自責とは何か

人生/一般

自責と自己責任

「自責」と「自己責任(自己責任とは何かを参照)」はよく似た言葉ですが、その意味するところは異なります。
「自己責任(self-responsibility)」は、自己が責任(responsibility)の主体であるということ(つまり自分の人生の主人公は自分であるということ)を意味するポジティブなものであり、「自責(Self-blame)」は、自分を「非難(blame)」あるいは「責める(blame)」というネガティブなニュアンスのものです。
「他責」は文脈によって、責任と非難のどちらの意味にも使われる大雑把な語であるのに比べ、より身近で厳密さを必要とする「自己」に関しては、詳細な記述のため使い分けられます。

二種類の自責

自己の責め方には二種類あり、過剰に責めるものと、他人の責任まで背負い込む拡大的なものがあります。
前者は、自分の責任の範囲内のことを必要以上に責め立てることです。
例えば、普通の人なら数日で忘れてしまうような仕事のミスを何年も引きずり自責する場合です。
後者は、本来なら他責にすべきところまで自己の責任を拡大し、自分の責任の範囲外のことを責め立てることです。
例えば、子供が犯罪に遭った際に、お使いに行かせた自分のせいだと母親が自責の念に駆られるような場合です。

自責と自己責任の決定的な違いは、「自己の責任の範囲と他者の責任の範囲の線引き」および「その範囲内での適切な反省の強度の測定」が為されているかどうかです。
客観的に自己の責任の範囲と、自己が責めを負うべき強度を認識すれば、その責め(非難)は適切な反省の契機となり、「自己責任」へと昇華され、自分自身が社会的人間(責任主体)として成長することにつながります。

自責の自己欺瞞、その一

自責の内にある欺瞞性を見破ったのが、精神分析家フロイトの元ネタである哲学者ニーチェです。
自責が実は転倒された他責であるというのが、その基本的な主旨です。
他人の責任であると心の底では分かっていながら、他人への非難(責め)を封じられた時、人はその非難を自己に向け、自分を痛めつけることで代替することが多々あります。
例えば、家庭内の問題が自分勝手な母親にあると心の底では分かっていながら、暴君的な母親を非難することのできない娘が、家庭の不和を出来の悪い自分のせいだと自責するような場合です。

本来、この娘さんが為すべきことは、自己の責任と親の責任の客観的な範囲と強度を確定し、自己の責任の分を反省しその問題点を改善した上で、残りの分をきちんと他責として諫言し親への反省を促すことです。
これは責任を確定するというパズル解きのような思考の重労働と同時に、他責を認めさせるという困難な作業(多くの場合激しい喧嘩になる)が待ち受けているいるため、「どーせ私が全部悪いんですよ!(心根では他人が悪いと思っているくせに)」という風に投げやりな自責思考に陥りやすい訳ですが、そこはぐっと我慢して建設的に努力しなければなりません。
勿論、社会的状況(ここでは家庭内の不和)を改善する目的がないのであれば、自己反省して自分だけ人間的に成長し、他人のこと(他責)は放っておいて問題ありません。

自責の自己欺瞞、その二

自責のもう一つの欺瞞性は、いわゆる論点(原因を帰属する場所)をすり替えた自責によって、他責を隠蔽することです。
例えば、「駄目な異性と付き合ったのは自分の所為、自分の責任なのでとっとと別れます」と言う時、一見すると自責に見えますが、実際は他責が隠蔽されています。
不和の原因をすべて異性の所為(他責)にしていることを隠すために、原因を「付き合った自分の所為」という自責に論点をずらしているということです。
そうすれば、異性を駄目にしているのはもしかして自分の態度かもしれない、自分の偏った眼差しが異性を駄目に見せているだけかもしれない、などという、自己の責任の様々な可能性を一切合切放棄し、他人の所為にすることができます。

人は、自己の責任の範囲(在り処)を決定する際に困難に直面する(つまり反省し改善することが難しいことを認識する)と、無意識的にそれを回避し、安易に解決可能な別の所にその原因を帰属させるということです。
その一の自責が「転倒された他責」だとすると、その二の自責は「上書き(隠蔽)された他責」と言えます。

まとめ

「自己の責任の範囲(在り処)と他者の責任の範囲の特定」および「その範囲内での適切な反省の強度の測定」が為された時、「自己責任」として生産的なものとなり、その特定と測定を誤った時(多くの場合誤謬ではなく欺瞞)、「自責」として破壊的なものとなってしまいます。
つまり自責の念など持つ必要はない(罪に相応しい罰と償いや、失敗に相応しい反省と修正以上のものは必要ない)ということです。

 

おわり