みんな嫌って、別にいい

人生/一般幸福論

 

多くの場合、人は誰かを嫌います。
その主な動機は心的なコンプレックスであり、自分と異なる種類の人間や、自分の価値に反する人間や、自分の持っていないものを所有している人間などに対して向けられるものです。
つまり、自分とは違う異邦人(エイリアン)としての他者を嫌悪します。[※註1]

それと同時に、多くの場合、人は嫌われたくないと考えます。
人は嫌うけど、人には嫌われたくないというのが、平均的な人間です。
エイリアンを嫌いながら、エイリアン側には私を嫌ってくれるなと求める、自己矛盾を抱えた幼稚な生き物です。
もし、大人(論理的)であるなら、人に嫌われる覚悟のない者は、人を嫌ってはいけません。
「私は誰かを嫌うけど、誰かは私を嫌うな」は、ジャイアンの我儘理論(俺は殴るがお前は殴るな)と同じです。

問題となるのは、人は嫌わないけど、人に嫌って欲しくない人(一方的に人に傷付けられる繊細な人)です。
彼らは人を嫌わないのだから、人に嫌われないよう求める権利がありそうですが、そうはなりません。
誰であれ、他人の好き嫌いや良し悪しの基準を変えるよう要求する権利はありません。
自分の都合に合わせて、他人の人生(生き方)に変更を求めること(「私を嫌わないで」)は、「人を嫌うこと」と、本質的に同じ構造をしています。
結局、人を嫌う欲求も、人に嫌われたくないという欲求も、根は同じであり、他者は自分の都合の良い存在であって欲しいというエゴイズム(自己中心主義)です。

例えば、茨城県民は名産品の納豆を嫌われたら悲しいですが、だからといって大阪人に納豆を嫌うなと、求める権利はありません。
同様に、私は私の特性を嫌われたら悲しいですが、だからといって他者に私の特性を嫌うなと、求める権利はありません。
いかなる事情があろうとも(例えば、親の虐待によって人より何十倍も人に嫌われることに対して傷付くよう育った繊細さん)、「私を嫌わないで」という欲求は、事実上、私の欲求の為に他人の欲求を犠牲にする厳令(嫌いなものを嫌いじゃなくなれという無理難題)となってしまいます。
「私を嫌わないで」と他者に求めるのは無茶なことであり、だからといって嫌われないために私固有の特性を捨てることは馬鹿げたことです。
他人は他人のままで、私は私のままで、いいのです。

金子みすゞは、「みんな違って、みんないい」と述べましたが、”違い”が”嫌い”を生む主な動因であるなら、概ね「みんな嫌って、みんないい」と言い換えられます。
勿論、「みんな違って、みんないい」の前提かつ帰結となっているのは、”違い”が”嫌い”を生まない寛容な人間であることですが、皆が皆コンプレックスの無い優等生に成れるわけではありません。
しかし、「みんな違って、みんないい」と、違いを積極的に肯定することはできなくても、「みんな違って、別にいい」と違いを消極的に肯定すること(まぁ、いいや)は、ある程度の人(コンプレックスが強度でない人)ならできるはずです。
そして、”違い”を消極的に肯定できるように、”嫌い”も消極的に肯定できます(イジメや迫害などの実害が生じない限り)。
「人を嫌うことも、人に嫌われることも、個々人の好き嫌いなので、まぁ別にいい」という姿勢ならとれるでしょう。
私が誰かを嫌っても別にいいし、私が誰かに嫌われても別にいい、「みんな嫌って、別にいい」。
私が誰かを嫌っても罪悪感や良心の呵責を持つ必要はないし、私が誰かに嫌われても傷付いたり怒ったりする必要はなく、堂々と各々の好き嫌いを生きればいいだけです。[※註2]

 

まとめ

1.私が誰かを嫌うなら、誰かは私を嫌う権利があります。
2.私が誰かを嫌わなくても、誰かが私を嫌わないよう求める権利はありません。
3.互いに嫌い(個人の価値判断)を「まあ、別にいいや」と消極的に肯定しあうこと(実害が生じない範囲での自由の尊重)が、現実的な解決方法です。
4.そもそも、他人の好き嫌いは(さらに言えば私の嫌いも)、私の幸福(私の好きの追及)にとって役に立たないものであり、関心を持つだけ無駄なのですが。

 

※註1
同族嫌悪は、嫌悪というより競争的状況において生じる”ライバル心”です。また、自分の姿を他人(同族)を媒介として客観的に見ることで、自分の気付いていない欠点を他者のうちに発見し嫌う、という場合もありますが、それは異属嫌悪です。自分の意識していない自分の性質はあくまで異物として捉えられます。

※註2
「好き嫌いなく人に接しろ」と学校や会社で習いますが、それは個人の好き嫌いが集団行動の妨げになるためです。嫌いな後輩にだけ業務連絡をしなかったり、好きな上司の命令だけ聞いたり、公私混同し円滑な集団行動を壊す”でっかいガキ”に成らないよう戒めるものです。ですから、(本心から嫌いな人の居ない聖人に成れない限り)必然的に「私的感情としてあなたを嫌いだが、仕事上あなたと仲良くする」という態度が求められることになります。それに対し、「心の無い友愛など敗北だ、そんな汚い大人に成りたくない」と純粋無垢な人達は考えるでしょう。しかし、先に述べたように、嫌いを許さない姿勢はエゴイズムでしかありません。好き嫌いのない良い子を求める金子みすゞ的な純粋無垢な世界とは、他者の”好き嫌いのある悪い子である自由”を奪う原理主義的なエゴイズムです(勿論、金子は、違いを嫌う者だらけの俗世間に対するカウンターとして極論-理想・理念-を述べているだけで問題ありません)。問題は、純粋無垢な理想のうちにあるグロテスクなエゴイズムを反省せず、理想に準じないものを断罪する冷酷な眼差しです。心では嫌う同僚とも社会人として仲良くできるサラリーマンや、心では嫌う生徒に対しても好きな生徒と同じ態度で接することのできる先生は、決して汚い大人などではなく、素晴らしく、美しい大人です。理想のうちの美しさと現実のうちの美しさの違いが分かる審美眼をもたないで、美醜を語ることなどできません。

 

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