バラージュの『視覚的人間』(1)

芸術/メディア

※ここで述べられる「映画」とは、白黒のサイレント映画のことです。

第一章、視覚的人間

印刷術の発明によって、伝達手段は言語を通したものが中心となり、視覚の文化は概念の文化に変わり、精神は見られるものから読まれるものとなりました。
それは同時に、生活のあり方だけでなく、人々の相貌をも変化させました。
印刷術の普及以後、精神は言語の中に集中し、肉体は精神のない抜け殻になりました。
また、音声言語の起源は、身体や顔の動きによる身振りの表現動作にあります。
その舌や唇の動きから生じた二次的なもの(音)が、いつの間にか主体となり、目で見る精神(身振りの言葉)は耳で聴く精神(音声の言葉)に取って代わります。
[これは言語の起源に関する数ある仮説の内の一部です。人間が本来持っていた視覚的表現が、先ず話し言葉によって、次いで書き言葉(印刷術)によって駆逐されていったということです。]

しかし、活動写真の発明によって、文化は視覚的なものへと再び転回し、また人々は新たな相貌へと変化し始めています。
話さないということは、表現すべきものがない、ということではなく、形態、映像、顔つき、身振りなどの視覚的なものを通して表現しているということです。
それは手話のような言葉の代用品ではなく、直接的に精神を肉体によって可視的にあらわすのです。
いまや数百万の人々が毎日映画館で、忘れられていた視覚的表現を体験しています。
表情や身振りによる言語を再習得し、人間は再び目に見える存在となります。

現代の映画や舞踏の普及は、言葉では表現できない言うべき沢山のことを、取り戻そうとしています。
物質(肉体)性を失い、過度に抽象化された概念の文化によって疎外され、失われていた人間の全体性への憧憬があるのです。
勿論、それを文化(視覚的文化)として牽引するのは、劇場という枠に囲まれ生活から切り離された純粋な芸術表現としての「舞踏」ではなく、日常生活の視覚表現を主題とする「映画」です。

言葉の文化の中で、人間の肉体は表現器官としての能力を失い、それと同時に精神も退化しました。
言葉と身振りでは表現可能なものが異なり、表現の可能性が思想や感情を事前に規定している以上、使わない井戸が枯れるように精神も痩せていきます。
文化が、意識的な知から無意識的な知覚へ、抽象的精神から具象的肉体へと変化することは、後退ではなく発展なのです。
ある人の身振りや姿勢や顔つきや身体の特徴は、その人の精神を直接的に感得させます。
視覚文化における精神の直接性は、概念の文化の間接性に優ります。

そして、身振りの言語は、言葉の言語には決して達成不可能な理想である「普遍言語」に対する可能性をもちます。
確かに表情や身振りの言語には、言葉の言語以上の差異がありますが(例えば国により喜びの身体表現は相当異なる)、二つの理由でこの差異は埋められます。
第一に、身振りの言語は、言葉の言語と異なり教育的に強い拘束力を持っていないということ。
第二に、経済的な理由で、映画は嫌でも国際化せざるを得ないため、必然的に差異が縮小するということです。

映画は製作費のために各国語に翻訳され国際的に流通するのが普通であり、身振りの言葉はスクリーンの俳優を媒介として、普遍(世界共通言語)化していきます。
人種的、慣習的特徴は装飾やスタイルとしてその差異を維持しつつ、内容を決定する身振りの言語は統一化されたものになります。

人間がいつか完全に眼に見えるものになれば、どんなに言語が異なろうと、人間はつねに人間自体を認識するに至るだろう。(バラージュ著、佐々木基一/高村宏訳『視覚的人間』岩波書店)

第二章、映画の本質

映画芸術の独自性を明確にするために、隣接の芸術との差異を明らかにする必要があります。

演劇の場合、戯曲と上演が相互に独立したものであり、演出家と俳優が、戯曲という既に確定された意味を、造形的に表現(上演)する、という形になります。
そのため、観客は、言葉によって作家(戯曲)の意味するものを耳で聴きとり、演出家と俳優の表現を眼で見ます。
映画の場合、表現の裏側に自立した作品はなく、単層的なものであり、映画の良し悪しの責任は、監督や俳優にあります。
そのため、名作映画によって映画監督や俳優が名声を得ても、シナリオ作家に目が向くことはありません。
舞台俳優はセリフが主で、表情や身振りはその調和的伴奏であるのに対し、映画においては身振りが唯一の内容になります。

