神の本質
では、これらすべてを含む神は、どういうものであるかというと、それは、現実的にあらゆる可能性を含んだ存在であり、かつそこからあらゆる可能な述語(観念)を導出することの出来る存在です。
分かりやすく言うと、物理的世界全体でありかつ、すべての完全な原因、理由をその内に持つ絶対的(必然的)な知性です。
神が持つのはすべての可能な観念であり、「四角い円」や「白くない白」のように不可能なもの(最初に挙げた矛盾律に抵触するもの)は持ちません。
神は可能世界の中から、最も実在性のあるものによって世界を創造しました。
この現実世界というものは、常に神に選ばれた最善のものによって構成されており、実在は即、善となります。
部分的に悪に見える事物も、全体を見ると調和し善として実在しています。
明るく彩る部屋の隅にある影(陰)のように。
悪の本質
ライプニッツにおいて悪というものは積極的な存在ではなく、たんなる善の欠如態(欠如、欠陥、否定、無)でしかありません。
存在するのは神、実在(善)のみであり、悪に原因などなく、それはたんに善の光量(暗さ)から生じるものです。
存在は善であり、悪はその欠如(無)です。
私達が物理的に悪と呼ぶもの、病気(身体の欠如)、死(生の欠如)、飢え(食物の欠如)などは、全て人間(個体的事物)の有限性(暗さ)に由来するものです。
精神的(道徳的)に悪と呼ばれるものも、理性の欠如や理解の欠如(誤謬)を原因とし、それも人間の精神的、知的な有限性に由来します。
存在の完全性
存在がすなわち善であり神であることを看取できるのは、存在の完全性を把握する時です。
存在の完全性とは、可能な限り多様でありかつ秩序を持つ、豊饒でありながら斉一性を持つ、世界です。
要は質・量ともに最大となる存在のあり様であり、片方だけが最大であるだけなら存在として最悪です(多様なだけのカオス、変化のない死んだ調和)。
悪の由来がその有限性にあると述べました。
しかし、事物は有限である(限界や制限がある)がゆえに、世界は存在として多様で豊饒なのです。
魚に羽がない(飛べない)、鳥にエラがない(泳げない)からこそ、生物は多様なのであり、もし、生物が何の限界も持たない完全なものであれば、世界にはただ一種の生物しか存在しなくなります。
仮に悪天候で嫌だったとしても、地球の気象のつながりとしてはその局所的な悪(天候)が必要なのであり、局地に居る私にはそれが悪であったとしても、神の目で見れば、それは端的に変化と調和の実現した完全な存在のあり様(善)であるのです。
悪天候のない世界を望むということは、気象という存在を丸ごと否定することであり、私の好きな青空(良い天候)をも放棄することになります。
神の御前にあっては、あらゆる存在者はそれ自体として軽蔑されることも尊重されることもありません。
優れた音楽家は協和音と不協和音を巧く混ぜ、優れた料理人は様々な味覚の変化と調和で美味を作り出します。
いくら美しくとも同じメロディーを延々と聴かされ続ければ、それは監獄の刑罰となり、甘いものが好きだからといって、そればかり食べ続ければ、頭痛を生じさせ、やがて味覚は麻痺します。
変化と調和の両立が喜びの法則であり、そのどちらかあるいはどちらも欠くと、人は不幸になります。
生の肯定
苦しみや悪を生じさせるのは、事物そのものではなく、限られた経験や知識にのみ依拠して世界を意味づけ糾弾しようとする、その傲慢な人間のあり様なのです。
勿論、事物と世界の関係性(充足理由律)を観じ、いま目の前にある私の苦しみの必然を知ったとしても、別にその苦しみ自体がすべて消えるということではありません。
しかし、苦しみに必然的な理由がある時、人はそこにある種の満足と、苦しみに対する忍耐を生じさせます。
理由のない苦しみこそが苦しみである(ニーチェ)、ということです。
分かりやすく例えてみます。
1.何の罪もない者が苦しめられる理由のない苦しみ、例)暴漢に襲われ死んでしまう。
2.理由のあることで苦しめられる必然的な苦しみ、例)自堕落な生活習慣病で早死にしてしまう。
3.理由がありかつそれが全体として他者のためになっている苦しみ、例)私が死ぬからこそ、誰かが生まれることができる。
1.にも必然的な理由がありますが、人間には開示されにくい難しい苦しみの事例です。
2.は人間にも理由が開示されやすい単純な苦しみの事例です。
3.は全体的な理由のつながり(必然性)が把握されている場合の苦しみです。
1.→2.→3.の順で、必然性(理由)の把握が完全になっています。
私が世界について知っているのは微々たる部分あり、私が観じている悪も、宇宙にある善きものに比べればほとんど無に等しく、世界は私が観ているほど苦しみに満ちたものではないと、ライプニッツは言います。
“人間は死ぬ間際、来世でまた同じだけの喜びと苦しみを経験するとしても、満足してまた同じ人生を歩むことに同意するだろう”
おわり