の表情は、全身や腰や肩などよりも眼の部分により豊かに在るように、ベネチアをより豊かに表現するものは、水に映るランタンや水路へと続く階段などの部分です。
この表情豊かな要点をとらえることにより、表現すべき全体を開示することを可能にするのが、クローズアップです。

クローズアップによって、世界の主観的映像を作り、カメラの持つ即物性にもかかわらず、世界を情熱の色彩の中に、感情の光の中に描き出すことが可能である。これはスクリーンに映写された、客観化された抒情詩である。(同上)

第六章、事物の顔

事物を利用すべき道具、目的のための単なる手段と見なす大人と異なり、子供や芸術家は、事物を魂と顔を持つ生きものとして見つめ、その生きた相貌をとらえます。
事物の相貌を誰の目にも見えるように強調する描写芸術を、「表現主義」と呼びます。[これはバラージュ独自の定義です。]
事物は抽象的観察(概念の文化)のベールで覆われているため、表現主義がこれを取り除くのです。
表現主義的な強調や変形には程度があり、レオポルド・イェスナー(ドイツの舞台演出家、映画監督、1878-1945)のようにディフォルメを加えない自然主義的表現主義から、強いディフォルメを加えるロベルト・ヴィーネの『カリガリ博士』まで、無数の階調があります。
表現主義において、事物は人間と等しい生命と表情を持ちます。
事物は中立的な冷たい背景としてではなく、俳優との共演によって、画面全体に生命を吹き込むのです。

特に夢や幻想においては、”事物は単なる外的状態ではなく内的状態をあらわすもの”としてとらえられるという、表現主義的特徴が明確になります。
夢や幻想を、現実と同様に自然主義的方法で撮れば、むしろ真実性を欠くことになります。
映画は文学と違い時制を持たず常に現在形であるため、入れ子構造の枠物語のように、過去や未来など現在とは異なる非現実が描かれる際は、それに見合った情緒によって描き分けることも必要になります。

映画の夢の映像において、それを単なるおとぎの国の物語のような特異な筋や変形された形象で描いても、変形を加えられた現実的なものにしか見えません。
夢の持つ奇妙な彼岸的雰囲気は、形象ではなく、照明などによる独自の画肌が生じさせるものであり、何の変哲もない部屋で夢のイメージを見せることができます。
特に見落とされがちなのは、動きのリズムです。
物理的運動法則にしたがうのではなく、精神世界の内的リズムによって動きを決定するということです。
夢の描写においては、「反自然的」ではなく「超自然的」である必要があります。

「印象主義」は、部分の呈示によって、残りの全体を観客の想像にまかせる方法です。
この際の部分は、ディフォルメはなされず、自然主義的に描かれます。
「表現主義」は、強調された相貌として全体を示す方法であり、観客の想像にまかせることはありません。
[これはバラージュ独自の定義です。]

第七章、自然と自然らしさ

活動写真の本質は「実写」にあると考えられていましたが、現在の映画芸術は大きく自然から離れてきています。
映画が芸術作品になるためには、自然の様式化が必須であり、中立的な自然が映画に入り込む余地はありません。
人間の作る映画における事物は、人間と関係しえ居る限りにおいて意味を有し、自然は常にあるシーンの環境であり、そのシーンの情緒と共にある必要があるからです。

芸術作品において大切なのは、全体のイメージが一つの精神から作られることと、自然すなわち環境が、その中で展開する物語と同一の情緒を獲得することであるから。映画においては、自然はこの物語の有機的な部分であって…。良い映画では、或る風景を見ただけでその中で展開されるであろうシーンの性格を予知できなければならない。そもそも映画は、風景を生きた魂として、いわば行為する人物としてドラマの中で共演させるという、高度の詩的可能性を持っている…。無限に広がる海の遠い水平線の心をしめつけるような魅力や、田園を走る街道の魅惑や、異国の岸辺の何やら曰くありげな呼び声についてはよく書かれる。だが、映画でそのような風景のデモーニッシュな力を、或る男の催眠術をかけるような眼ざしや或る美人の誘惑的な微笑と同じように見せること、それがかんじんなのだ。(同上)

満天の星空から星座が浮かび上がってくるように、客観的自然の中から相貌を見出した時、自然は「風景」へと変化します。
言葉では明確には出来ないが、感情や意味をもつ自然の顔です。
自然の中立的混沌(客観的自然)の中から相貌を見つけ、画枠で囲み強調し光を当て主観的関係を作り出すこと、すなわち自然の様式化が芸術家の仕事です。
自然に介入し、それを精神的なものへと高め(魂を吹き込む)、人間的意味をもつものへと成すのです。

