時代や文化によって時間をとらえる枠組みは異なり、私たち現代日本人(のほとんど)は、西洋(ヘブライズム・ヘレニズム)的な直線的な枠組み(目的論)で時間を捉え生活しています。
ユダヤ・キリスト教徒(ヘブライズム)にとって人生の行いが未来(最後の審判)のための手段(徳を積んで天国に行く)であるのに似て、常に私の行いも未来に向けた手段となっており、未来を先取りしながら生きています。
大学生活を想像しながら一生懸命受験勉強し、悠々自適の老後を思い描きながらせっせと働いています。
人生のみならず、平日は休日(安息日)へ向かう苦行の道であり、楽しい休日が終わるとまた(次の休日に向かう)辛い一本道がまっています。
このような「現在の行いは未来を目的とした手段である」という直線構造が、平均的な日本人の時間の捉え方であり、それ以外の時間の枠組みに対しては、原始的で稚拙なものとして見下します。
未開民族が「永遠の今日(一日の無限反復の人生)」として点(あるいは小円)的に時間を捉え生活していれば、「だからお前らは成長・進歩しないんだ」と、西洋(文明)人は説教を垂れます。
しかし、人間には向き不向きがあり、それぞれが”活きる”時間の枠組みは異なるはずです。
現実に反復など存在せず、反復は変化を感知できない雑な感性の持ち主が体験するものにすぎません(反復は心の抽象化作用)。
私が今日という一日を真摯に生きれば、次の今日は必ず変わっています(真摯に生きれば生きるほど変化の度合いは大きくなる)。
「アハ体験-画像変化クイズ」のように、白いバラを持った人の画像を徐々に変化させていき赤いバラにしても、多くの人はなかなか気付きません。
それと同様、私の一日も反復しながらすこしずつ変化していき、気付かない内にとんでもなく大きな変化となっています。
直線的時間を生きる人とは、マンガ家に成るという目的を持ち、その手段として今日マンガを描き、マンガ家に成る人です。
点的時間(永遠の今日)を生きる人とは、今日好きな漫画を描いていたら、その反復としていつの間にかマンガ家に成っていた人です。
それぞれ生き方として一長一短あり、どちらが良いかは言えませんが、どちらが自分に向いているかはある程度感覚的にわかるかもしれません。
「今日を真摯に生きる」というシンプルな信条の中で永遠の一日を生きているうち、私は目的意識高い系の成長至上主義の文明人よりずっと遠くまで進んでいるかもしれません。
しかし、「真摯な永遠の一日(いわばパーフェクトデイ)」を生きる人間の中には「成長」や「進歩」の概念など無いので、そもそもそんなことはどうでもいいのです(勿論「老い」や「退歩」の概念もない)。
目的論的な直線的時間を生きる文明人と、無目的な永遠の今日を生きる未開人の止揚(いいとこ取りの統合)が、「真摯な永遠の一日」です。
未来(目的)を生きることに違和感を覚えており、だからといって無目的の変化の(ほぼ)無い日々の反復は嫌だという人は、この「パーフェクトデイ」な生き方を試してみる価値が少しはあるかもしれません。
おわり
※小さな違いを楽しめる繊細な感性の持ち主が「永遠の今日(一日の無限反復の人生)」を愉しみながら生きる(ヴェンダース監督の『パーフェクトデイズ』のように)ということ(受動的完全性)ではありません。
真摯に懸命に頑張って今日を生きることによって、能動的に「完全な今日を自ら作る」ということです(真摯に生きなければ今日は不完全なまま)。
例えば、掃除夫が実存的な詩的感性でのんびりトイレ掃除をするのではなく、「今日も完全な一日にするぞ!」という感じで超完璧にトイレ掃除をするということです。
そのように完璧な今日の(一部である)トイレ掃除を追究するうち、いずれ独立することになるでしょうし、いつの間にか会社を立ち上げ従業員を抱えるメンテナンス会社の社長さんになるかもしれません。
