はじめに
ここで言う「詩」とは、「詩的なもの」という広い意味で使っています。
詩(詩的なもの)の良さがイマイチ分からない人に対して、ざっくりそれがどういうものなのかを簡単に説明することが目的です。
詩的なものとは
詩的なものをゆるく定義づけるとしたら、1.間接的に、2.美しいものを表現する、という感じでしょうか。
両方が揃わないと詩的にはなりません。
間接的なだけでいいなら、単なるイヤミ(間接的に悪口を表現する)も詩になってしまいますし、美しいだけでいいなら、単なる美人も詩になってしまいます。
そこで、いくつか日常にころがる詩的な作品を具体例として解説してみます。
おーいお茶の俳句
最初に、ひとつの詩を紹介します。
伊藤園のおーいお茶のペットボトルの裏側に載っていた俳句です。
肩書きの 取れて大きな 夏帽子
詩的な表現に慣れていない人には、この間接表現が何を指しているかいまいちピンとこないかもしれませんので、直接的な表現に直してみます。
「肩書きが取れる」というのは、定年退職するということの間接表現であり、「大きな夏帽子」というのは、子供が夏休み田舎でかぶる麦藁帽子のように、自由であることの間接表現になっています(ちなみにこれはシニアの部で紹介されていた作品です)。
間接表現は「肩書き、夏帽子」で、それによって表現される美しいものは「新しい人生を謳歌しようとする爽やかさ」です。
最後の一葉
よくドラマで登場人物が死ぬ時、その心停止の直接表現として心電図モニター(ピッ・ピッ・ピーーー、の機械)が利用されます。
これを木の葉による間接表現に置き換えると、よくある詩的な表現(病室から見える木の最後の葉が落ちた時、少女は死ぬ)になります。
間接表現は「落ちる木の葉」で、それによって表現される美しいものは「少女の死(オフィーリア的な)」です。
海辺に立つ鳥居
厳島神社や白髭神社など、海辺(あるいは湖)に立つ鳥居は、とても詩的で美しい光景です(写真はフリー素材)。
なぜこの光景が詩的かというと、この鳥居が間接的に何かを表現しているからです。
欧米のある著名な建築家が、それについて以下のような主旨のことを述べます。
いわば鳥居はカテドラル(聖堂)への門です。
門はあるのに本来あるはずのカテドラルはなく、門の向こうにはただ、海や水平線、青空が広がるだけです。
そこで気付きます、「ああ、そうか、広がる海や水平線の彼方がカテドラルなのか。万物自然を神とする日本(神道)においては自然そのものが聖堂なのだ」と。
間接表現は「向こう側に何もない鳥居」、表現される美しいものは「海の彼方にある神の国」や「神なる自然」です。
[勿論、正しくは海辺(あるいは湖)の鳥居は、本来海側から見るものであり、その向う(陸)のどこかに必ず神社があります(神社自体がなくなって鳥居のみ残っている場合もあり)。だから、この建築家は陸側から海を見て、向うに何もないと勘違いしているだけなのですが、それは瑣末な問題です。写真のような光景から私達が感じる詩的なものの本質を、建築家は上手く言い当てています。]
詩は受け手の心の中にある
結局これらは受け手の問題でもあります。
単純に直接表現しか見ない人に対しては、どれだけ詩的な間接表現で訴えても、その表現したい美しいものは届きません。
例えば、尾崎豊が表現する「盗んだバイクで走り出す」という歌詩の言葉は、間接的に美しいもの「15歳の多感な少年の繊細さ(ジェームス・ディーン的な)」を表現しています。
しかし、それは尾崎のリスナーが詩を求め、理解し、楽しもうとしているからであって、これが詩的素養のない直接的で事務的な大人であれば、「ただの犯罪者じゃないか、教育に悪い」と受け取るだけです。
逆に、間接表現を読み取ることに長けている人には、世界中のどんな事物も詩的な意味を持ってきます。