自然の魂は、予め与えられていて、〈わけなく〉写真に撮ることのできるような代物ではない。昔の呪術的諸文化も、自然の魂をおそらく知っていた。我々にとって自然の魂とはつねに自然の中に反映している我々自身の魂を意味するだけである。この反映は、しかし芸術を通して行なわれる。キリスト教的中世の芸術は自然の魂を知らなかった。 それゆえ自然の美も知らなかった。自然は生命のない書き割りであり、人間の行為の背景と場所であった。ルネサンス人がはじめて自然に魂を吹きこみ、死せる田園地方から生ける風景を作った。周知のように、美以外のものを求めないで、〈ツーリスト〉として高山に登ることを思いついた最初の人間は、ペトラルカだった。(同上)

ルネサンスの芸術家が自然から相貌を見出し、美しい田園風景へと成したように、現代の芸術家は人工的自然である工業地帯から相貌を見出し、悪魔的な幻想詩を生み出します。
近代工業は、非人間的で不気味な人食い機械の顔を獲得し、魂をもちはじめます。
工場という中立的人工自然は、映画という芸術の中で暗いオーラを放つ「風景」としてあらわれてくるのです。

全ての事物は象徴的な意味をもち、意識的無意識的問わず、何らかの観相を人間に示します。
「観相」は、「時間」や「空間」と同様、人間の先天的な知覚のカテゴリーであるのです。(カントの頁参照)
ですので、監督に与えられた選択は、客観的描写と観相的描写の二択にあるのではなく、自己の意図に従う観相と偶然に任せる観相の選択でしかありません。
全てのものが意味をもつということは、単に事物の形姿のみの問題でなく、照明や配置や大きさなどの映画の全要素に対し、注意を払わなければならなくなります。
例えば、激昂する人間の身振りが意味するはずの怒りのパトスも、ロングショットで撮ると、小さな子供の地団駄の様なコミカルなものになります。
「移ろいゆくもの(現世)すべては、ただの影像にすぎない」のです(ゲーテ『ファウスト』終幕の合唱)。

映画は技術的な可能性から、おとぎ話やファンタジーに最適だと考えられていますが、そうではありません。
この現実世界であり得ない事や物が生じると、人は神秘的感覚や畏怖の念をもちますが、映画の世界で同様のことが生じても、観客は映画が作られたものである意識を持っているため、自明のことにしか感じません。
映画において「超自然的」なものを描いたとしても、超感覚的なものは呼び起さず、ただ自然とは別様に描かれた世界の自然、いわば「反自然的」なものとしか感じられないのです。
映画において超自然的なものは、おとぎ話やファンタジーの形象(自然に反する事物の変形)で表現することは出来ません。
むしろ自然主義的に描かれた相貌の中に、映画における超自然的なものはあらわれます。

『恐怖の交響曲』と名づけられた映画があった(ムルナウ監督の『ノスフェラトゥ』)。悪寒、夢魔、夜の影、死の予感、狂気、亡霊が、この映画では陰鬱な山岳地方と荒れ狂う海の映像の中に織り込まれた。幻の馬車もまた一台、森中に現われた。その森はけっしてこの世のものとも思われないような様相はしておらず、物凄い様相もしていなかった。だが、その自然なイメージの上には超自然的なものの予感がただよっていた。月光に照らし出されるしけ雲、夜の廃墟、無人の館の中の暗いおぼろ一人の人間の顔の上の蜘蛛、誰も乗っていず舵を取るものの姿もみえないのに運河に入ってくる黒い帆をかけた船、吠える夜の狼と突然おびえ出す馬たち-何におびえたのか我々にはわからない。これらの映像はすべて、自然にありうべき映像であった。しかし、あの世から吹いる氷のように冷たい風が、その中には吹いていた。(同上)

様式化されない自然の再現であるにも関わらず、感動や美しさや興奮を生じさせる映画作品もあります。
ただ、この場合、単純に素材の力によるものであり、それはニュース映像が涙を流させたり、百科事典の花や集合写真の女性の美しさに惹かれるのと変わりありません。
心を揺さぶったとしても、それは芸術的感銘ではありません。
素材が芸術に成るのは、人間の創意が加えられた時であり、宝石が芸術品に成るのは、宝石細工師の手が加わった時です。
自然現象の効力と芸術的効力を、混同してはなりません。

結び

映画はどの点をとってみてもそれと認められるように、資本主義的大産業の所産である。しかし、資本主義的大産業はすでに弁証法的発展によってその敵対物に転化した多くのものを生み出している。(たとえば労働運動)。本書の第一章で、映画は概念的文化から視覚的文化への転換であることが詳述された。映画の大衆性は、近年、バレーやパントマイムやあらゆる種類の装飾芸術にあれほど一般的な需要を高めたと同じ憧憬にもとづいている。それは、まだ概念と言葉のふるいにかけられない具体的で直接的な現実を体験したいという、知性化され抽象的になった文化の世界の人間の切なる憧憬である。これは近代の抒情詩の言葉が、非合理的で、直接的な理解の可能性を獲得しようと努めていることにも かがえるのと同一の憧憬である。(同上)

 

おわり