人間不信とは何か

人生/一般

人間不信は善くも悪くもない

人間は本質的には善でも悪でもなく、ニュートラルな存在です。
条件次第で悪にもなれば善にもなります。
人間が信じられる存在かどうかも同様、条件次第で変わるものです。
例えば、人を疑うこともなく、また人を騙すこともない純粋無垢なお姫様の存在は、城壁によって守られた幸福な環境によって保証されています。
もし、日々争いの絶えない城壁の外の貧民のような過酷な環境にそのお姫様を置けば、彼女も人を疑い人を騙す存在へと転落します。

勿論、争いの多い環境下では、適度な人間不信は危険回避のために必須の感覚なので、それが悪いということではありません。
グロ-バル資本主義の台頭によって競争が激化し、手段を選ばず他人を蹴落とそうとする者の多い現代社会において、むしろ人間不信は健康な反応です。
グローバル化はモラルをも均質化するので、飲んで道路で朝まで寝たり、夏に窓を開けたまま寝たり、夜中女性が一人で歩いたりできる、幸せな日本は間もなく終りを告げます。
城壁(ローカル)が崩れ、幸福な環境から転落した日本人は、嫌でもお姫様的な平和ボケから醒めるしかありません。
社会関係の基本は信用ですから、人間不信が強すぎると社会の中で上手く生きていけなくなりますが、反対に人間不信が弱すぎると餌食にされ、別の面で生きていけなくなります。

本頁では、人間不信の強さを上手く調整できるよう、人間不信が生じる条件をいくつか考察します。

リソースの有無

「信じる」とは、一種の賭けです。
「信じる」ということは、そもそもその選択の前に「不信(疑い)」がなければ生じないものです。
例えば、私の子供が私の子供である事はたんなる「当然」です。
しかし、突然、昔お世話になった病院の産婦人科から連絡があり、出生時の取り違えの可能性があるとの連絡を受けたとします。
そうして私の子が私の子ではないかもしれないという「不信(疑い)」が生じた時に、はじめて、私の子が私の子であることを「信じる」という事態(賭け)が成立します。

賭けにおいて重要なものが有り金です。
有り金が沢山あれば、賭けを積極的に為すことができますが、そうでない場合、賭けは非常にリスキーで警戒すべきものとなります。
例えば、マッチングアプリで異性に騙され100万円を失ったとしても、財産に余裕のある人であればが笑い話のひとつとして流し、再度アプリに挑戦する(つまり再度異性を信じる)ことができます。
しかし、貯金もろくにもたない低所得者層であれば、リスクが大きすぎて、もうその賭け(異性を信じる)を為すことは出来なくなります。

社会で生きていくために必要なお金や時間や情報や人間関係などのリソース(資源)を多く持っているほど、賭け(信じること)は容易になり、少なければ少ないほど、賭けること(信じること)が難しくなってきます。
リソースがある程度安定していないと、人を信じることが難しくなるということです。
人間不信の原因が自己の財産(物的及び精神的)にある場合、他人のモラルをとやかく言っても意味が無く、努力によって自己のリソースを豊かにし、他人を信じられるだけの余裕を作るしかありません。
俗っぽく言えば、弱い動物ほど警戒心が強くなるという、自然の摂理です。

知識の量

「不信(疑い)」の量は、その人の知識の量に比例して大きくなります。
知識を得れば得るほど、何が本当(真実)で何が嘘(誤謬)かということがよく見えてきます。
まるで光と影の同時生成のように、自分の頭の中に世の中の「真実」がひとつ知識として付け加わるごとに、その反対概念である「嘘(誤謬)」もひとつ付け加わるのです。
例えば、名探偵コナン君のように賢すぎれば、他の人すべてが見落とすような些細な情報から、嘘や不正が見えてきて、世の中は欺瞞だらけになって嫌になるでしょう。

