世界観
私たちは一般に、世界はひとつであり、人間はみなその中に生きていると思っています。
ひとつの頂点があって、下に向かって系統樹のように枝分かれしていく秩序のピラミッドの中に住むイメージでしょうか。
物理的に言えば、世界は皆が共有するひとつの同じ時間と空間があって、人々はその中に配置され生きている、というニュートン的な世界観です。
真実はひとつであるという確信のなかで生きる世界です。
しかし、相対主義はそれらを全て反転した形で世界をとらえます。
世界(宇宙)は生物の数だけあり、ピラミッドのような安定した秩序はなく、個々それぞれが独自の秩序を持ち、物理的にいえば運動する物体それぞれが固有の時間と空間を持つというアインシュタイン的な世界観です。
真実は無限にあるが故に真実は決定できない、という立場です。
具体例
では、具体的な生活の中で真実は無数にあり、決してそれを決定することができないという例をいくつか挙げてみます。
一、例えば、大相撲が熱狂的に好きなお父さんが子供であるA君をお相撲さんにするために、勘違いした教育をしてしまったとします。
そのため、毎日A君はご飯を無理矢理に詰め込まれて、苦しい日々を送っています。
反して、国境の向こうで育ったB君は飢餓に苦しみ、つねにひもじい環境にありました。
ここで二人の前に、三人目の子供C君があらわれます。
そしてC君が目の前の大人にご飯を差し出された時に泣いたとします。
この時A君は思います。
「可哀相に、C君はご飯を与えられて、苦しくて泣いているんだな」と。
逆にB君は思います。
「よかったね。C君はご飯をもらえてうれし涙を流してるよ」と。
ここから分かるように、ある事柄の「何であるか」は見る人そのものの経験の反映(いわゆる解釈)でしかなく、客観的に正しい真実ではありません。
むしろ見る人その者が、今までどういう経験をしてきて、どういう形で世界を捉えているかの表明になっているだけなのです。
二、例えば、黙々と街角でゴミを拾っているオジサンがいたとします。
善意を自然に与え合うあたたかい環境に育った人なら、純粋にそのオジサンをいい人だと思うでしょう。
逆に嘘と欺瞞ばかりの冷たい環境で育った人は、オジサンはいい人に見られたいからゴミ拾いしているだけの偽善者だ、と思うでしょう。
お金に換えるためにゴミを拾っていると思う人、町内会の仕事で仕方なくやっていると思う人、等々、解釈はさまざまです。
そのオジサンをどう見るかによって、見る人自身がどのような人でありどのような世界を所有しているかが分かるのです。
他者に与える評価は自己の都合を反映しただけの主観的解釈に過ぎません。
三、また、他人が私に与える判断が客観的な正確さをもたないからといって、私が私をどう見るか、自分が自分に与える「どのような人であるか」が正しい訳でもありません。
先ほどの例でいえば、C君に直接自己をどう見ているか訊けば、何で泣いたか分かるじゃないかと、普通は思います。
しかし、例えば「弟が好きだから、お世話をする」と言うお姉ちゃんは、本当は弟をお世話すればパパが褒めてくれるからやっているだけで、好きなのは弟ではなくパパかもしれません。
また、「ママが嫌いだからいたずらをする」と言う男の子は、本当はさびしくてかまって欲しいから、大好きなママの注目を得るためにいたずらをしているのかもしれません。
本人の自己評価など大抵は自己を肯定するための建前や言い訳でしかありません。
心理学者なら言うでしょう、「自己評価ほど間違ったものはない、だから私があなたの本当の姿を暴き出してあげましょう」と。
しかし、心理学者が言う「本当のあなた」の姿も先ほどと同じように、たんに心理学者その人の過去の経験や、自分がどういう学派に身を置いているかの表明にしかなりません。
心理学者の意見も、他の心理学者から見れば、単なる解釈のひとつでしかありません。
結論として、私がどのような人であるかという「真実の私」など決して誰にも分かりません(私自身にとっても)。
私という人間は、私を見て解釈する人の数だけある相対的にのみ許された存在なのです。
世界という事象は、世界を見て解釈する者の数だけある相対的にのみ許された存在なのです。