サルトルの『存在と無』(1)基礎用語編

哲学/思想

はじめに

本書『存在と無』の副題は「現象学的存在論の試み」です。
読み進める前に先ず、本書で使われる現象学と存在論の基本的な用語を理解しておく必要があります。
また、併せて本書のキー概念となる「即自」「対自」「アンガージュマン」を簡単に解説しておきます。
既に理解しておられる方は(2)の本論から読み始めてください。

志向性とは何か

サルトルの哲学は主にフッサールの「志向性」という概念に依っています。
デカルトは、人間の意識というものを徹底的に分析(解析)し、学問の基礎としての「コギト(我思うゆえに我あり)」を発見しましたが、フッサールはこのデカルト的な意識をさらに深く追究し、この純粋な意識の本質となるものを「志向性」としました。

「意識とはつねに“何ものかについての”意識」であり、意識は何かに向かって志向しない限り意識として成立しません。
これが志向性です。
「リンゴを意識する(対象の知覚)」とは、リンゴを志向するリンゴ“についての”意識であり、「私を意識する(自己意識)」とは、私を志向する私“についての”意識です。

心の現象は対象なしには成立しません。
知覚は知覚される対象を必要とし、思考は思考されるある概念を必要とし、感情は感情の向けられる対象を必要とし、欲求は欲せられるものが必要であり、志向性はつねにその内に何らかの対象を含んでいます。

ここで重要なことは、経験に先立つ確立された対象(リンゴ)が先ずあって、それを意識主体(私)が志向し、「対象(リンゴ)についての意識」が成立するということではありません。
意識とは、リンゴという対象を、存在として定め、立て、世界の中に現われさせる、対象についての定立(措定)的な意識なのです。
厳密に言うと、「意識とはつねに“何ものかについての”定立的な意識」なのです。

例えば、私はお腹が空いていなければ、知人の部屋の隅に飾ってあるフルーツバスケット内のリンゴを意識(志向)することはありませんし、対象(存在)として定立させることもありません。
私とは別の人間は、その対象をリンゴではなく、イミテーションの蝋細工として定立する可能性もあり、人間の意識経験に先立つ対象の存在に確実性はない、というのがデカルトの議論です。
しかし、私がそのリンゴを意識して「リンゴだ!」と思った瞬間は確実な存在としてリンゴ(対象)を定立してしまっており、その後、手に取ってかじった瞬間、蝋細工だと意識され直すと、同時にその対象は蝋細工という存在に定立され直します。

非定立(非措定)的意識とは何か

意識は、超越的な(意識の外部、向こうにある)何らかの対象を定立せずには成立せず、かつ意識は常に意識ではない存在(対象)を志向しています。
これを「定立的な意識」と呼びます。
しかし、意識にはもう一つ別のベクトルの作用が働いています。
それが「非定立的な意識」です。
私は何らかの対象を意識しながら、そこはかとなく(非措定的、非定立的に)意識していることを意識しています。
それは意識(何ものかについての意識)であることの自己証人としての意識であり、コギト(我思うゆえに我あり)の明証性の根拠となるものです。

分かりやすく身体に喩えるなら、私は固い鉄塊を握る時、そこはかとなく同時に手の柔らかさを感じていますし、鉄の冷たさを感じると同時にそこはかとなく自分の体温のあたたかさを感じています。
このそこはかとなく感じられている非措定的な感覚が、私の身体こそがその固く冷たい鉄塊を感覚している身体それであることの明証性を保証しているのです。
意識についても同様であり、対象を(定立的に)意識していることをそこはかとなく(非定立的に)意識していることの意識が、私の意識の明証性の根拠となっているのです。

実存(現実存在)とは何か

私たちは経済や宇宙や生物や心など、様々なものの成り立ちを問い、それについての専門の学問(経済学、物理学、生物学、心理学など)を持っています。
しかし、これら諸々の学問の暗黙の前提となっている「存在」というものそのものについては問いません。
もし、人が物理学を極め尽くし、宇宙の構造や法則を知り尽くしたとしても、では、その物理法則や宇宙が「存在する」とは一体どういうことなのか、に関しては分からないままです。
存在の不思議に対して、ただ驚くことしかできません。

この存在というものそのものの成り立ちを解明しようとするのが「存在論」と言われるものです。
存在論という概念自体は近代以降の発明品ですが、古代ギリシャの哲学者アリストテレスがその主著である『形而上学』においてこの「存在とは何か」について徹底的に追究し、後の存在論における重要な諸概念を確立しました。
このアリストテレス存在論における実体(ウーシア)の概念が、中世スコラ哲学以降、対になる二つの存在概念として規定され直されることになります。
それが「事実存在(existentia)」と「本質存在(essentia)」です。
有名な「実存主義(existentialism)」の「実存(existenz)」とは、この「事実存在」の省略です。
伝統的に事実存在に対し本質存在が優位におかれていたわけですが、サルトルはこれをひっくり返して、「実存(事実存在)は本質(本質存在)に先立つ」と言うのです。

本質(本質存在)とは何か

事実存在(あるいは現実存在)というのは字義通り、端的に事実(現実)として具体的にあるものが存在していることです。
日本語の「~がある(何々が在る)」にあたります。