「子どもは純粋で信用でき、大人は嘘吐きで信用できない」などとよく言われますが、それは年齢の問題ではなく、基本的には知識の量の問題です。
子どもは無知なので、その分だけ嘘の数も少なく、大人は知識が詰め込まれているので、嘘の可能性も膨大になります。
子供(自我意識の目覚め以後の)は、心が純粋で嘘を吐かないのではなく、知識がなくて吐けないのです。
子供は心が純粋だから人を信じるのではなく、知識がなくて彼の頭の中に嘘が存在しないので、疑うことができないのです。
知識の無いいわゆる馬鹿正直な大人が、人を騙したり、人を疑ったりしないのは、心が綺麗だからというより、原理的に出来ないのです。

論理学において、意図的に為される「誤謬(誤り)」を「詭弁(嘘)」と言います。
「誤り」と「嘘」の違いは、意図的に為されているかどうかの差です。
しかし、他人の心の中を見ることは出来ないため、他人が為した不信な行為が、「誤り」であるのか「嘘」であるのかを判断するのは困難です。
つまり、知識の量が多く、かつ嘘と誤謬を判断するスキル(洞察力)を持っていない人は、人間不信に陥りやすいということです。
例えば、私が一般的な医者以上の医学的知識を持っている場合に誤診されればそれに気付くことができ、且つ、私にそれが誤謬か意図的な嘘かを見抜く洞察力が無い場合、「この医者は儲けるために健康である私を病気であると診断し、騙した。信用ならぬ」と判断してしまいます。
つまり、「嘘吐きの人+誤った人」の総体という膨大な数が、「信じられない人」として現れてくるのです。

普通、知識の量が増えれば、物事が明確になり、不信や疑いが晴れるものと考えられますが、それは自然科学的な事象や対象においてのみです。
人間の心というブラックホールのせいで、その知識の量は反転して、膨大な不信や疑いの種となるのです。
このように、人間不信の原因が自己の知識の量(+嘘と誤謬を見分ける洞察力の欠如)にある場合、常にこの事実を自覚し、「世の中、自分が思っているほど悪い(信じられない)ものではない」と、反省的に自分の認知を補正するしかありません。
それは、半端な知性で他人を「信じられない人」と断罪する自分の傲慢さに気付くということです。

経験と環境

人は基本的に、過去の経験的データに基づいて、人間が「信じられるもの」か「信じられないもの」かを判断しています。
例えば、人間不信のライフスタイルは、幼児の頃に持続的に不安な状況におかれた子供が獲得しやすいと言われます。
また、いかに両親が安定した安心を与え育てたとしても、トラウマ的経験によって人間不信に陥ることもあります。
また、それら病理的な人間不信でなくとも、経験的な確率論によって、知的に「人間は信用に値しないもの」と判断し、人間不信を獲得する人もいます。

つまり、自分の周囲が信じられない人によって囲い込まれているような環境にいる人は、必然的に人間不信に陥るということです。
詐欺師一家に育ち、自ら詐欺師になり、詐欺師の仲間とつるんでいる人に対し、「人を信じろ」と言っても、絶対に無理です。
反対に、最初のお姫様のように、周囲が信頼できる忠実な従によって固められていれば、人を疑うという感覚が育ちません。
愛の与えられる暖かい家庭に育ち、信頼できる仲間と共に思春期を過ごし成長した人間に対し、「人間不信に成れ」と言っても難しいでしょう。

いわば、私の「人間不信」は、私の過去の経験および現在の環境に依るものであり、人間が本質的に信じられない存在であるということではない、ということです。
信じられる人間の集まる環境に行けば、おのずと自らも人を信じる人間に徐々になっていくということです(手遅れでなければ)。
「男(あるいは女)なんて信じられない」と言う人は、ただその人がそういう異性と付き合っただけであり、異性が本質的に信じられない存在であるという訳ではありません。
子供の頃の環境は選べないので、幼児期や思春期に獲得した人間不信は仕方ありません。
しかし、自ら信じられないような人と付き合い、自ら人を信じ無くしている大人は、自業自得としか言いようがありません。

