自己責任とは何か

人生/一般

はじめに

最近、「自己責任」という言葉が流行っています。
しかし、この言葉が使われる時、たいてい何か矛盾した文脈で使われており、強い違和感を覚えます。
そこで、この言葉の意味とその違和感の原因について考えてみたいと思います。

自由と責任

「自己責任」という言葉の端的な意味は、「自分の行動の(結果に対する)責任は自分にある」ということです。

この言葉は基本的に「自由」という言葉と表裏一体の関係にあります。
例えば、人間が人を殺せば、その責任を問われますが、台風やウイルス(微生物)やサメが人を殺しても、責任は問われません。
その違いは、選択の可能性(自由)の有無です。
「人間は人を殺すことも殺さないこともでき自由である。けれどその自由な選択においてあなたは殺した、だから君には責任を負ってもらう」ということです。

ウイルスもサメも生物ですが、その行動は自由意志の伴わない、自動機械のようなものと見られており、そこに「自由」がない以上、「責任」もない、と考えられます。
重度の精神疾患を持つ者が、殺人を犯してもその責任を問われないのは、裏を返せば、彼らが自由意志を持たない生物のように見られているということです。

自己責任社会

だから、選択の可能性の大きい、自由な社会は「自己責任社会」とも言われるわけです。
もし、SF映画にあるように、私たちに自由が一切なく、完全に行動の選択を管理者が決定しているような社会が存在するとしたら、そもそも私たちに「責任」というものが生じようがありません。
だから、現代の自由競争の社会では、自由が大きい分その責任も大きく、「自己責任」という言葉が流行っても不思議はないわけです。

しかし、問題はこの言葉が、むしろ「自己責任」の回避、いわば「無責任(責任の放棄の意)」を合理化するための言い訳の言葉として使われていることです。

厳密な「自己責任」

まず、厳密に言えば、「自己責任」という言葉は自分にしか使えません。
なぜなら、もしその言葉を他人に対して使えば、「他人のせい」になってしまうからです。
「この状況はお前の自己責任だ」という言葉は、→「この状況はお前自身の責任だ」→「この状況はお前のせいだ」→「お前のせい」と転化します。

例えば、政治家が貧困者に対して「自己責任」と言う場合、それは「俺には責任ない、あいつが悪い」と他人のせいにしているようなものです。
そうではなく、「そういう貧困者を生む私の政策が悪いのだ」と自覚することこそが自己責任です。
親や教師や上司や政治家などの管理者が、「自己責任」という言葉を使う時、事実上、自分の管理責任の放棄、あるいは自らの無能を自ら晒していることになります。

それに対して、貧困者も自分の貧困を政治家のせいにはできません。
そうではなく、「貧しさの原因は自分の努力不足だ」と自覚することこそが自己責任だからです。
もし、必死で努力をしても駄目で、やっぱり政策が悪いから俺は貧乏なのだと思うのなら、政治参画して政策を変えていこうとするのが自己責任であり、政治家のせいにすることではありません。

厳密な自己責任社会とは、そういう世界です。
「自己責任」という錦の御旗に隠して他人のせいにするのではなく、状況を自分の責任としてすべて引き受ける、ということです。
自己責任社会を言い換えると、「誰も決して他人の所為にしない社会」です。
成員全てが問題に対し自己の責任において対峙し、皆で解決しようとする社会です。

たとえ話

原因不明で船が難破しそうになった時、どうすべきでしょうか。
駄目な組織では、たいてい互いが互いに他人のせいにして罵り合います。
海図を読む奴が悪い、オールを漕ぐ奴が悪い、舵を切る奴が悪い、船を作った奴が悪い、気象予報士が悪い、等々。
そうこうしている内に状況は悪化し、船は海の藻屑と消えることになります。
政治家は貧困は民衆の努力不足だと罵り、民衆は政治家の無能だと罵り、社会は何の改善もないまま終わりへと向かっていきます。

これを解決するのは、各自が自分の責任で問題を引き受ける「自己責任」しかありません。
他人のせいにすることを止めて、問題を自分の責任として引き受け、自分の社会の位置(役割)において、ベストを尽くすことです。
各々がそうすることによって、問題を解決する可能性がはじめて生まれてきます。
少なくとも互いが他人のせいにしている限り、改善の努力は生じず、生き残れる可能性はゼロです。

例えば、クラスでいじめの問題が発生した時、当事者同士だけでなく、教師もクラスメートも学校も親もメディアも、他人を批判するのではなく、それぞれの自己責任において、自分がその問題の解決に対し出来るだけのことを為すことで、解決の可能性が高まるのです。

精神科医でもあり哲学者でもあるヤスパースは、地球の裏側にミサイルが落ちたとしても、少なからずそこに私も責任の一端がある、という趣旨のことを述べますが、それはそういう「自己責任」の自覚のことです。

「自己責任」という言葉の正体

もちろん、これはただの理想であって、現実ではただ皆が皆、あらゆる手段を講じて、自分の責任を回避し、いかに他人に責任を負わせ、楽をしようかと躍起になっています。
人間の成長を深く考察した心理学者のエリクソンの言う成熟した大人(他人よりも自分がより多くの責任を引き受けようとする人)など存在せず、現実の社会はただ無駄に年齢を重ね身体だけ大人になった子供達のプレイルームです。
この大きな子供達が用いる言い訳が、「自己責任」という詭弁の言葉です。

そもそも他人の自己責任を問うことができるのは、自分の自己責任を全うしている者のみです。
しかし、多くの場合、他人に「自己責任」という言葉を投げかける者に限って、自分の自己責任を果たしていません。
例えば、大学不合格という状況を、子供の「自己責任」と言えるのは、きちんと教育という責任を全うした親(や教師)のみです。
自分の責任を全うしないまま、状況を他人の「自己責任」とするのは、自己の無責任と無能力を他人に転嫁する自己欺瞞と詐術であり、その言い訳のマジックワードこそが、今流行りの「自己責任」という言葉なのです。

無責任社会

管理者は教えもせずにできない部下に対し自己責任と批判する権利はなく、市民(有権者)は選挙にも行かずに社会状況を政治家の責任にする権利はなく、子供は勉強もせずに自分の無能を親や教師のせいにする権利はありません。
すべては自己責任であり、他人のせいにすることはできず、だからと言って、他人に対して「自己責任」という言葉を投げかけることでこっそりと裏に隠して他人のせいにすることもできません。
もし、自己責任を社会の基本とするのなら、各々の主体性を問われるそういう厳しい世界になります。

最近流行の「自己責任」という言葉は、ただ自分の無責任と無能と他者依存を覆い隠すための隠れ蓑として、使われているだけです。
もし、それぞれが本当に自己責任において状況を引き受けている有能な集団であれば、「自己責任」という言葉は自己反省以外に使われることはありません。
この言葉がコミュニケーションの場で飛び交うということは、それだけ彼らが無責任集団であるということの証しなのです。

結論

「自己責任」という言葉が流行る社会は、それだけ無責任社会であるということです。
最初に述べた、「自己責任」という言葉が使われた時に生じる違和感や矛盾の原因は、この言葉がその語意に反し、極めて無責任な言葉として使用されているということです。

 

おわり

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