第三対話
フィロナス
おはよう、ハイラス。
よい考えは見付かったかい?
ハイラス
いえ、ただ虚しさだけがつのっただけです。
人間の意見など不確かで、今日賛成していたことを明日には非難します。
そうやって、知識について騒ぎ続けるだけで、何も知ることなく、人生は終わる・・・。
世界の本性を、人間は一切知ることなどできないのですよ。
フィロナス
何も知ることができないだって!
では、君は火や水など、いかなるものも知ることはなできないのかい?
ハイラス
ええ。
火の熱さや水の液態は、火や水が人間の感覚器官に当たった時に生じる心の内のものにすぎません。
火や水の真の構造や本質は、人間にとっては永遠の暗闇世界です。
ただ心のうちに”現われ”のような観念をもつだけで、そのものを知ることなど一切できません。
ですから、実在物を肯定したり知ったふりをすることは、慎まねばなりません。
フィロナス
しかし、僕は普通に金と鉄を区別しているよ。
そのものの何であるかも知らないのに、こんなことが出来るだろうか?
ハイラス
それは心の中の観念間の区別をしているだけですよ。
黄金色や重さなど、感官に相対的に現れる可感的性質をとらえているだけで、絶対的にそれが存在しているわけではありません。
着ている洋服が同じとか違うとかで、人間の同異を判断するようなものですよ。
フィロナス
つまり、私たちは、本当のものではない現われをただ押し付けられているだけなのだね。
ハイラス
ええ。
フィロナス
しかし、人はまるで事物のことを知っているかのように、上手に快適な生活を送っているよ。
感官が全世界を欺いているようには見えないが。
ハイラス
日常生活など、知識や深い思索など必要としないからですよ。
人々は”現われ”の誤りに気付かないまま、日々をやり過ごしているだけです。
哲学者だけが、そのことに気付いているにすぎません。
フィロナス
哲学者は、「自分が知らないということを知っている」という意味かい?
ハイラス
その通りです。
それが人間の知の頂点です。
フィロナス
本気で言っているのですか?
ペンや紙の何であるかも知らないまま、君は授業でペンと紙を必要とするのかい?
ハイラス
全宇宙のあらゆるものの本性を、私は知りません。
ペンや紙の現われや観念を知覚することはありますが、それ自体の本性が何であるかは全く知りません。
その存在そのものについてすら、永久に無知のままです。
フィロナス
それは、君の中にある物質的実体に対する信念という隠れた前提が引き起こしている混乱だよ。
未知の本性というありもしない夢を見て、それが無いからと言って、勝手に絶望し、自分で自分を懐疑主義に陥れてしまっている。
可感的現れと外的物質を区別し、後者に実在性を想定することから生じる矛盾や無によって、君は宇宙の実在性まで否定しなければならなくなっている。
物質的実体という君の仮説を放棄しない限り、どうにもならないよ。
ハイラス
・・・弁解の余地はないようです。
では、代わりにあなたの仮説をお聞かせください。
失礼ですが、今度は私があなたに質問し、あなたの仮説の方こそ懐疑主義であることを証してみせましょう。
フィロナス
仮説なんて作らないよ。
僕は一般人と似た人間で、自分の感官を単純に信じているよ。
見たり触れたり、感官によって知覚されたものが実在物だと考えている。
それは人間の生活に適っているし、わざわざそれとは別の未知のものを想定する必要などない。
君が「火」と言う場合、外的な知覚されない実体を意味する訳だが、僕が「火」と言う場合、ただ、見たり触れたりするものだけを考えている。
僕は、感官によって知覚されているものが本当は存在しないなどという矛盾した思考を持たないので、懐疑主義者にはならないよ。
感官によって知覚されるものは直接知覚されるもので、直接知覚されたものは観念だ。
観念は心の外に存在することができず、観念の存在は知覚されることにある。
物が現実に知覚されている時、間違いなくそれは存在している。
現実に見たり触ったりする可感的事物の存在を疑う哲学者たち(デカルト、ロックのこと)は、人間を弄んでいるんだよ。
ハイラス
そんなひと息に述べないでください。
つまり、あなたは可感的事物が心の外に存在するなど考えられないと言うわけですね。
フィロナス
そうだよ。
ハイラス
あなたがこの世からいなくなり、あなたの心が無くなったとしても、感官によって知覚されていたものは依然存在し続けると、考えないのですか?
