第一部、モノの形式的儀礼
第一章、過剰
現代人は、豊かなモノやサービスとその消費を基とする特殊な生態系に生きており、もはや生物ではなくモノに包囲された環境に居ます。
それは同胞との関りではなく、財とメッセージの受容と操作をなすものであり、街中に張り巡らされたモノ(都市設備や家電やガジェットなど)とそれに伴うメッセージ(広告や各種メディアや商品に付加されたイメージなど)と関わるものです。
他の人間(現実的存在)及びその言葉と共に生きるのではなく、従順で魅惑的なモノの声無き視線の下に生き、次第に人間自身がゆっくりと機能的な存在へと変化(モノ化)していきます。
モノのペースとモノのリズムに同期して、もはや人間はモノの時間に生きています。
モノはジャングルの植物のように横溢し、またモノの寿命は大幅に短く(大量生産大量消費)なっています。
その、まるでSFの食人植物のように人間を侵略してくるモノの生態を、描写する必要があります。
勿論、それは自然の生態学的法則ではなく、交換価値の法則に従う生態です。
過剰とパッケージ
現代の大型デパートや商店街に見られるモノの過剰の山積みは、最も印象的な光景です。
この山積みは、商品の総量以上のものを示し、それはコケイン (「満ち足りた土地」が語源で、お菓子が降ってくるなど何でも手に入る「理想郷」)のような母性的贅沢感であり、祝宴的な尽きることのない浪費のイメージです。
過剰な豊かさは、山積みという形態を超え、モノはパッケージ(セット販売)やコレクションとして組織されます。
消費者の心理に関係付けられるように、単なる過剰に溢れるモノは、相互に補い合うひとつのカテゴリーに属するものとして選別され組み合わされ、提供されます。
今日、消費者と商品の関係性は大きく変化しています。
もはや、文脈なしに商品(モノ)が単独で提供されることはなく、消費者は、商品をその特定の有用性においてではなく、商品の属する全体的な意味において関わるのです。
ひとつの家電製品の固有の意味の上に、あるブランド名や広告イメージなどの不可分な全体としての意味が上書きされます(共示義)。
豊富なモノは、単なる物体の連続ではなく、記号表現の連鎖であり、より高次の”超モノ”として相互に意味付け合い、消費者をより複雑な動機へと誘い込みます。
消費者の購買衝動を、魅惑的なモノのネットワークへと導き、絡め捕り、その者の経済的能力の可能性の限界まで達するよう、配置されています。
消費者の内部に、ある商品から別の商品へ慣性的に連繋する商品の購入経路が植え付けられ、単なる豊富さから生じる欲求ではない、論理的な演算によって生じさせられる動機によって、モノを購入します。
ドラッグストア/パーリー2
[デパートよりさらに現代化した消費形態としてのドラッグストアと、それが街全体に及んだパーリー2(フランスの超大型ショッピングセンター)が、未来都市的なものとして語られます。現代日本の「ドラッグストア」とはイメージが異り、強いていうなら「ドン・キホーテ」的印象です。]
人間の生活全体が消費によって掌握され、あらゆる活動は欲望の充足に至る時間的に順序付けられた組み合わせの洋式に従い、環境が全面的にコンディショニングされ、カルチャライズされます。
単純な豊かさは、モノの相互連結的ネットワークから、行動と時間の全面的コンディショニングを経て、最終的には未来都市(ドラッグストア)的な体系的雰囲気の構築へと進化した完遂的段階にあります。
デパートの商品のカテゴリー性は消費者に目的を持って歩くことを強いるのに対し、ドラグストアの商品は万華鏡のような無差別な記号の混合であり、消費者に遊戯的なぶらつきを与えます。
それは消費のリサイタルであり、その芸術性は、モノの記号の曖昧さを巧みに操り、物の使用価値と商品的地位を「雰囲気」という戯れへと昇華させることにあります。
この一般化された、ネオカルチャーと呼ぶべきものは、総菜販売店と美術画廊、娯楽雑誌と学術論文との間に何の違いも設けない文化です。
私たちは、消費を基とする日常生活の全面的な組織化と均質化の中にいます。
あらゆるものが、緊張の解消として定義付けられる「幸福」の安楽さと半透明性に覆われます。
未来都市は、現実生活が昇華されたものです。
人間的苦しみと複雑さ(つまり安楽でないもの)を生じさせていた現実生活のうちにある個々別々の活動は、混ざり合い、調整され、均質化され、すべてが無性化された雰囲気の中にあります。
すべて消化され、均質な糞便と化し、モノの中に浸透し、あらゆる社会関係の曖昧さの中に拡散しています。
普遍的なダイジェストの中に混合され、抽象化された生活の実体は、もはやいかなる意味も持ちません。
