「思考」には現実可能性の範囲内の思考と、現実可能性の範囲外の思考があり、後者は妄想にすぎない虚構だと、昔の偉い哲学者が言いました。
その二つを混同する時、人間の思考に誤謬が生じるので、きっちり分別しなければなりません。
「理想」についても同様で、現実可能性の範囲内の理想と、現実可能性の範囲外の理想があり、後者は妄想にすぎない虚構です。
例えば、最近流行の二次元アニメ美少女の多くは、現実可能性の範囲外の理想(外見も心も)ですが、それを現実可能性の範囲内の理想だと考えると、様々な問題が生じてきます。
彼女の肌に産毛が生えていたことに幻滅し別れる男性や、無償の愛をもたない両親を批判したりする青年など(利己性のない利他性は現実に存在しない ※註1)、他者と自分の双方を不幸にしてしまうような理想の用い方をしている人が多くいます。
現実可能性外の理想によって、人々は現実にあるものに対し不寛容になり、現実の出来の悪さを嘆いています。
男性は過度な理想によって女性を断罪し、女性は過度な理想によって男性を責め、子は現実的には理想的な親を毒親と罵り、親は現実的には理想的な子に溜息をつきます。
本当は、世の中そんなに悪くないはずなのに、現実可能な理想と現実不可能な理想を混同することによって、生(なま)の現実を現実外(虚構)から常に責め続ける、自罰的な世界になってしまっています。
女性の美しさの理想はどこまでが現実的なものであり、男性の強さの理想はどこまでが現実的なものであり、人間の善の理想はどこまでが現実的なものであり、人間の友愛の理想はどこまでが現実的なものなのか、そういう様々な理想の現実可能性を批判的(反省的)に分別することによって、私たちは(妄想的な)理想という名の煉獄から脱し、本当の理想の中で結構いい感じに生きることができるでしょう。
(妄想的理想の中で)醜い彼女は、本当(現実的理想の中で)は美しい女性なのかもしれません。
(妄想的理想の中で)悪い野郎は、本当(現実的理想の中で)は善い紳士なのかもしれません。
(妄想的理想の中で)腐敗したこの世界は、本当(現実的理想の中で)は清廉な世界なのかもしれません。
(妄想的理想の中で)下らない私の人生は、本当(現実的理想の中で)は素晴らしい人生なのかもしれません。

『素晴らしき哉、人生!』1946年
おわり
※註1
自利の無い利他(いわゆる無償の愛)は、現実的にはあり得ません。
いわゆる利他的な行為(善行)とは、自と他の(種類の違う)利が両立すること(いわゆるWIN-WINの状態)を指します。
例えば、アンパンマンが自分の身体を犠牲にして餓えた他人を助ける時、他人はお腹を満たし、アンパンマンは心を満たしています。
利の種類が同じだと、我欲(自利)と愛(利他)がバッティングし矛盾が生じる為、必ず違う種類の利得である必要があります。
そして、他者のWINが無い(一見)利他的行為をなす時、私はただの偽善者となり、自己のWINが無い(一見)利他的行為をなす時、私はただの奴隷となります。
見返り(自利)を求めない真の愛(利他)というのは、利得の種類が異なることから生じる見誤りです。
アンパンマンが無償の愛と言われるのは、心は見えないものだからであり、人助けによって彼の心が満たされるという自利が気付かれにくいためです。
(偶然の要素を除けば)無償の愛には、例外なく、何らかの見えにくい自利が、その動因としてあります。
「ギブアンドテイク」のテイクが見えにくい特殊な様態が「無償の愛」と呼ばれるものです。
「それじゃあ単なる取引(交換)と変わらん、善行の何が素晴らしいんだよ」と問われれば、サン=テグジュペリ的な「見えない大切なもの」を、「即物的なもの(金や食い物や勲章や女など)」より重視する稀有な行為だから、と答えます。

『星の王子さま』1943年