フィロナス
勿論、存在し続けるよ。
私とは別の心の中においてね。
僕が「可感的事物は心の外に存在しない」と言う時、それは”すべての心”を意味しているんだよ。
経験的に、物が”私の心”の外に存在していることは明らかで、僕がその物を知覚していない時間は、僕の心の外の別の心においてそれは存在している。
僕の生前も物は存在していたし、死後も物は存在していることだろう。
だからこそ、”無限の遍在する心(神)”があると言うのです。
その大きな心が、僕たちが自然法則と呼ぶ規則に従い、事物を人間の知覚へともたらすのだよ。
ハイラス
すべての観念は受動的で不活発なもので、反対に神は能動的な行為者であるはずですね。
そうであれば、いかなる観念も神に似たり、それを表したりもできない。
フィロナス
勿論、そうだろう。
ハイラス
すると、あなたは神の心の観念を持てるはずがないので、事物が神の心の中にあるなんて考えられないはずです。
観念を持てないはずの物質の存在を考えていた私と同じ批判を受けて然るべきでしょう。
フィロナス
確かに、観念によって、能動的な神や他の精神をとらえることはできない。
しかし、僕は僕の精神(私自身)が存在することを、観念の存在以上に、よく知っている。
形や色や音のような知覚とは異なる、もっと直観的なあり方でね。
活動(能動)し思考し知覚するものである精神は、分割することが出来ない、つまり延長の無いものだ。
反対に、延長し形を持ち動き、受動的に知覚されるものが観念だ。
そんな観念を、知覚し考え意志するものは、明らかにそれ自体は観念ではなく、観念に似てもいない。
つまり精神と観念は、まったく異なる種類のものなんだよ。
感官によって神を知覚することだできないが、反省と推論によって、神の思念や、誤解を招く表現だがある種の観念のようなものを持つことができる。
「自分自身の心」と「観念」という直接的に把握できるものから、間接的に他の精神とその内の観念の存在可能性を導き出すのだよ。
己自身の存在から、理性によって、必然的に神と神の心の中のもの(被造物)の存在を推理する。
君の言う物質も、観念によって知覚できないという点では同じだが、精神と異なり、反省の働きによって自分の心を知るように知ることはできない。
物質の場合、人間が直接知っているもの(精神、観念)から、類推的にも間接的にも把握する方法が全くない。
ハイラス
あなた自身の精神が、間接的に神の思念やある種の観念を与えると言いますが、どうやってそんなものを持つのですか?