意味を生み出すために必要な、区別された個々の要素の生きた相互関係は、もはや存在し得ないからです。
ただ、(万華鏡のような)均質な要素の永遠の交代があるだけです。
象徴的な機能は失われ、変わらない「雰囲気」の永遠の組み替えだけが存在しています。
[精神分析と言語学をベースに書かれているので、少しわかりにくい表現になっています。まさに「雰囲気」をつかめばよい内容です。]
第二章、消費の奇跡的状況
貨物船の神話
現代の消費は一種の魔術的思考に支配されており、日常生活は奇跡を待つメンタリティに支配されています。
日常生活において、消費の恩恵は、労働や生産プロセスの結果として見えることはなく、奇跡的なものとして経験されます。
客観的規定から切り離された豊かさは、天からの贈り物(マナの実)として感じられるのです。
私たち消費者は、(贈り物を届けてくれる)貨物船の神話を信じるメラネシアの原住民と似たような状況にあります。
豊かさは、歴史的・社会的努力の末に勝ち獲られたものではなく、正統に相続されたもの、技術進歩や経済成長などの神話的なものによって分与されたものとして現れます。
これは、私たちの社会が客観的に生産社会、生産秩序、ひいては経済的・政治的戦略の場ではないということを意味しているのではありません。
記号操作の秩序である消費の秩序が、生産秩序と絡み合っているという事を意味します。
その点(記号に依存し記号に扶養される)で、私たちは原始的な魔術的思考と類似していると言えます。
現代社会は多くの側面で、意味の論理、つまりコードと象徴体系の分析の範疇に属するものとなっています。
消費としてのカタストロフ(破滅)の眩惑
記号の働きは両義的で呪文に似たものであり、召喚しかつ祓います。
記号(現実、幸福、力など)を召喚し捉えると同時に、何かを否定し抑圧するために祓い除けます。
現代の私たちは、原始的な魔術的思考が神話的記号によって、歴史と変化を追い祓っていたことを知っています。
イメージ、事実、情報の一般化された消費もまた魔術的なものであり、現実の記号で現実を祓い除け、変化の記号で歴史を祓い除けることを目的としています。
私たちは現実を、予期的、あるいは回想的に、距離を置いて消費します(この距離は記号によってもたらされる)。
例えば、対テロの訓練をする警察の写真記事が新聞に載る時、読者はそれを現実的な文脈の情報としてではなく、壮大なテロ事件への前兆と誘惑、先取りされた快楽として受け取っています。
あらゆる倒錯は成就されるのです。
これは、貨物船神話における奇跡的な豊かさへの期待と(正反対の形の)同じ幻惑の効果(贈り物であれ破局であれ)です。
ここで関心を引くのは、消費される幻想という心理的側面ではなく、この際に抑圧されるもの、つまり現実世界、出来事、歴史の方です。
消費社会の特徴は、マスコミュニケーションにおけるニュースの一般化(三面記事化)です。
政治、歴史、文化に関するあらゆる情報は、三面記事的ニュースという無害で奇跡的な形式で受け取られます。
スペクタクル的に劇化される非現実的なものによって、つまり媒体によって現実から距離をとられ記号に還元されることによって、これらの情報は”まったき現実(現実より現実的現実)”と化します。
消費社会におけるニュースは、むしろ私たちの魔術的思考、神話の軸となるカテゴリーに属するものなのです。
この神話は、現実、真実、客観性に対する欲望に支えられています。
出来事の「核心」に直面し、現場のさなかにあるような没入感、生(なま)の体験のスリルなどを享受すること(つまり奇跡)を求めているのです。
メディアの提供する真実とは、当にそこに居ないのにそこに居るという事実(幻想)です。
与えられるのは、現実の眩惑(vertige-眩暈を生じさせるほどの陶酔-)なのです。
あるいは、むしろ、眩惑なき現実とも言えます。
なぜなら、眩惑のような感傷性を生み出す、メディアの示す現実の「核心(中心)」とは、当に何も起こらない場所であり、それは情熱と出来事の寓話的な記号にすぎず、眩暈とは正反対に心を安定(安心)させるものだからです。
私たちは記号に護られ、現実を否定しながら生きています。
消費されるイメージ・記号・メッセージは、現実世界からの距離によって護られた安らぎであり、当に奇蹟的安心と呼べるでしょう。
メッセージ内容や記号の意味そのものは、どうでもよいもので、関わり合いの無いものです。
メディアは現実世界へとは導かず、「現実」という名の保証書をつけられた記号を消費させるだけです。
消費者と現実世界、政治、歴史、文化との関係は、利害、投資、責任といったものではなく、かといって無関心でもなく、「好奇心」なのです。
