「知性(認識)において悲観主義者、意志(行動)において楽観主義者であれ」というロマン・ロラン(ヒューマニズムの小説家)の言葉があります。
グラムシ(活動家)がよく用いていた言葉で、楽観主義の行動力と悲観主義の認識能力が揃った時に、はじめて活動は成功する、という考えです。
単なる悲観主義は、無気力に拠る虚脱状態をもたらし、道徳面でも思考の面でも人間を無秩序状態に陥らせます。
単なる楽観主義は、無責任で思慮の無い狂騒的熱狂をもたらし、自ら滅びに突き進みます(世間一般的な楽観主義は、自己の怠惰と無責任を隠蔽するためのツール)。
「最悪の恐怖を目の前にしても絶望せず、いかなる愚行にものぼせあがらないような、節度ある忍耐強い人々(グラムシ『獄中ノート』)」、言い換えるなら「悲観の欠点を楽観によって打ち消し、楽観の欠点を悲観によって打ち消し、楽観と悲観の長所を兼ね備えた強い人間」に成ることを求めるものが、「知性の悲観主義、意志の楽観主義」です。
「熱狂が正当なものとなるのは、~現状を変える創造力豊かで明確なイニシアチブがこの熱狂に伴う時(同上)」、つまり楽観の行動力が悲観の冷静な知性に制御される時です。
これは、戦争(ロランやグラムシが生きた状況)のような極限状態でのみ機能するものではなく、日常生活の活動においても有益なマインドセットです。
「俺の現状は最悪(悲観的)だが、未来の可能性は最良(楽観的)だ」という姿勢です。
現在を最悪の状況として認識することで知性の明晰さと真剣さを確保しつつ、未来の可能性を信じ積極的に行動する、ということです。
ソクラテスの無知の知(おれは世界一バカだという自覚)の謙虚さが最高に傲慢なものである(最高の理想-神-と比較しているからこその卑下)ように、傲慢なほどの謙虚さは、人間を最も前進させる心のあり方です。
その道の達人になっても、「俺はまだまだ何にも出来ない」と述べる人が多いですが、それは照れ隠しの謙遜でも同業者に対する皮肉でもなく、彼らは本当にそう思っているのです。
この悲観的な謙虚さを支えるものは、未来の可能性「俺は出来る」に対する楽観的な信念です。
未来の閉ざされた現状の悲惨(つまり絶望)では、”無気力に拠る虚脱状態”しか生みません。
では、何によって未来の可能性が保証されるかと問われれば、その”不確実性”であるとしか答えられません。
未来は永遠に不確実であるがゆえに、信じる(賭ける)価値も永遠にあり続けます。
賭けにおいて確率論が無効であるように(計算可能なものは賭けではない)、信じることの本質はその不確実性にあります(真/偽の不確実な状況で真の方に賭けることが”信じること”)。
未来の可能性に対する信念は常に永遠に開かれており、それに賭けるかどうかは自分次第です。
おわり