精神と観念は、決して似ることのできない、全く異なるもののはずです。
物質的実体の思念や観念を持てないという理由で物質の存在可能性を否定したように、他の精神の存在も否定するのが平等というものでしょう。
フィロナス
僕が物質の存在を否定するのは、物質の思念を持てないからではなく、その思念が矛盾しており整合的でないからだよ。
また、知覚できないものが存在すると信じるためには、その根拠となる理由がいる。
物質にはその存在を信じさせる理由がない。
他の精神の存在を信じる根拠となる直接的な直観がない。
また、僕の感覚や観念や思念や活動から、知覚も思考も活動もしない物質的実体とやらを、間接的に推論として導き出すこともできない。
物質の思念を持ったところで、明らかな矛盾や不整合で、すぐに瓦解してしまう。
人間は、他の精神の存在についての直接的な証拠を得ることは出来ない。
しかし、その思念を持つことに矛盾や不整合性はなく、物質と異なり、蓋然性や兆候においてもその存在が示されている。
厳密に言うと、精神は観念としては知覚されないが、反省(理性)的に思念として知りうる。
先ほど「誤解を招く表現だがある種の観念のようなもの」と言ったのは、こういうことだよ。
ハイラス
あなたの言う精神的実体というものが意味のあるものだとは思えません。
物質的実体と同様、空虚なものとして破棄されるべきでしょう。
フィロナス
僕は確かに観念としてではない自己の存在を知っている。
それは、知覚し、意志し、思考する能動的な原泉として在り、可感的事物や観念とは違い、決して分割することのできないものとして、知っている。
精神的実体は観念の支えとしてある。
それに対し、知覚しない物質が観念を支えると言われる時、僕はそれがどういう事態を意味するのかまったく分からない。
精神と物質は同様のものなどではないよ。
ハイラス
その点については概ね理解しました。
しかし、「可感的事物の実在は知覚されることにある」というあなたの主張は、常識外れですよ。
誰に訊いても、「知覚されること」と「存在すること」は、別のものだと答えますよ。
フィロナス
いや、僕の方こそ、いたって常識的だろう。
あそこの庭師に訊いてみればいい。
「なぜあなたはそこに桜の木があると考えるのですか?」と訊けば、それを見て触れたからだと答えるだろう。
「なぜあなたはそこに蜜柑の木が無いと考えるのですか?」と訊けば、それを見ていないし触ってもいないからだと答えるだろう。
彼は常識的に、感官によって知覚するものを実在物、されないものは存在しないものと言うだろう。
ハイラス
ならば、もっと厳密に問い直しましょう。
「あなた(庭師)の前の桜の木が、心の外に存在するかどうか」と。
フィロナス
勿論、心の外に存在すると言うだろう。
存在する本当の桜の木は、彼の心の外の”無限の遍在する心(神)”に在る、とね。
彼がキリスト教徒であれば、常識外れなことではないだろう。
物質主義者と僕の主張の違いは、その人の心の外に存在しているかどうかではなく、すべての心(神+私+他者)の外に絶対的存在を持っているかどうかということにある。
ハイラス
では、同じ心の中にある、知覚即実在である観念と、想像力や夢によって作られる観念は、どう違うのですか?
フィロナス
想像力による観念は、弱く不明瞭で意志に依存する。
知覚による観念、つまり実在は、強く明瞭で意志に依存しない自分とは別の精神によってもたらされる。
そのため、知覚による観念と想像による観念を混同することはほぼない。
夢による観念は、時に活き活きとしたものであることがあるが、知覚と異なり、前後の流れの自然法則的規則に混乱があるため、実在とは区別できる。
ハイラス
なるほど。
あなたの主張によれば、世界には精神と観念以外の何もないことになります。
それはやはり奇妙でしょう。
フィロナス
人々は観念という語を物を表すものとして使用しないので、普通でないように思うだろう。
僕は単純に、世界には知覚するもの(精神)と知覚されるもの(観念=俗に言う物)があるだけだと考えている。
思考するものは、本性的に知覚するもの(精神)であり、思考しないものは、本性的に知覚されるもの(観念)である。
そして、人々は、神の無限の精神によって知覚されているもの(万物)の中で生き、動き、存在しています。
ハイラス
つまり、世界には物理的原因などなく、世界における現象のすべての原因は精神であるという、信じがたい主張ですね。
フィロナス
ええ。
奇妙に聞こえるかもしれないが、僕が述べていることは、君にとっても大切な聖書に書かれている事ばかりだよ。