例えば、すいこまれる空の青には心のたゆたい(動揺)を、踏み潰された空き缶には人の哀しみなどを観じます(両方、尾崎の歌詞です)。
[ちなみに青空は対象物も形体も距離も持たないため、焦点を定めることができません。すると眼が延々と焦点合わせをするため、無限に吸い込まれるような感覚を生じさせます。その不安定な感覚を、胡蝶の夢のような現実か幻か決定できない宙吊りのふわふわした感覚としてとらえ、卒業の時に感じる学生の浮遊感と心の動揺に重ね合わせるという芸当をやってのけるのが、尾崎の『卒業』の歌詞冒頭です。]
詩の意味も受け手の心の中にある
受け手自身が間接表現を読み取ろうとしないならば、詩は存在できないように、詩の意味内容も受け手自身の心の中にしかありません。
例えば、芭蕉の有名な句「やがて死ぬ けしきはみえず 蝉の声」の意味は、間接表現である「短命な蝉の鳴き声」によって、「人生のはかない無常観」を表現しているというのが、一般的な解釈です。
それに対し、禅の鈴木大拙は、蝉はいつ死ぬかなど頓着せず、ただ自分の精一杯の生を発揮し、全力で啼き今を謳歌している、そういう「即今(今を生きる)」の精神が表現されていると解釈します(ちなみに芭蕉は禅者です)。
この詩が凡庸な「無常観」か、禅的な「即今」の表現かなど、誰にも決定できません。
そもそも誰もその時の芭蕉の状況、どんな気分で、どんな蝉の声を聴いたかなど決して分かりはしません。
ジャイアンリサイタルのような大合唱で啼くミンミンゼミなら、そこに無常観を感じるよりも大拙的な解釈の方がはまり、ヒグラシであれば諸行無常の静かな鐘の音のようで無常観にピッタリです。
しかし、無常が明るさによってさらに引き立つともいえますし、そもそも芭蕉は蝉一般としての抽象的な蝉声を詠んでいるだけかもしれません。
受け手がこの詩によって、どういう情景(コンテクスト)を思い浮かべ、どういう気分でいるかによって、意味はまったく変わってきます。
[よく学校の試験などで、詩(小説)の意味や作家の意図を問う問題が出ますが、厳密に言うとそこで問われているのは作家ではなく「出題者の意図」です。出題者がその詩をどう解釈しているかを推察して解答する試験であり、もちろん正解は「出題者の解釈」です。入試問題などに自分の作品を提供している作家自身がそのテストに解答したら、全問不正解だった、みたいな笑い話はよくあります。]
直接表現vs間接表現
一般的に詩的なもの(間接的表現)を読み取る人は、直接的な人から面倒くさい奴と思われがちです。
しかし、逆に詩的な人から見れば、直接的な人間は鈍感であり、実利的なものに忙殺された人です。
もちろん、そんなものは好みの問題で、直接表現の多いハリウッド映画が好きか、詩的表現の多いフランス映画が好きか、みたいな話です。
どちらでも良いのですが、個人的には間接表現を推します。
そうでないと、あまりにも世界が単調だからです。
直接表現推しの人は、元々直接的な性格の人か、あるいは直接的な世界が豊かで間接表現を必要としない忙しい(幸福な?)人です。
しかし、多くの人は非常に限られた狭い世界に生きており、単調な人生を送っています。
だから詩的なものによって、その限られた物事に別の意味可能性を読み取り、世界を豊穣にした方が良くないか?ということなのです。
たとえそれが、住み難い世の中からの逃避(夏目漱石の『草枕』冒頭を参照)を謳うことであったとしても。
詩は世界を豊かにするためのツール
額に汗して働いたこともないのに、労働者についてやたら語りたがる学者をよそに、未熟練工として実際に工場で倒れるまで働き思考し続けた思想家にシモーヌ・ヴェイユという人がいます。
非常に単純ですが、彼女が工場労働を通して出した結論のひとつは「詩をもつこと」です。
過酷で単調な生活の中でも、詩を見出せることができれば、そこにある種の癒しや豊かさや意味を、生み出せるということです。