消費の次元は、世界についての知識でも、無知でもなく、錯認の次元なのです。
好奇心と錯認は、マスメディアによって一般化・体系化された行動形態(消費社会の特徴)を示すものです。
現実の記号に対する貪欲によって、現実世界を否定することです。
消費の(実践の)本質が錯認の次元にあるように、消費の場の本質は日常生活にあります。
この日常生活は、日常的行為の反復や総和の次元ではなく、解釈の体系の次元にあります。
日常性とは、全体的な実践を、超越的(外在的)で自律的な領域(政治、社会、文化)と、内在的で閉鎖的な「私的」領域とに、抽象的に分離するものです。
個人は、仕事、余暇、家族、知人などを、世界と歴史の手前において、自由と安心を確保した私的領域の閉鎖性(つまり錯認に基く一貫的体系)のうちに、(退行的に)再構成します。
客観的、全体的に見れば日常性の領域はちっぽけなものに思えますが、「内的消費」のために世界を再解釈することにおいて、勝ち誇った多幸感に満ちています。
ここに日常性の領域とマスメディアの共謀があります。
閉鎖性(隠れ家)としての日常性は、世界に関わっているというアリバイなしには耐えがたいものとなるため、超越(外在)のイメージと記号(つまり世界の模像-シュミラークル-)を絶えず摂取しなければなりません。
日常は、その平穏の為に現実と歴史の眩惑を必要とすると同時に、高揚の為に絶え間ない消費される暴力を必要とします。
これが日常性のいやらしさであり、冷酷な外部の世界を、記号を媒介し内部に取り込み、倒錯的な暖かさとして消費します(喩えるなら、戦争のニュース映像をくつろいで観る視聴者)。
体験的基準での消費は、現実世界からの排除と安全(緊張の解消という基本的幸福)を目指すものですが、これは矛盾に直面します。
このような受動性は、自発・行動・効力・犠牲を本質とする社会の道徳規範と正反対のものだからです。
したがって、この新しい快楽主義的行動様式には強い罪悪感が伴うため、それを取り除くという緊急の課題が生じます。
そのために、マスメディアによるスペクタクル的ドラマ化(カタストロフの一般-三面記事-化)が出現します。
この矛盾を解決するには、私的領域の平穏が救い出された価値として、絶えず脅威にさらされ、破滅的な運命に囲まれているように見える必要があります。
外部の暴力と非人間性は、(快楽の経済において)より安全(平穏な日常)を実感するためだけでなく、(道徳の経済において)安全であることの選択が常に正当なものとして実感されるために、必要なのです。
護られた領域の周囲に、運命、受難、不幸の記号の花が咲く時、日常性は己とは正反対の偉大さと崇高さを獲得し、罪悪感を払拭するのです。
破滅的な運命が、テレビ、ラジオ、新聞、世間話から国家的演説まで、いたるところで明に暗に喚起され、事件や事故が情熱的に取り上げられ受容され、平凡な生活(日常)は恩寵と満足を見出します。
消費社会は、自らを、脅威に包囲された豊かな聖地エルサレムのように見なします。
これが消費社会のイデオロギーなのです。
第三章、経済成長の悪循環
集団支出と再分配
[集団支出(Collective Expenditure):主に個人に直接ではなく社会全体に利益をもたらすサービスへの政府支出。個人消費と対比されることが多く、税金で賄われる公共財を表します。]
消費社会は、個人支出の急速な増加だけでなく、第三者(主に政府)による個人の為の支出の増加も伴います。
後者はリソースの分配の不平等を是正する社会的再分配をひとつの目的とすると言われますが、その有効性には疑問があります。
[ここで、当時の欧米における社会的再分配の活動が、有効で無いどころかむしろ不平等を助長していることを、具体例を交え語られますが、割愛します。]
この、社会的不平等を解消するはずのものによる不平等の再生産を、一時的な異常現象と見なすべきか。
それとも、特権(不平等)を巧妙に維持する再分配のこの仕組みは、実は権力システムに不可欠な戦略的要素であり、教育制度や選挙制度と共謀している、という仮説を立てるべきか。
もし、そうであるなら、社会政策の繰り返される失敗は嘆くべきものではなく、むしろ完璧にその機能を遂行していると認めるべきものとなるでしょう。
環境汚染
豊かさは環境汚染を伴います。
それは産業と技術の発展のみならず、消費構造そのものの帰結でもあります。
経済活動によって生活環境は破壊されますが、その対応(インフラ整備や医療など)もまた経済活動(消費)として計上され(国内総生産)、成長(豊かさ)の指数となります。
例えば、水質汚染の結果としてのミネラルウォーター産業の繁栄は、真の豊かさと言えるでしょうか?
