子供の頃は皆、純粋に楽しくて絵を描きます。
そこにおいては「過程がすべて」であり、過程を全力で楽しんでいます。
しかし、幼稚園の先生や親がその絵に対しご褒美(賞賛やお菓子など)を与えだすと、子供は過程を楽しむ内発的動機付け(内なる喜びによって駆ける馬)から、結果を求める外発的動機付け(ニンジンに釣られて走る馬)へとシフトし、「結果がすべて」の世界へ参入し、後戻りは難しくなります(E.L.デシの心理学実験)。

ナガノ『ちいかわ』
動機付けとしては内発的な方が、強く、良い結果も出やすく、環境に左右されにくい安定性を備え、精神的にも非常に健康で、いいことづくめです。
多くの偉人は内発的動機付けがベースで、自身の成した偉大な結果に対して、「自分は過程を全力で楽しんでいただけだ」という主旨のことを述べます(いわゆる”好きこそものの上手なれ”)。
では、なぜ大人(親や教師や上司などの管理者)は子供(被管理者)を外発的動機付けの世界に引き込むのでしょうか。
それは、単純に管理しやすいからです。
内発的動機は主体の自由な方向に進むため操作が困難ですが、ご褒美で釣れる外発的動機は簡単に操作が可能です。
管理者(管理する者)の望む方向へ、被管理者(管理される者)が動けば、正の反応(賞賛やお金や地位など)を与え、望まない方向へ動けば、負の反応(非難や罰など)や無反応(無視は負の反応以上の効果がある)を与えれば、行動分析学的に操作できます。
これはサーカスの動物に芸を教え込むプロセスに似ています。
管理者が「結果がすべて」という言葉を植え付けようとするのは、内発的動機の”強く”て”自由”な力を封じ込め、外発的動機によって動く隷属的・他者依存的な被管理者が欲しいからです。
勿論、外発的動機付けが悪いという事ではありません。
良く言えば、それは「社会化」であり、人間集団を管理するために無くてはならないものです。
問題は、私たちが「結果がすべて」と「過程がすべて」の双方の世界観を吟味した上で、「結果がすべて」を選択し生きているのではなく、半ば無意識的に植え付けられているという点です。
だからこそ、一度、意識的に「過程がすべて」という内発的動機付けの世界観を吟味し、生き方を再考して欲しいという事なのです。[註1]
「結果がすべて」の世界観に違和感を覚える人や、何らかの苦しみを抱えているような人は、もしかして「過程がすべて」の世界観が向いている人なのかもしれません。
結果など度外視で、イマの過程を全力で楽しんでいた頃の、内発的動機の強いエネルギーを思い出してみて欲しいのです。
それは、ニーチェの言う人間の成長の最高段階「始まりであり、遊びであり、自ら転がる車輪である、子供のような」自発的・自立的な生き方です。
人生のあらゆるイベント(大体はかけがえのない人生で一度限りの出来事)を、過程として全力で楽しみながら、良い結果が伴った時は神様がくれた幸運(結果は恵みとして収穫するもの)として喜ぶ、という一粒で二度おいしい人生です。
おわり
註1…「~がすべて」などという幼稚な言葉(安っぽい極論)は使いたくないのですが、「結果がすべて」という流行語に対するカウンターとして「過程がすべて」と言っています。もし「過程がすべて」の極端で生きれば、運が悪いと社会人として終りますし、もし「結果がすべて」の極端で生きれば、運が悪いと個人(固有の私)として死にます。問題は、過程と結果の(その人にとっての)中庸のバランス点がどこにあるかです。
