ある有名な哲学者は、間違いに見える意見もその人と同じ視点(立場・状況)に立てば正しいものに見えると言います。
もし私が、間違ったことを言っている(と私が思う)人とまったく同じ経験と同じ視点を持てば、当然同じような意見を支持し、同じような行動をすることでしょう。
つまり、他者の「間違い」とは、私の他者(の立場・状況)に対する理解の足りなさから生ずるものであるということです。
現代的な視点から、過去の人々の間違いを糾弾する人たちが多くいますが、彼ら(現代人)は過去の人々の状況をまったく理解せず、ただ現代と過去の状況の齟齬(場違い)を「間違い」として捉え違えているにすぎません。
彼ら現代人の意見も、いずれ同じように(他者の状況を読めない)未来の人々から間違いとして糾弾されるでしょう。
そのような時間的な状況の齟齬(時間的な隔たりによって生じる場違い)だけでなく、空間的な状況の齟齬(空間的な隔たりによって生じる場違い)でも同じことが起こり、私は同時代に生きる私とは異なるサークルに居る他者を間違った人間として糾弾するでしょう。
反対に糾弾される彼らも、私を間違った人間として糾弾することでしょう。
あるのは「間違い」ではなく「場違い(状況の違い)」であると気付いた時、はじめて「本当の間違い」の可能性(つまり正しさへの道)が開かれます。
それまでは、単なる「場違い」を「間違い」として勘違いして叩き合っているだけにすぎません。
同じ坂道を前にして、上に居る者はそれを「下り坂」だと主張し、下に居る者は「上り坂」だと主張し、死ぬまで喧嘩し合っている寓話のバカ兄弟のようなものです。
勿論、人は「場違い」に気付くことを恐れます。
それは自己の世界が、しょせん相対的なひとつの視点にすぎないことに気付くことであり、自己のナルシシズム的世界を護るためには、他者の場(視点)を徹底的に否定する(見て見ぬ振りする)必要があるからです。
しかし、私にはそのようなネガティブで反動的な生き方が幸せであるとは思えません。
場違いに気付き、自己の世界が不安定になるリスクを取ってでも、他者との理解の可能性を開いた方が、より幸福になれる可能性も開かれるからです。
それは新世界を目指す、一種の冒険のようなものです。

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おわり