ハイラス
あなたは、神を世界のすべての運動の作者と言います。では、神は、殺人や姦淫や冒涜などの世の中の憎むべき罪の作者であるわけですね。
フィロナス
言わせてもらうが、物質という道具や機会因の仲介による神の活動という君の主張も、神を罪の作者にしてしまっているよ。
僕と君の主張いずれにせよ、罪は、物理的動きや外面的行動にあるのではなく、意志の逸脱にある。
例えば、戦争で敵を殺したり、法に基き犯罪者に刑罰を加える場合、悪い意志に因る殺人や傷害と同じ行動であっても罪とは言えない。
つまり、神をすべての運動や行動の原因にすることと、罪の作者にすることは別のことなのだよ。
究極的に人間は、神に由来する制限された能力しか持たないが、人間はその限られた意志的行動の中で罪を負うものです。
ハイラス
しかし、物質を否定するあなたの考えは、人間の普遍的感覚に合いません。
多数決を採れば、あなたの説は負けるでしょう。
フィロナス
意見が公正に述べられ偏見のない人々に判断が委ねられるなら、僕は喜んでその人々普遍の感覚、つまり常識に従うよ。
僕の主張に対する非難は、僕が可感的事物の実在性を否定している、という誤解から生じるものだ。
僕は、物体や実体を確信している。
それが感官によって知覚されるものと同義であることにおいて。
ハイラス
人が感官によって実在性を判断するというのなら、どうして人は、遠方の四角柱の塔を円筒の塔だと思ったり、水に浸った棒を曲がった棒として思ったりするような間違いが生ずるのでしょうか?
フィロナス
それは、直接に知覚している観念においては正しいが、その知覚から行う推論において間違っているということだよ。
直接知覚している観念に接続する観念や予測された観念などに、誤りがあるということなのだ。
「水から棒を上げても、いま知覚している同じ観念を持つことになるだろう」という、誤った推論に拠る。
ハイラス
よく分かりました。
しかし、あなたは物質は存在しないと考える以前に、物質の存在を信じていた時期はなかったのですか?
フィロナス
確かに以前は物質の存在を信じていたよ。
先入観によって。
しかし、今は証拠と考察により、信じていない。
ハイラス
こうは考えられないでしょうか。
私たちが心の外部のものに作用されて観念を持つのは明白です。
そして、私はそれを「物質」と呼び、あなたは「精神」と呼ぶ。
つまり、単にそれは名付けの違いにすぎないと。
フィロナス
しかし、「物質」という語の定義には、延長をもち能動的でない(受動的)ということが、その本質としてある。
延長をもたず能動的であるもの、つまり「精神」のみが、能動的に働きかけ私たちに作用を及ぼすことが可能だと、さんざん議論してきたはずだが。
ハイラス
では、それを「物質」と呼ばず、物質でも精神でもない「第三の自然」とでも呼べばいいでしょう。
私たちの心の外部の何らかの能力が、延長をもたず能動的であるからと言って「精神」と呼ぶ所以はないでしょう。
フィロナス
能動(活動)的であるためには意志作用が必要で、意志作用があるところには常に意志がある。
また、知覚される観念はその人の心の外から与えられるが、それ自体(与える側)が観念を持たずに、私たち(受ける側)にそれ(観念)を分け与えることなどできない。
つまり、観念を有する知性であると。
意志と知性をもつものは、「精神」と言うほかない。
ハイラス
明快にお答えになったつもりでしょうが、矛盾がありますよ。
神は不完全なものではないですよね?
フィロナス
ああ。
ハイラス
苦痛や不快を受けることは不完全なことですよね。
フィロナス
そうだね。
ハイラス
ということは、苦痛や不快という不完全な観念が、それを与える”無限の遍在する精神(神)”の中にあるということになります。
神が苦痛や不快を被っているという、明らかな矛盾です。
フィロナス
限定的で依存的な精神である人間は、外部の影響を受けやすく、それが自己の意志に反するものであるとき、苦痛や不快が生じる。
しかし、神に対してはいかなる外部の影響もなく、意志は全的で自立的で、いかなる齟齬も抵抗もないため、苦痛や不快など生じる余地はない。
また、神が常に既に全知で持っている観念と異なり、人間の持つ観念は、可感的身体(物理的な身体のことではなく、心によって知覚された身体的諸性質や概念の総体のこと)と感官を通して得たものであるため、必然的に苦痛のような感覚的なものを伴ってしまう。
ハイラス
分かりました。
では、物質を基礎として論証された自然科学の諸法則を、あなたはどう否定するおつもりですか?