生産性の増加がある閾値を超えると、経済成長によって生じる害に対応するための生産活動や消費活動(成長による成長の治療という同毒療法)によって相殺され、霧散します(つまり実質的な豊かさは消失し数字だけの豊かさのみ残る)。
また、人間的な意味での環境汚染も進んでいます。
豊かさを追い求める社会構造において人々は、あらゆるレベル(職、所得、権威、文化など)の流動性に晒され、競争による重い心理的・社会的プレッシャーがのしかかり、また、通勤や人口過密など都市環境特有のストレスに常時耐え続けています。
現代消費社会によって引き起こされる精神的な消耗から回復するためには、かなりのリソースを必要とします。
消費社会(大量生産大量消費)の代償は、それが人々の心に生じさせる全般的な不安感であり、この代償によりシステムは自己崩壊を起こすのです。
成長が成長を呼ぶ高速化に、無視できない数の人々がついていくことができず「落ちこぼれ」となる一方、競争についていきモデルとして提示されたライフスタイルを実現できた勝者たちも、その努力によって消耗しきっています。
その結果、社会はこの代償に対する大きなコストを払わねばならなくなり、国内総生産の大きな部分を社会投資(教育や医療など)として再分配せざるをえなくなります。
このようなネガティブな支出も、「生活水準の向上」としてGDP(原書はGNP、以降GDPで統一)に加算されます。
ドラッグやアルコール、虚栄的あるいは補償的な支出から軍事費まで、すべてが成長と豊かさとして計上されるのです。
最終的には、社会の負担となる人口の割合いが、生産的な人口の割合よりも大きくなり、経済成長は自らで自らを食い潰します。
成長と豊かさの力学のサイクルが、回転はするものの前進しない限界点、つまり生産性の向上分のすべてがシステムの維持に費やされてしまう限界点にくるのです。
客観的な結果としては数字上の豊かさの病的なほどの増大となりますが、本質的には原始的な貧しい段階(費用と生産が等しくなる成長なきサイクル)への回帰となります。
費用が収益を上回る時そのシステムは効力を失いますが、現代消費社会はその損益分岐点に着実に向かっています。
個人および集団における機能不全的消費が機能的消費よりも急速に増大しており、現代消費社会のシステムは本質的に自らに寄生し自らを侵食する自己破滅的状態にあります。
経済成長の会計化、GDPの神秘
経済合理性の基準に基づいた測定可能な要素以外はすべて排除された、魔術的に作られる豊かさの夢想が、現代の経済成長およびGDPです。
簿記がマイナス記号の無い世界(誰かの負債は誰かの資産として併記される)であるように、すべてが豊かさとして計上されます。
財やサービスの内容は問われず、学校や社会インフラの不足が核ミサイルの製造で補われ、社会は豊かなものとして記帳されます。
生産されたものは生産されているという事実そのものによって神聖化され、数量化可能なものはすべてプラス(豊かさ)となります。
帳簿上の「生産性」は、集団的執着として神話のような社会的機能を持ちます。
それを反証する客観的現実も、神話を補強する数字に変換され利用されます。
肯定と否定を無差別に合わせることは一見非論理的に感じられますが、ここにこそこの神話(経済成長システム)の秘密の真実が隠されています。
これは極めて論理的な真実であり、実の所、このシステムの大きな原動力となっているのが「否定的な財」であるという事です。
豊かさを示す数字の裏には、正と負の見事な循環性が隠されています。
[例えば、経済成長の無い原始的な村に嗜好品として「ドラッグ」を導入すれば、同時に健康的害を治療する「病院」が出来上がります。それによってこの村の帳簿にドラッグの利益と病院の利益が記帳され、「経済成長した」ことになります。そういうマッチポンプ的なサイクルで無駄な消費を生み出しまくることが現代の豊かさの正体です。]
あらゆる努力にもかかわらず、社会の否定的な側面を根絶することができない理由がここにあります。