それに対し本質存在は日本語の「~である(何々である)」にあたります。
「本質」とは、あるものが「何であるか」を説明するための概念です。
例えば、菓子の「おまんじゅう」の本質は、「丸くあり、甘くあり、外は蒸した小麦生地であり、内は潰した小豆である」という感じでしょうか。
「~である」という術語で説明される存在が、本質存在です。

あるものを構成する諸々の性質の内、そのものの個性を成立させるためになくてはならない重要な性質が「本質」です。
赤いまんじゅうや草色のまんじゅうも普通にありますので、まんじゅうの色は二次的な性質であり、本質ではありません。

しかし、本質を決定するということはかなり難しい作業です。
例えば、饅頭を蒸さずに焼けば焼き饅頭というよりアンパンの本質に近付きますし、もみじ饅頭はおまんじゅうの本質よりカステラの本質に近く、正確にはプッチンプリンはプリンではなくプリン味の寒天ゼリーです。
身近なおまんじゅうやプリンの本質すら明確ではありません。
ここにプラトンが徹底的な対話にこだわった理由があります。
イデア論とは事物の本質抽出を論じたもので、問答法(弁証法)とはそのための方法論です。

フッサールの提示した、本質を決定する手続きとして「自由変更」という概念があります。
これはプラトンの弁証法を思考実験的な作業手続きとして行うものです。
頭の中で対象物を自由に変更していって、それがそれでなくなる瞬間の境い目が、そのものの本質のアウトラインだということです。
例えば、イスの座面の角度を30度に変更しても座れるのでイスですが、60度にすると座ることは不可能でイスではなくなり、むしろイーゼル(画架)の本質に近付きます。

即自存在とは何か

ヘーゲル弁証法では、理性にせよ存在にせよ万物は、「即自→対自→即自かつ対自」を基本原理とする運動によって発展するとします。
「即自」とは自らに即してある状態であり、「対自」とは自らに対してある状態であり、即自かつ対自とはこれらを総合した状態です。

サルトルはこの用語を援用し、実存(現実存在)と本質(本質存在)が合致したような存在を「即自存在」と呼び、反対に実存と本質の間に無が介し、分離したような状態で存在するものを「対自存在」と呼びます。

先ず、「即自存在」とは何でしょうか。
それは、存在とは何か?を問うた時に自然と出る答え、「存在はそれ自体においてあるもの」「存在はそれがあるところのものであるもの」です。
例えば、目の前の「石」や「犬」などの普通の存在は、自然と自らが癒合したような一体の安定状態にあります。
揺らぐことのない自己同一性をもち、サルトルは「それがあるところのものであり、それがあらぬところのものではあらぬような存在」として、「即自存在」を定義付けます。
禅問答のような言いまわしでイライラしますが、平たく言えば、同一律(及び矛盾律)「AはAであり、Aは非Aでない」のことです。

これは「AはAである」と、主語と述語が一体となっている状態です。
主語とは現実実存、術語とは本質存在のことです。
「これ(このリンゴ)は、リンゴである」と言う時、前のリンゴはこの眼前の現実のリンゴを指し、後ろのリンゴはその本質を述べる概念(説明=術語)としてのリンゴです。

例えば、ダイヤモンドの本質(モース硬度10、炭素の同素体、比重3.52)はダイヤモンドの現実の存在と常に一致しており、もし、目の前にあるダイヤモンドが氷砂糖のように柔らかければ、それはダイヤモンドでない別の物体として扱われるだけです。
本質と実存が異なった物体(あるいは即自存在)など原理的に存在しません。
なぜなら、物の存在を認識する際に、つねに本質(定義)が実存に先立っているからです。
「この物体はダイヤモンドの本質をもつからダイヤモンドだ」というように。

しかし、即自存在が、「それ自体においてある存在」「それがあるところのものである存在」と言えるためには、「それは何か?」と存在について(~ついて=志向性)問うことのできる別の存在(要は人間、意識)を前提としています。
これは即自存在とは別様(別の存在論的構造)で存在するものがあることを示唆しています。
これが「対自存在」です。

対自存在とは何か

存在について問いを発するものは意識です。
意識の定義は先にも述べたように、「何ものかについての意識」です。
「何ものか(即自存在、対象)」と「意識」の間に埋めることのできない裂け目があり、その間隙があるからこそ、そこをつなぐ「~について(志向性)」が構造的に成立します。
意識とは、いかなる存在(即自存在)でもないことにおいてあるものです。
この存在からはみ出るもの(存在)、即自存在(あるところのもの)には入ることのできない「存在であらぬもの」としてはたらくもの(存在)を「対自存在」と名付けます。
まとめると、対自存在は、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるような存在」と定義付けられます。
これまた分かりにくい表現ですが、先の同一性「AはAである」はずの即自存在を否定するものこそが対自存在である、と言っています。
即自存在ではない存在が存在する、と言っています。
「AはAでなく、Aは非Aである」を成り立たせるもの、いわば現実存在と本質存在の合一を壊すものこそが、対自存在なのです。