フィロナス
どんな論証だい?
ハイラス
重力=物体の質量×重力加速度(W=mg)によってあらわされます。
地球の重力加速度gは9.8 m/s²であるため、地球上の物体の重力はその質量mに比例します。
フィロナス
それは観念(可感的現象)の観察に基づいた推論による自然法則や秩序の解明にすぎないだろう。
確かにそれは有益なことだが、未知の基体である物体の存在の証明にはならないし、僕たちの心に観念が生じる仕組みを何も説明してくれない。
自然科学の目的は、物事の真の原因を解明することではなく、自然の法則を体系的に記述することだよ。
ハイラス
では、神は私たちを欺いているのですか?
物質は存在しないのに、物質の存在を信じ込ませようと全世界の人々に仕向けていると。
フィロナス
人間の先入観や感情や無思慮から生じた時好の意見(物質への信念)を、神の所為にしてはいけないよ。
神が物質信仰に帰依するよう強要したり啓示した痕跡などないし、そもそも全世界の人間が物質の存在を信じていると断定するのは、早まった一般化だろう。
ハイラス
新奇なことをおっしゃいますね。
新奇な考えは人を不安にさせ、よく思われませんよ。
フィロナス
なぜ理性に根拠をもたないものを否定するのがよくないことなのか。
政治や宗教における革新は危険な場合もあるが、知識における革新は文化の発展に寄与する。
僕は逆説や新奇さを演出する気はない。
むしろ君が主張していた、未知の物質を想定する世界観こそ、不合理で新奇で不安をもたらすものだったので、僕は常識を擁護したんだ。
君の新奇な考えを常識で解きほぐそうとすれば、どうしても普通でない言い回しになってしまうんだよ。
ハイラス
どちらがどうであれ、とにかくあなたはすべての物を観念に変えてしまった!
フィロナス
物を観念に変えたというより、観念を物に変えたんだ。
観念は物の現われだという君の主張に対し、僕は観念即実在物だと主張した。
君は自分の感官を信じていないようだが、僕は自分の感官を信頼している。
ハイラス
物の本性が感官によってのみ把握されるのなら、なぜ同じものを見るのと触れるのでは、違った風に知覚されるのでしょうか。
なぜ同じものを普通に見るのと顕微鏡で見るのとでは、違った風に知覚されるのでしょうか。
フィロナス
あらゆる変化すべてを個的に把握し、名付けていれば、言語はあまりに複雑になりすぎて機能しなくなる。
そのため、人は、感官の統一性や、時間の連続性や、状況の隣接性などの結合関係を頼りにして観念を組み合わせてまとめ、それをひとつの名で呼び、ひとつのものとして秩序立てて考える。
視覚で知覚したものを詳細に知るために他の感官で知覚するのでもなく、肉眼的視覚で知覚したものを詳細に知るために顕微鏡で知覚するのでもなく、それはただ観念間の結合関係を知るために為す。
それら観念は、同じひとつの実在物(物体)の異なった感官を経由した写し(現れ方の違い)などではなく、各々が独立した実在(観念=実在)であり、各々全く異なるものなんだ。
そして、観念の結合関係を知れば知るほど、物事の本性についてより深い理解を得られる。
君の言うように、観念は実在物ではなく実在物の写し(表象)でしかないなら、観念の実在性は実在物とどれだけ似ているかの比較によって保障されることになるが、当の実在物は永遠に未知のものであるという。
すると、永久に我々は、実在に対する何の知識も得られないままということになり、結局なんの望みもない懐疑主義へ陥ってしまう。
そこで、君にいくつか質問させて欲しいのだが・・・。
ハイラス
今は私が答える立場ではなく、あなたが答える立場です。
次のことについて、答えてください。
もし、あなたの言うように、各々が自分たちの心の中に存在する観念だけを知覚するというなら、そして、各々が知覚する観念が同じ物体の写し(表象)でないというなら、人々は同じものを知覚することが出来ない(同じ観念を持つことが出来ない)という奇妙なことになりますよね?