システムは、否定面によって成り立っているため、それを排除することはできません。
18世紀の社会学者マンデヴィルは、社会は美徳ではなく悪徳によって均衡を保ち、社会の平和、進歩、人間の幸福は、規則破りへと導く本能的な不道徳によって獲得される、と述べます。(※)
隠れた欠陥、共犯的均衡、有害性、悪徳によってこそ、現実のシステムは繁栄するのです。
マンデヴィルは冷笑的皮肉屋だと非難されましたが、客観的に見れば、冷笑的で皮肉なのは社会秩序、生産秩序の方なのです。
[※マンデヴィル著『蜂の寓話:あるいは私的な悪徳、公的な利益』、現代社会は、共通の市民的責任や道徳的誠実さによってではなく、逆説的に嫉妬、競争、搾取という脆弱な絆によって互いに結びついている利己的な個人の集合体である(という主旨の本)。]
浪費
消費社会の豊かさは浪費と深く結びついており、現代のモラリストたちは消費の単純な定義(商品の本質的有用性に拠る)に基き、浪費を敵対視しています。
モノに内在する本来の使用価値や寿命を尊重せず、ステータスや流行や気分などで商品を買い替える個人から国家規模、さらには地球規模(自然資本)の浪費と、彼らは闘います。
浪費は、生存条件(貯え)を脆くする非合理的な行為であるため、一種の狂気、錯乱、生存本能の機能障害と見なされるのです。
しかし、本当に浪費を(希少性という)脅威として捉えるべきかどうか、再考する必要があります。
あらゆる社会は必要以上の消費(つまり浪費)をしてきました。
個人であれ社会であれ、過剰・余剰の消費によって、(単なる生存ではなく)生きているという感覚を得られるからです。
これは純粋な破壊(消費というより消尽)にまで至ることがあり(例、ポトラッチ)、その場合は特定の社会的機能をもちます。
いかなる時代も上層階級の人々は派手な浪費によって、社会的地位の優位性を維持してきました。
合理主義に基づく有用性の概念においては、浪費は非合理で無駄なものですが、より深く考察すると、それ(浪費)は合理的有用性より高次の社会的機能において肯定的な役割を担うものであり、究極的には社会の本質的な機能として現れます。
[ちなみに北米先住民族のポトラッチは、「浪費を促す非生産的で非文明的な悪習」としてヨーロッパ人により禁止されます。]
浪費という無用性は、個人レベルでも社会レベルでも、価値や差異や意味を生産する有用的なものなのです。
消費を「生産的な無駄遣い」として定義付ける視点があるということです。
ここでは、合理的経済学とは逆に、過剰が必要に、支出が貯蓄に先行します。
ただ生存する(自然の必要分)だけであれば動物と変わらず、人間らしく生きるには必要分を超えた余剰分がなくてはならないと、シェークスピアは訴えます(『リア王』第二幕四場)。
人間は動物的生存のために自らをオーガナイズするのか、それとも個性的個人または社会集団として人生に与える意味に基きオーガナイズするのか、という問題です。
これは形而上学的な問いではなく、消費の中心にある問題であり、人間の豊かさとは「浪費」の中でのみ意味をもつのではないだろうか、ということです。
ポール・ヴァレリーの語るように(『未完の物語(Histoires brisees)-ロビンソン-』)、豊かさとは「貯蓄」がもたらす予見の象徴として定義付けるべきでしょうか。
貯蓄(現在分を超えた未来の欲求満足の確保)は、人間を、動物的必要の厳しさと、欲求の即応的ストレスから解放するものであり、自然の出来事の不安定さに対抗する手段となるものです。
この生存(生物学的保存本能)ベースの経済原理に対立するのが、ニーチェ(あるいはバタイユ)の力の本能(己の力を発揮し消尽したいという欲求)です(ニーチェ『力への意志』)。
生命は先ず何よりも己の力を発散することを望むのであり、「保存」はその結果のひとつにすぎません(力のあるものは生き残りやすい、という蓋然性因果性)。
保存本能という概念は、悪しき目的論の枠組みによってとらえられたいち原則にすぎません。