なぜ、「対自」と呼ぶかと言うと、意識は常に「~ついて」という構造の存在、言い換えれば、「自己にとって、自己に対して、あるものが存在するという仕方で存在するもの」だからです。
これは何ものかとして積極的(定立的)に存在するものではなく、何ものでものないもの、いわば存在の無としてある消極的(非定立的)な存在です。

また、いわゆる自己反省のように、対自存在(意識)は自分自身に対しても、無を介在させ存在しています。
幼児に自己意識が芽生え、私と私が分離し、自らに対するように自らが在るようになった状態です。
私自身を対象(即自存在)のように志向し見る意識主体である私(対自存在)の成立です(要するに自己意識)。
この状況においては、私(対自)は常に私であるところのもの(即自としての私)から、脱け出し、跳び越える、脱自的・超越的な在り方においてあります。
人間(意識)存在とは、対自が即自(それであるところのもの)を否定し無化する作用であり、人はこれを「自由」と呼びます。
対自は、即自としての私、本質規定された私を、常に脱し続ける存在であり、つまり自由そのものなのです。

例えば、のび太君という人間の本質は「バカであり、のろまであり、臆病であり、お人好しである」ように在ります。
しかし、即自存在である物体や動物と違って、自分の存在を反省的に観ることのできる対自存在(人間主体、意識主体)であるのび太君は、この本質(即自存在としての私の何であるか)を反省的に否定し、「賢くあり、機敏であり、勇敢であり、積極的である」のび太へと成れる可能性を常にもっています。
著作権問題で話題にもなった有名な二次創作のドラえもんの最終回では、壊れたドラえもんを直すために、のび太君は自己の本質を否定し、脱し、賢く勇敢で積極的なキャラへと変貌します。
人間は、いま在る本質を否定し、別の本質へと作り変えていく創造的な可能性を持っているからこそ人間なのであり、サルトルはそれを「無」あるいは「自由」として定義付けます。
自由とは無の翻った表現です。
人間の本質とは本質のないこと、「無」であることそのものなのであり、裏を返せば、人間とは自由の鎖から逃れられない刑に処された存在なのです。

「対自は、それがあるところものであらぬと同時に、それがあらぬところのものである」
「対自においては、実存が本質に先立ち、本質を条件付ける」
「対自にとって、本質とはあったところのものである」

アンガージュマンとは何か

「アンガージュマン(engagement)」は、一般に「社会参加」の意味でとらえられますが、サルトルの場合は「自己拘束」という意味が主になっています。
サルトルはあくまでも、他者あっての自己、自己あっての他者と、弁証法的な関りとして自己と他者を規定するので、自己拘束は同時に社会参加を意味するものだからです。
先にも述べたように、意識(志向性)から出発するサルトルの哲学の場合、当然「社会参加」より「自己拘束」の意味が先立つことになります。
ちなみに「アンガジェ(engage)」は「自己拘束的」です。

例えば、私が社会からドロップアウトし風来坊を選んだとしても、私はそれによって自己の何であるかを規定「自己拘束」し、同時に、社会の中での自分のあり方(社会役割)、人間のあり方(人類の規定)、社会のあり方(社会の理想)を選択し、「社会参加」することになります。
すなわち、風来坊を選ぶことによって、私は、管理社会の中で生きることなどに価値はなく、人間の意義は頑張って勉強し働くことではなく気ままに遊び暮らすことであると、社会と人間の本質を選択し、規定し、拘束しようとする(企てる)のです。

人を「愛する」とき、私は愛する者として自己を選ぶ(自己拘束)と同時に、世界を愛あるモノとして選ぶ(社会参加)のです。
管理社会で生きるか個人で生きるか、愛すべきか愛さざるべきか、そういうひとつひとつの選択によって、私は世界を意味付けると同時に、私の何であるかがそこに映され、私自身に知らされるのです。
私は愛することを選び、心優しい貧しい青年を選んだ。
それによって、私という人間がどういう人間であるか、世界はどうあるべきだと考えているかが、露わになります。
重要なことは、選択以前には、私の何であるかは、決してあらわれないということです。
生き方(選択)そのものが、私の本質をつむぎ出していくのです。

おわりに

世間で言われる実存主義の「実存」(単なる現実存在の意ではなく、人間的実存のこと)という語が『存在と無』にはほとんど出てきません。
それについて翻訳者の松浪信三郎はこう述べています。

この実存主義の代表的著作のなかに、「実存」existence という訳語があまり出てこないことを、 不審に思われる方があるかも知れない。実をいうと、「意識」もしくは「対自」が、それに当るわけである。いっそう適切にいえば、「身体をともなった意識」「下半身が事実性のなかに尾をひいている対自」が、いわゆる「実存」なのである。「脱自的存在」être ek-statique といわれているのもそれであり、あるいはまた、ハイデッガーにならって「世界 – 内 – 存在」être-dans-le-monde といわれているのもそれである。しかし、本書の全体を通じて、われわれが今日「実存」と呼ぶところのものにまさに相当する概念は「人間存在」réalité humaine であろう。(ちくま学芸文庫版『存在と無 第三巻』524項より)

 

(2)本論へつづく