映画において文学的要素は、着想となる物語の概要程度であり、本文は映画監督と俳優による映像の言語によって作られた独自の芸術なのです。
文学者は、映画の筋の稚拙さを見て、映画を芸術と認めません。
言語的表現に対しては非常に繊細な感受性を持つ文学者も、視覚的表現に対しては無理解なのです。
単純な恋物語を偉大な詩に仕立て上げるゲーテの文学表現と、単純な恋物語を素晴らしい映画に仕立て上げるグリフィス(監督)とリリアン・ギッシュ(女優)の映像表現の相違は、シーンをいかに書きいかに言葉を語るかと、シーンをいかに描きいかに表情で語るかの違いです。

良い映画は「内容」をもちません。
映画は「表面芸術」であり、内なるものが外にあるからです。
しかし、絵画と異なり、映画は時間芸術であるため、ある程度の心理的問題や意味を扱います。
文学者は、そのある程度の半端さが気に入らないのです。
確かに映画では、文学のように、言語による思想によってのみ解決されるであろう深い精神的問題は扱えません。
その代わり映画は、思考や概念ではとらえられないものを表現します。
これは絵画が文学より芸術的に劣るとは言えないのと同じことです。

しかし、映画は文学の有する深さを、表面的出来事の背後に隠されたものを、表現する可能性を持っています。
平行モンタージュは、複数の事象の背後にある共通の意味や法則を明らかにする方法です。
文学が持つ深さ、二重性(背後関係)を、並列関係に還元し表現する試みです。
勿論、この並列関係は、単なる見かけ上の反復や比喩ではなく、異なる事象によって共通の理念を抽出させるものです。

字幕によって文学的に作られた映画は、字幕によって説明を受けた後、眼で眺めるという、図解のようなものとなります。
代替不可能な映画固有の表現(視覚的連続性)を欠いたそれは、良い映画とはなりえません。
それは視覚的連続性を概念的な無時間性によって欠落(省略)させ、真空のような冷たさと分裂が生じ、生気を欠いたものとなります。
映画は混じり気のない純粋な視覚性によって作られねばなりません。

演劇における話し手の身振りは言葉に依拠する従属的内容をもち、舞踏の身振りは言葉に依拠しないそれ自体の内容をもち、映画の身振りはその中間にあります。
演劇において観客は言葉を聞く「言語の身振り」であり、映画において観客は言葉を見る「身振りの言語」です。
そのため、優れた映画俳優は、見えるように話し、聞こえるようには話しません。
この「言葉を見る」無音の映画に対し、パントマイムは「言葉の無い」沈黙の芸術です。
映画において話すという身振りは重要な表現手段の一つであるため、沈黙との混同は避けねばなりません。

第三章、タイプと相貌(観相)

ある生物の外的形態が、その生物の内的本質をしているなら、その生物の形態から本質を判断する観相学が成り立ちます(例えば、指の間の水かきという外的形態からこの鳥は水鳥だと判断したり、顔つきで野良猫か家猫かを判断したりできます)。

映画の俳優は、作品の本質に実体を与えるような観相的な外見を持つ者が選ばれます。
舞台監督と異なり、映画監督は「演技者」ではなく「キャラクター自体」を探す必要があります。
これは衣装の選択においても同様です。
映画では、すべての内面的なものが外面的なものにおいて認識される以上、外面的なものへの配慮が極めて重要になります。

人間をとりまくものが人間に対して作用するだけではない。人間はまた、とりまくものに対して反作用する。人間は変容されつつ、こんどは自己のまわりのものを変容する。それゆえ、或る男の着物や家財は、たしかにその性格を推認させる。自然は人間を形成し、人間は自然をつくりかえる。そしてこのつくりかえもまた自然的なのである。自己が大きな広い世界の中におかれていることを知る人は、その中に垣や壁をめぐらせた小さな世界を作り、それを自分のイメージに従って飾る。~ゲーテ(同上)