このように、人間不信の原因が人間関係的な環境にある場合、自ら努力し、自らの意志と企図によって、選択的に良い環境を選んでいくしかありません。
仲間内でおとしめ合うようなブラック企業で働きながら、人間不信に陥ったとしても、それはその人自身の責任です。

判断基準

人はあらゆる対概念において、両極端にとらえがちです。
言語の性質(差異の体系)上、原理的にそうならざるを得ません。
例えば、善悪はよく白黒のイメージで捉えられますが、この地球上には純白も純黒も無く、中間トーンしか存在しないように、現実にはある程度の善かある程度の悪、いわば両方を含んだものしかありません。
幅のない線や厚みのない面が現実世界には存在しえないように、悪を含まない善など頭の中にしか存在しない抽象観念にすぎません。
その抽象観念を実在と信じるのは、知的に幼稚か、感情的にナイーブな人です。

それは嘘と真(まこと)の対概念においても同じです。
真は常にいくらかの嘘を含み、嘘は常にいくらかの真を含んでいます。
人間においても同様、完全に正直な人も完全に嘘吐きな人もいません。
[自我意識発達以前の人間(乳児~幼児初期)は、知的に発達していない動物と同様、完全に正直な人間だと思われるかもしれませんが、そもそも嘘を吐ける可能性がゼロなので、その対概念である正直も成立していない、何でもない存在です。嘘を吐ける可能性のある人が自らの意志で嘘を吐かないことが「正直」です。]
だから、人は「正直な信じられる人」と「嘘吐きな信じられない人」を、その人(他人)の中にある嘘と真の比率によって分けているにすぎません。
この基準が厳しければ厳しいほど、世界は信じられない人で溢れかえることになります。
ありもしない純白(完全な正直)を基準にすれば、あらゆる人を嘘吐きだ詐欺師だ裏切り者だと言って叩くことができます(実質的に現実世界から正直者が消失する)。

理想主義や性善説を信じている楽天的な作家や思想家が、晩年になると悲観し人間嫌いになることがよくあります。
彼らは潔癖症なので、人間の些細な汚れを許容することができず、自ら人間不信に陥り、自分で勝手に世界に絶望しているのです。
このように、人間不信の原因が自己の内にある過度な判断基準にある場合、それを緩め、より現実的な判断が下せるようにする必要があります。
近年、日本の健康診断の基準がどんどん厳しくなってきています。
それに伴い、日本人の大半が「病人」になってしまいました。
人間不信も、これと同じように生じることがあるのです。

むすび

物事の原因は無数にあり、様々な因子が複合的に重なり生じるため、影響力が強いと推定される原因を順に潰していくしかありません。
今回はその中で、人間不信を生じさせるであろうその因子を四つ紹介したにすぎません。
この限られた四つの条件だけで言うと、「人間不信」は、社会的に弱く、半端な知識で、経験の偏った、理想主義的な人間が陥るものだということです。
裏を返せば、社会的に強く、正確な知識を持ち、経験が豊富(偏りがないという意)で、現実主義的な人間は、「人間不信」に陥りにくいということです。
人間不信の後天的な原因は、努力によって取り除くことができるので、ありもしない天使のような世界を他人に望むより、自分が成長し人間不信を克服する方が手っ取り早いということです。

自ら積極的に信じることによってしか、信頼関係は作れないと、哲学者(心理学者)のウイリアム・ジェームズは言います。
多くの場合、信頼は信頼を呼び、不信は不信を呼びます。
どちらの方向に転がすにせよ、雪だるま式にそれは大きくなっていきます。
その方向を決めるのは自分自身です。
そして、これまで述べたように、積極的に信じる為には、それだけの条件を揃える努力が必要だということです。
「人間不信」という語は、人間が下らない存在だということを指すのではなく、いま現在の私自身が下らない状態にある人間だということを指しているにすぎません。
他者への不信は自分自身に対する不信を投影したものでしかないという、精神分析的な知見は、これを別の角度から述べたものです。
他者を信じるためには、まず自分自身を信じてあげられるように成らねばならないのです。

 

おわり