組み合わせとしてのモンタージュ
モンタージュというと、一般的には顔写真をパーツごとに切り貼りした犯人の顔というイメージでしょうか。
基本的にはそれと同じで、様々な映像や画像を切って貼って合成したものです。
この合成によって生まれる力を映画において利用しようとするのが、エイゼンシュテインのモンタージュ論です。
切り取ったあるものAにあるものBを合わせるのと、あるものAにあるものCを合わせるのとでは、Aの意味が違ってきます。
例えば、画用紙に丸い円を描きます。
その横にバットの絵を描けば、その円はふくらんだ(凸)ボールに見え、
その横にシャベルの絵を描けば、その円はへこんだ(凹)穴に見えてきます。
あるもの(円)は、となりに何を置くかによって意味が間逆になったのです。
これを映像でやったのが有名なクレショフの認知実験です。
例えば、真顔の男Aの映像の前に、宝くじの当選映像、女性の裸の映像、殺人の映像を置けば、それぞれ観客は、同じはずのAの真顔の映像を、喜びの表情、欲望の表情、恐怖の表情ととらえてしまいます。
新しい意味を生む弁証法的モンタージュ
しかし、エイゼンシュテインは「ものの意味は組み合わせにより決定する」というところから更に一歩進めて、「ものの意味は組み合わせによって、むしろ新しい第三の意味を生じさせる」ということを証示します。
その例として彼は日本の漢字を挙げます。
象形文字としての漢字「日」に「月」を合わせることによって、新たな意味「明かり」が生まれるように。
基本的に絵画においては、この組み合わせによって生じる第三の意味で満ちています。
各モチーフ同士の関係がその絵画の意味を複雑に生じさせています。
そして、この「組み合わせによって生じる第三の意味」は弁証法における「止揚(アウフヘーベン)」と類同的にとらえられるため、絵画の弁証法ともいえる表現となります。
具体例
「杭に縛られた主人公が銃殺されて死ぬ」という映像があったとします。
その後ろに空を飛んでいる鷲の映像を合わせるとどうなるでしょうか。
たぶん、大空を優雅に舞う大自然の鷲のおおらかさな世界と、人間の血で血を洗う欲望にまみれた狭い世界という対比が生じ、ある種の無常観という第三の意味が強く示されます。
また、銃声がなる瞬間に、主人公の子供や恋人が無邪気にはしゃぐ映像を一瞬入れる、主人公の子供時代の映像を入れる、朝露の水滴が落ちる映像を入れる、都会の交差点の喧騒の映像をいれる、等々、どんな映像を入れたとしても、それぞれ大きく異なった新たな弁証法的な意味が生じるでしょう。
より大きな映画の弁証法
エイゼンシュテインにおける映画の弁証法はここにとどまらず、さらに五感という知覚同士の弁証法にまで話が進みます。
目で聞く、耳で見る、目で触り、耳で嗅ぐ、というような、禅坊主のレトリックのようでありながら、非常に真面目で有効な理論です。
それについては頁をあらためます。