衣装や環境などの固定した背景的相貌に対し、身振りや表情などの変化する相貌が、矛盾することなく成立していなければなりません。

勿論、類型(タイプ)化が過ぎると、石像のように固いキャラクターとなり、変化というものが表現し難くなるため、喜劇や異様さの誇張などを除き、過不足のない適切な程度でなければなりません。
相貌には、不変と変化、類型と個性、宿命と意志、先天的自己と後天的自己、などの両面があり、相争っています。
類型としては高貴でも個人としては卑しい者もいれば、一見すると卑しくともよく見ると高貴な人がいます。
俳優の相貌の上で演じられるこの格闘は、文学にはない深さを与えます。

第四章、表情の演奏

言葉(文学)は線状性によって強く拘束されているため、音楽で言う和音や多声やレガートのような抒情的表現ができません。
それに対し、俳優の表情の動きは、感情を上手く演奏します。

ある映画の中で、アスタ・ニールセンは窓から外を覗いて、誰かがやって来るのを認める。死ぬほどの驚きが、引きつった恐怖の表情が、彼女の顔にあらわれる。しかし次第に彼女は自分が思いちがいをしていたことに気づく。彼女の許へやっってくるのは、彼女に不幸をもたらす人物ではなく、反対にこの上ない幸運をもたらす人物であることを彼女は知る。そして驚きの表情から、ゆっくりと徐々に、本当だろうかと疑う気持と、まさかと思う期待と、控え目な悦びの全音階をへて、最後に幸福な歓喜の絶頂がやってくる。…目元や口元のすべての輪郭が一つ一つ解きほぐされ、緩み、そしてゆっくりと変わっていくのがわかる。…これこそ独特の映画抒情詩なのである。

ポーラ・ネグリが、かつてカルメンを演じたことがあ 彼女は強情なホセに媚を売る。女の表情は陽気であるが、同時に卑屈でもある。というのは、男にちょっとばかり従順にならなければならないということが、彼女にとっては心地よいからである。だが、ホセが彼女の足下に身を投げだし、彼女が恋人のどうしようもない弱さを知る瞬間、彼女の表情は昂然となると同時に悲しげになる。しかも、それはただ一つの表情の中にあらわれる。この表情のこれら様々の構成要素は互いにくっきりと区別されないで、いわば互いに色を重ね合せたようにある。…言葉で言うと、この一つの表情はバラバラに崩れてしまう。言葉で語られはじめるや否や、それは何か別のものになってしまうのである。

良い映画俳優はけっして我々を不意討ちしない。映画は心理学的説明を行なうことはできないので、どのような心の変化の可能性も最初から顔の中にみえていなければならない。たとえば口のまわりの人目につかぬ線条を発見し、この芽の中から新しい人間が生まれでて顔全体の上にひろがってゆくさまを眺めるのが、ほかならぬ映画の面白さなのだ。…表面の下に隠されている顔がこのように眼に見えるということが、相貌の道徳的意味でもある。というのは、映画においても人間はたんに善玉と悪玉でもって片づけるわけにいかないからである。…相貌における感動的なもの、心をわくわくさせるものは、この場合も、我々が悪自体の表現の中に善を認めることができるという同時性である。数々の顔の中からより深い一つの眼ざしが我々の心に触れるのだ。(同上)

これは演劇においても行われますが、以下の理由から、映画ほど重要なものとはなりません。
一、言葉(セリフ)に注意が向き、表情の把握が大雑把になる。
二、舞台俳優は明確なセリフを観客の耳に届けるために、表情の表現動作が拘束される(特に口)。
三、クローズアップによる不要な部分の削ぎ落としと拡大ができないため、注意を表情に固定することができず、細部も見えない。

映画は表情の演技の精巧さと正確さを要求する。それは舞台専門の俳優には夢想もできないことである。なぜなら、クローズ・アップの中では顔の皺の一本一本が決定的な性格の特徴になり、ピクリと動く筋肉の震えも、重大な心の中のできごとを示す驚くべきパ トスを持つからである。…ちょうど小さな池の中にも池の周囲のすべての大きな山が映るように、ドラマは顔の中に自らを反射させるだろう。演劇ではもっとも重要な顔でさえ、つねにドラマの全体の中の一要素として含まれているにすぎない。しかし映画ではクローズアップによって一つの顔がスクリーン全体に広がると、数分のあいだ顔が〈全体〉となり、ドラマはその中に含まれる。(同上)

 

 

(2)へつづく