[ちなみにニーチェは、プラトン-アリストテレスに始まる目的論的パラダイムを批判し、転倒しようと(というか捻れを元に戻そうと)企てる人です。]
「生存のための闘争」は特殊的状態であり、一般的状態は「力のための闘争」なのです。
即ち、己の力として、「より多く」「より良く」「より速く」「より頻繁に」何かを獲得したいという野心です。
本質的なものは必要分を超えた所にあり、「より以上の何か余分なもの」は独自の価値をもつ可能性があります。
象徴的価値の法則は、支出においてより示されますが、所有においてもその余分さが差異的な(価値的な)機能をもつ時、現れてきます。
現代の豊かさにおいても同様、必要分と余分の間に明確な差異が維持される程度の過剰さによって、それは(象徴的)価値をもつのであり、これが「浪費」の機能です。
浪費こそがシステム全体を方向付けるものであり、浪費を無くそうと考えることは、幻想にすぎません。
有用性ではなく、無用性である浪費(無駄遣い)が、豊かさの心理学的、社会学的、経済学的指針を定めるのです。
現代消費社会における膨大な浪費は、このように解釈しなければなりません。
現代西洋の大衆文化においては、生産の英雄たちの伝記から消費の英雄たちの伝記に取って代わられています。
独力の成功者、創業者、開拓者、探検家、植民者たちの模範的な生産的生涯は影を潜め、映画スター、トッププロ選手、富裕の皇族、国際的有力者などの大浪費家たちの生涯がメディアを埋め尽くします。
人々は、彼らの過剰な生活、桁外れの支出の可能性、つまりポトラッチの香りに魅かれるのです。
しかし、現在のシステムにおける壮大な浪費は、原始的祝祭やポトラッチにあったような決定的な象徴的で集団的意味をもはや持たなくなっています。
それは大衆の消費に経済的刺激を与えるものにすぎず、メディア化された崇高な浪費は、以下のような体系的な浪費を倍化させるものです。
現代の浪費は経済プロセスに直接組み込まれた、機能的かつ機械的なものです。
浪費は既に、物的財の生産と同時に生み出され、商品に組み込まれており、消費対象の性質のひとつ(その脆弱性、計算された陳腐化、一過的存在など)として強制的に消費されます。
現在、生産されるものは、その使用価値や耐久性に基くのではなく、むしろその死に基き生産されており、死の速度はインフレ的に加速しています。
現代の生産秩序は、計算された自殺という代償によって存続するものであり、合理主義的な経済学の前提(有用性)に対し、疑問を持つべきでしょう。
莫大な予算を消費する現代の広告は、モノの使用価値を伝え高めることではなく、むしろ価値を奪い取ることが目的であり、モノ本来の価値と時間(寿命)を奪い、流行的価値と加速的更新(計画的死)に従属させるものです。
軍事予算のような莫大な社会的富の浪費も個人レベルの消費と同次元のもので、消費社会の一部であり、この二つは相まって生産秩序の再生産を保証しているのです。
区別すべきは、個人と集団の浪費ではなく、高次の社会的機能を持つ浪費(象徴的祝祭的浪費、ポトラッチ)と、その陰鬱な戯画としての機械的な浪費(現代消費社会の体系的浪費)です。
もはや浪費は、日常的な義務、強制的かつ無意識的な制度であり、経済秩序の拘束への参加となっています。
消費社会が存在するためにはモノ(厳密にはモノの破壊)が必要です。
単なるモノの使用による緩慢な消耗ではなく、急激な消耗によって産出される価値が必要なのです。
破壊は生産の根本的なオルタナティブ(代替)であり続け、消費とはそれらを仲介するものです。
現代の生活において、消費は、生産秩序に従属するよう方向付けられた消費としてあるため、モノは常に欠乏(Défaut)として存在し、モノの豊富さ自体が逆説的に貧しさを示すことになるのです。
破壊においてのみモノは真に過剰であり、その消失においてのみ豊かさの証しとなります。
破壊は、暴力的で象徴的な形態(ポトラッチ等)であれ、体系的かつ制度的な形態(現代消費社会)であれ、ポスト産業社会の主要な機能の一つとなるよう定められています。
第一部おわり
第二部につづく
