オンリーワンなナンバーワン

人生/一般幸福論

人間は、横の比較による区別(区分け)によって漠然とした世界を分割・個別化し個々の事物として知覚し、縦の比較による差別(階層分け)によってそれらの事物を秩序的に把握します。
前者は意味付けの作業であり(国語辞典は網羅的な区別の総覧)、後者は価値付けの作業です。
例えば、肌の色によって人種を横並びに区別化(白人・黒人・黄色人)し、その区別された人種を美という価値基準によって縦に並べて上と下の差を設け差別化することによって、「美しい白人女性」などという認識が成立します。
必ず物事には、横の比較である「意味」と縦の比較である「価値」が備わっています。

私たちは、時にこのような比較を基礎とする人間の認識のあり方に疲れ、比較のない世界を求めます。
例えば、比較し合い競い合うのは止めて世界に一輪のあなただけの花を咲かせよう、などという、相田みつをの詩の世界観に共感する人も多く出てきます。
このような仏教的世界観への半ば普遍的な欲求は、国民的なアイドルグループによっても伝播され、「ナンバーワンよりオンリーワン」というフレーズが流行することになります。

しかし、社会でナンバーワンを目指し生きている人は、このようなオンリーワン論を自己欺瞞と現実逃避であると批判します。
オンリーワン論者は、ナンバーワンとオンリーワンを区別し、そこに上下差を設け、ナンバーワンよりオンリーワンを上位に置いており、どっぷり比較に浸かっている自己矛盾だと。
ナンバーワンに成れないから、逆張りで下剋上(上下の立場の転倒)を狙っているだけの卑怯者だと、いうわけです。
人間にとって比較は先天的な認識の構造であり、比較を止めることは何も認識しないこと(眠りあるいは死)を意味するという点で、この批判は正しいのですが、これはオンリーワン論者の説明不足、あるいはナンバーワン論者の理解不足です。
本質的な問題は比較の有無ではなく、価値(上下の比較)基準の相対性と選択性です。

価値基準というものは状況によって刻々と変化します。
例えば、食べ物の場合、資本主義的社会では最も高く売れる食べ物が価値が高く、戦時下では最も栄養(カロリー)効率の高いものが価値が高く、気候的に過酷な場所では保存の効くものが価値の高いものとなります。
その社会的状況において最も必要とされるものが価値基準となるため、人間の生き方の価値もそれに沿ったものとなります。
資本主義社会においては、カネになる生き方が価値あるものとされるため、人はお金に直結する上級職や高学歴や実利的な人格特性などを求め、カネというひとつの価値基準の中で競争することになります。
色んな花があるはずなのに、全員が最も高く売れるバラの花に成ろうと競争することに現代の病理があると、相田みつをは考えるわけですが、それは比較を止めることによって解決できるようなものではありません。
個々の人々が自分の比較(価値基準)を世間的な比較(価値基準)より重視できる勇気をもてるかどうかの問題です。
ですから、正確には「ナンバーワンよりオンリーワン」と説くべきではなく、「オンリーワンなナンバーワン(私独自の価値付け)」とでも説くべきなのです。

社会(世間)的な価値基準に沿って生きれば、お金や世間的な賞賛などの社会的報酬が多く得られますが、自己の価値基準を抑圧しているため、(その齟齬が大きい場合は)心は病んでいきます。
自己の価値基準に沿って生きれば、お金や世間的な賞賛などの社会的報酬は得難いですが、自己の価値基準を抑圧していないため、(世間からの攻撃に耐えられる力があるなら)心は健康になります。
そもそも、社会の価値と個人の価値を上手く擦り合わせられる人であれば、ナンバーワンやオンリーワンを強く主張することはありません。
社会的価値も個人的価値も、共に異なる価値のある素晴らしいものであり、ただ為すべきはその選択のみです。

 

おわり

 

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