基本的に人間は環境の奴隷です。
平和な日本という環境に居る人の良いおじさんも、戦争という環境になれば生きたまま人を燃やしてヒャッハーする残忍な人間に成り、平和になれば何事もなかったかのように人の良いおじさんに戻ります(曾祖父世代のリアルな証言です)。
「人間の醜さ」も「人間の美しさ」も、多くの場合、環境の醜さや美しさであり、人間自体はカメレオンのように環境色に染まりやすい存在です。[註1]
例えば、新人バイトを虐める悪質なお局パートを排除しても、また別の中年女性がお局の位置に据わり虐めが始まるように、その環境自体が意地悪なお局を生成しています。
お局の虐めというネガティブな方法(負の刺激)で新人を職場環境へ馴化させる管理システムがその職場環境にある限り、永遠に虐めはなくなりません。
むしろ悪質なのはお局ではなく、その負のシステムを利用している優しい店長であり、バイトを管理するためにも、バイトを慰める「優しい店長」という上司キャラを維持するためにも、意地悪なお局は環境的に必要とされている悪なのです。
問題の本体はだいたい別の所にあり、いつも私たちは本体ではない再生産される不死身の敵と闘い続け、疲弊し、問題の解決を諦めてしまいます。

『バビル二世』の強敵ロボット・バラン。実は本体は鉄球であり、鉄球を壊さない限りロボットは倒せない。
いつも遅刻する駄目な私は、実は私自身が駄目な人間なのではなく、私の環境システムが私を遅刻するよう誘導している可能性が高いのです。
私の意志ではいくら闘っても負けていた「遅刻」という強敵も、遅刻しないような環境をデザインをすれば、容易に倒せるかもしれません。
デザイン用語に「アフォーダンス」という概念がありますが、私たちを取り巻く人工的環境が無意識的にある特定の行動を為すよう設計されているのと同じように、私は私の意図に沿った私の環境をデザインする必要があるのです。
いくら闘っても勝てないのは、私が弱いからではなく、敵ではない敵と闘っているからなのです。
勿論、その敵の本体を特定するのは難しく、いかにデザインするかは多くの試行錯誤を必要としますが、少なくとも敵ではない敵と闘う徒労感や諦めからは解放され、一歩前進します。
「美しい人間」とは人間が環境の奴隷であることを反省的に自覚し美しく環境を整えなおす人のことであり、「醜い人間」とは環境の奴隷であることに無自覚で環境を整えることのできない人のことです。
それは主体(性)などという未確認存在に頼るのではなく、「他人の作った環境の奴隷」であることを止め、「自分の作った環境の奴隷」になることであり、つまり、俺が俺をデザインするということです。
おわり
※註1
「自由と責任を持つ主体的人間」というのは、法治国家や民主主義を成り立たせるための要請にすぎず、現実にそぐわない「正しい嘘」です。
悲惨な環境から犯罪に手を染めた少女(誰でも同じ環境に居れば同じことをするだろう)を、裁き、処刑する時、彼女はその「正しい嘘」のための生贄となり、私たちの政治的な自由の理念を護ってくれるのです。
経済的成功は環境の運によるものだという明確なエビデンスがあっても社会的弱者が自己責任論によって見捨てられるのは、資本主義に必須の要請である「自由な経済主体(による公平な競争)」という「正しい嘘」のための生贄とし、経済的な自由の理念を護るためです。
環境の奴隷とならない「自由と責任を持つ主体的人間」も居るには居ますが、相当の経験や教育をもつ一部の限られた(道徳的)エリートだけです。
それは、狂気の環境においても正気の行いを為せる良い意味での狂人であり、日本中の人間が「1+1=3」を叫んでいる時に「1+1=2」と主張し狂人扱いされる稀有な勇者で、一般的ではありません。
