逆張りとは何か

人生/一般

流行する逆張り

一般に受け入れられている意見に対し、反対の意見(否定、批判、逆説など)を述べることを、通俗的に「逆張り」などと言います。
最近、日本では「逆張り」が流行しており、テレビの毒舌芸人、逆張系のユーチューバー、ディベートで逆説を駆使する知識人(?)、過激な現状否定を歌うボカロPなど、様々な分野で逆張りが人気を博しています。
その逆張りの内容が正しいかどうかは別として、逆を張っておけば、「とりあえず何か新しいことや重要なことを言っているように見える」「議論で負けにくい」という効果は確実にあります。

真理は常に逆張りにある

どんな分野にせよ、進歩する際には、必ず現状の否定というのが第一段階として必要です。
そしてその否定を介して現状を改め、はじめて進歩というものが成立します。
現状の否定の繰り返しによって、より進歩していき、最終的に真理(進歩の終着点)にたどり着く、というのが、学問(特に科学)の基本にある考え方です(いわゆる弁証法)。
ですから、現状を否定する逆張りには”新しさ”と”進歩の予感”が含まれており、それが「とりあえず逆張りしとけば、何か新しいことや重要なことを言っているように見える」というイメージを生じさせています。

逆張りは強い

例えば、「~でない」と言われれば、私たちは普通に理解できます。
しかし、「~でないこともない」と言われれば、「ん?」となって理解が難しくなります。
「~でないこともないこともないこともない」と言われれば、頭がパンクして怒り出すでしょう。

ある枠組みや世界を超越した高次の場所にあることを「メタ~(高次の~)」と呼びます。
それを当てはめると、「~でないこともない」はメタ否定、「~でないこともないこともないこともない」メタメタメタ否定となります。
義務教育の数学や形式論理学で否定の否定は肯定だと習うので、「~でないこともないこともないこともない」は、裏の裏の裏の裏で、単なる「肯定」だろうと思われるかもしれませんが、進歩を伴う否定の場合、否定の否定は最初の肯定には戻りません。

例えば、単なる現実を知らないノーテンキな楽観主義者と、悲観的な現実を知り尽くした上で楽観主義にたどり着いた人では、全く違います。
前者は単なる肯定、後者は否定の否定(メタ否定)です。
前者は厳しい現実に遭遇すると、すぐに楽観主義を放棄しますが、後者は厳しい現実に遭遇しても、それは既に過去に経験し否定したものなので、楽観主義を貫きます(同じ楽観主義に見えても次元も質も違います)。
漫画『スラムダンク』の安西先生の穏やかさは、ただの穏やかさではありません(いわばメタ穏やかさ)。

私たち一般人は、単なる否定は理解できますが、否定の否定(メタ否定)を理解することは困難です。
例えば、逆張りの毒舌芸人が、善い人キャラタレントの偽善性(虚構性)を暴き出す場合は、単なる否定で、私たちでも理解できます。
しかし、その毒舌芸人の言説の内にあるさらなる偽善性を暴き出す心理学者のメタ否定(否定の否定)を理解するのは、相当難しいでしょう。
そして、その心理学者の言説の内にあるさらなる偽善性を暴き出す哲学者の難解なメタメタ否定(否定の否定の否定)となると、もうお手上げです。

最終的に、逆張り(単なる否定)は最強になってしまうということです。
第一に、逆張りをさらに否定(メタ否定)できる人が極めて限られているという理由で。
第二に、仮にその人が、逆張りを否定する言説(メタ否定)を提示したとしても、一般の人々はそれを理解することができないため、無かったことにされてしまうという理由で。

周回遅れに気付けない逆張り屋

そうすると、世間一般は単なる逆張り程度の知識で限界づけられてしまうことになってしまいます。
しかし、時間が経ち、その最初の否定(逆張り)の言説が一般化し、常識になると、ある種の肯定のようなものに成り、メタレベルが一段下がります。
かつての否定は肯定になり、かつてのメタ否定は単なる否定になり、メタメタ否定はメタ否定に落ちます。
あるドイツの哲学者は、哲学者の言説が一般に理解され常識になるまで百年ほどかかる、という旨のことを述べますが、それに似ています。

ですから、私たちは常に自分が周回遅れであるという可能性を自覚していなければなりません。
なぜなら、私たちの多くは、メタ否定を理解することができず、自分より先に進んでいる人を後ろの人だと勘違いしてしまうからです。
先に述べたような、厳しい現実を知り尽くした上で楽観主義に生きている人(メタ否定)を、自称現実主義的悲観主義者(単なる否定)は、「コイツは何も現実分かってねぇ」と冷笑し見下すことがよくあります。
逆張りをする人は傲慢な人が多い印象ですが、その傲慢さは周回遅れに気付いていないことから生ずる一種の誇大妄想とも言えます。

 

おわり

 

(おまけ)具体例

1.常識的な一般人「昨日・今日・明日と、意見をコロコロ変えることは良くない。一貫性を持った発言をすべきだ」(肯定)

2.逆張り王ピロユキ「えーと。意見が変化しない人って、それだけ成長してないってことなんですよね。要するに馬鹿ってことですねw」(否定)

3.常識的な学者「成長というのは”一貫性を持った変化”のことです。ある方向(目的)に向かう一貫的な変化が成長であって、何の方向もなく彼方此方と転がるだけの変化は成長とは言いません」(否定の否定)

4.虚無主義者ニーチョ「一貫的変化(成長)なんてありませんよ。世界には混沌とした変化があるのみです。ある特定の価値観に則った変化を集めて、一貫的だと勘違いしているだけです。無造作に並んだ星空から、勝手に熊だのペガサスだの、ある一貫性を持った星の連なり(星座)を妄想している古代人と変わりません。あなたが一貫的だと思ってる変化(成長)も、別の人にとっては一貫性ない変化に見えます」(否定の否定の否定)

以下、延々と続く…

このように、否定はいくらでも積み重ねていくことができますが、どんどん複雑になり、考えるのが困難で面倒なことになるので、良い加減を探して、妥協的に真理として採用することになります。
俗ウケする2.のピロユキか、常識レベルで理解可能な3.の学者の考えが採用されやすいでしょう。
4.のニーチョ以降は”あたおか”扱いされて、黙殺されます。
それを言ったらおしまいよ的な、常識の根幹を揺るがす層の否定まで来ると、人は精神的な危険を感じ、条件反射的に考えるのを止めます。
デカルトは、自分が狂人の烙印を押され、学者として扱われないことを恐れて、探究の手を緩めていた(つまり凡人に合わせていた)という逸話があります。