※タイトル右の謎の記号はバカボンのパパの顔(90度左回転)です。
人間は幻想を現実だと思わなければ生きていけない存在です。
何時の時代、何処の場所の人々も、本気で自分の所有する世界を唯一の真の現実だと信じ、生きています。
しかし、後世の人間や、異国の人間からすれば、彼の所有する世界は幻想にすぎないものです。
長い歴史のごく瞬間の、広い宇宙のごく小さな場所に生きる私の所有する世界が唯一の現実だなどと、主張できる権利はどこにも見当たりません。
現代の人間が、天動説を信じていた人々を幻想に生きていた人々だと笑うように、500年後の人々は、21世紀の私たちを幻想に生きる人間だと笑うでしょう。
私たちは、ファミコンゲームのキャラのように、自ら魔法で一歩先のブロックを作り、それに乗ると同時に、先ほどまで乗っていたブロックは幻想として崩れ去っていく、という工程を繰り返しながら、前へ進んで行きます。
いずれ幻想として崩れ去るはずの、いま・ここの足元にある現実というブロックがなければ、真っ逆さまに落ちてゲームオーバーとなります。

ですから、人間はいま・ここにおいて所有する私の世界が幻想であるとそこはかとなく理解していたとしても、現実であるかのように振る舞います。
厳密に言うと”振る舞う”というような主体性はなく、強制的に現実であると思わざるを得ないものであり、その認知の際の心の強制力が現実の本質とも言えます。
「現実」とは、私の外にあるというより、私の精神が崩壊しないようつなぎとめる心のアンカー(錨)機能であり、先のゲームオーバーを防ぐ足元のブロックです。
これは歴史(人類)においても、個人史(私の人生)においても共通することです。
人類にとって科学とは、せっせと新たなブロック(幻想)を作ることで現在のブロックを破壊し、幻想を刷新し続ける進歩的なものです(進歩といっても”ここではないどこか”に進むだけの消極的なものですが ※註1)。
反対に、人類にとって宗教とは、新たな幻想(ブロック)を作らず、ずっと同じ場所に留まり続ける保守的なもの(永久に変わらない普遍的世界観)です。
個人においても、同様に進歩的な人も居れば、保守的な人も居ます。
どちらが幸せかはわかりませんが、ひとつ言えることは、どんな人であれ、その人の所有する世界は束の間の幻想にすぎず、他人の幻想を自身の現実(という名の幻想)によって裁く権利はないという事です。
私は私の最も幸せだと感じる幻想を現実として選択し、それを他人に押し付けず、他人に他人の幻想を押し付けられそうになっても反抗し、かけがえのない私の現実(という名の幻想)を守らねばなりません。
時に、似たような幻想を持つ他者と出会い、共同幻想の中で生きる仲間ともなるでしょうし、時に私あるいは彼の幻想が変化し、パーティーから離れていくでしょう。
誰も己を中心化せず、それでいて中心であること(互いの自己中を尊重し合える節度ある自己中)を可能にするためには、現実と幻想の矛盾的な同一性(現実と幻想は表裏一体のものであること)を自覚するしかありません。
いわゆるグローカル(グローバルとローカルの止揚-いいとこどりの統合-)は、幻想の自覚による相対性を経た上での、現実(という名の幻想)への陶酔による絶対性なしには成立しません。
喩えるなら、大人の恋愛のような”醒めた情熱”、嘘を嘘であると知りながら本気になる、知性的な感性が必要であるという事です。
おわり
※註1
厳密に言うと、人類に進歩はありません。ダーウィンの示したように、あるのは変異(変転)を基にした環境(偶然)に適応する特化です。他に特化する無数の可能性を捨て、或る特定の特化に限定すること(専門化)を進歩だと勘違いしているだけです。座標を固定しないと直線運動が成り立たないのと同じように、未来の変化を完全に予測し環境を必然的なものとして固定しない限り、直線的な進歩は不可能です。ですから、映画『猿の惑星』のように、進歩していると思ったら円環して昔の場所に退歩していた、という事態が生じえます。例えば、人工知能のテクノロジーに対し、多くの人が直観的にこの特化の方向が、人類の生存を脅かす不適切な進歩(変異)であると感じとっています。
