人生というウイニングラン

人生/一般幸福論

 

この世に生命が誕生する確率が、10の四万乗(10の後にゼロが四万個付く)分の一と言われていますが、さらに人間として、さらに現代の日本という歴史的にも国家的にも極めて豊かな状況に生まれる確率を考えると、もっと多くのゼロが付きます。
ちなみに一億円宝くじ当選確率が10の七乗分の一なので、(毎回一枚だけ購入して)一万回連続一億円宝くじに当選するようなあり得ないほどの超幸運によって私は産まれています。
人気お笑い芸人が「生きてるだけで丸もうけ」と述べるように、生きることを制度的に保証されたこの国に生まれた時点で、既に十分な幸運を回収しています。[註1.]
つまり、生れた時点で私は圧倒的勝者であり、残りの人生とはウイニングランのようなオマケの遊戯時間、喜びを味わう束の間の時(約八十年)にすぎません。

しかし、一万回連続一億円宝くじに当選したような勝者が、狭い日本に一億二千万人集結しているため、この事実(超幸運な私)が見えなくなります。
「幸福は相対的なものなので、豪華な弁当を食べる私の横でより豪華な弁当を食べる人が居ると、不幸を感じる」などとよく言われます。
ですから、いかに私が超幸運であろうと一億二千万人の超幸運者の間で比較が生じ、相対的に不幸を感じてしまうということです。
ウイニングランナーたちの楽しいはずの並走が、いつの間にか競争になり、そこにまた多くの敗者(不幸)が生じてしまうという訳です。

しかし、この考えは根本的に誤っています。
本当に相対的なら、ご飯すら食べられない他国の人々や日の丸弁当がご馳走だった戦時中の日本人と比較して、私は私の豪華な弁当に幸福を感じるはずだからです。[註2.]
私の相対性とは極めて短絡的なもので、眼前のものとしか比較しません。
隣に居る同期のバイトの時給が20円上がっただけで憤怒し嫉妬に狂う人も、恐ろしいほどの社会的な賃金格差には無頓着でいます。
また、私の相対性とは極めて選択的なもので、恣意的に選別したものとしか比較しません。
飢えた子供のネット記事はスルーして、豪遊するインフルエンサーの記事を閲覧し、己の不幸を嘆きます。
私の相対性は、短絡的で恣意的な自己中心的相対性にすぎず、実態としては相対性とは正反対のものです。

そのような甘っちょろい偽の相対性ではなく、本当の相対性で物を観る人であれば、己の生の圧倒的幸運に対する感謝の中で、ウイニングランナーとして人生を楽しく生きていくことでしょう。[註3.]

 

おわり

 

註1.
勿論、制度的保証の外にある場合は例外です。例えば、虐待死する子供は毒親によって法制度の保護の外に置かれています。

註2.
母数(母集団)の小さい相対評価は無意味であり、むしろ相対の皮をかぶった絶対であり極めて詭弁的なものです(”誤った二分法・多重質問
“に似た構造)。本当の相対性は、狭く限定されたもの(恣意的相対性)ではなく、広大なものなので、私の豪華な弁当と隣人のより豪華な弁当の差など区別不可能なほど小さくなり(いわゆる最小可知差異-JND-)、全くどうでもよくなります。

註3.
相対的比較によって物事を観ること自体、卑しく不幸なことだと述べる人も居ます。しかし、人間は言語(相対的関係構造)によってしか現実世界を捉えられません。相対的比較を止めるということは、何も認識しないこと、あるいは狂気(ジャック・ラカン的な意味での)に陥ることを意味するだけです。事実は反対であり、人は相対的比較を極めた時(いわゆる悟り)に、まるで相対的比較を止めた人のように見える(註2.の「その程度の差はどうでもいい」の境地)、というだけの話です。一般的に言われる卑しく不幸な「相対的比較」とは、先に述べた「あまっちょろい偽の相対性」のことにすぎず、「本当の相対性」にシフトした人は尊く幸福な人です。(最近流行の)相対的比較を否定するオンリーワン論者については、単なる自己欺瞞としか言えません。

 

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