フィロナス
日常的に使われる”区別や多様性が知覚されない”という消極的な意味での「同じ」であれば、異なる人が同じものを知覚していると言える。
しかし、「同じ」を哲学的な”同一性”の意味でとらえるなら、どちらとも言えない。
各々に知覚された複数(各々)の観念間の統一性に着目して「同じ」ものと呼ぶ人もいれば、複数性に着目して「違う」ものと呼ぶ人もいる。
外壁以外のすべてを壊して中身を総入れ替えした家を、「同じ」家と呼ぶ人もいれば、「違う」家と呼ぶ人もいる。
同一性は言葉の問題であり、君がいかなる意味で問うているのかが分からない。
ハイラス
複数の観念を関連付ける私の心の外の外的な原型を想定した上で知覚される「同じ」ものです。
フィロナス
それは別に外的物体でなく、私の心の外の万物を有する”無限の遍在する精神(神)”を想定することによっても成り立つだろう。
ハイラス
・・・そうですね。
しかし、結局、あなたの懐疑主義に対する反論は、「人は見たり触ったりする可感的なものを確信している」という程度のことにすぎないのですよ。
フィロナス
それ以上の何かが必要だろうか?
桜桃を見て、触り、味わう、ただそれだけが本当の存在で、赤さや滑らかさや甘酸っぱさの無い別の存在物(桜桃自体)など必要ない。
諸々の感官によって知覚された可感的な印象や観念が即存在であり、そうして得られた諸観念を関係性に拠って心がひとつにまとめ上げ、それ(観念の集合体)にひとつの名前が与えられる。
それが、ひとつの「物」の成立過程なんだ。
桜桃の実在性は知覚を離れ抽象的に得られるもの(未知の本質)などではなく、見て、触れて、味わう時、具体的にその実在を確信する。
ハイラス
では、質問させてください。
心は延長しておらず、人が知覚しているものは心の中にあるとあなたは言う。
では、どうやって、木や家などの延長をもったものが、延長をもたない心の中に在りえるのでしょうか。
フィロナス
心の働きの説明は、可感的なものから借りてきた言葉によって為さざるをえない。
だから、その言葉の元の意味のままでとらえれば、齟齬が生じる。
僕が「対象が心の中に存在している」と言う時、それをありのまま、「対象が心という場所(物理的延長)の中を占有している」と、とらえてしまってはいけない。
「心の中に在る」とは、「対象を知覚している」ということを慣習的な言葉で述べたにすぎない。
ハイラス
その点は納得しました。
では、聖書に記述されている神の創造とは、一体何を指すのですか?
物体的実在ではなく、ただ観念を拵えただけなのですか?
フィロナス
日常的な会話では、感官の対象を「観念(=実在)」と呼ばず、物と呼んでいる。
君がその日常的な語用によって聖書を読む限り、そういう疑問が生じても仕方がない。
それは単に名前(語の定義)の問題であり、神の創造が事物(実在物)の創造であるという意見は、僕も変わらない。
ハイラス
もっと具体的に創世記第一章(神の創造)について示してください。
フィロナス
万物は”無限の遍在する精神(神)”に永遠に存在している。
そして、被造物である限定された個別の精神(私たちの心)に対する神のはからいによって、事物が知覚できるようになった時、相対的に事物(有限の精神にとっての事物)が存在しはじめる。
創世記の記述は、知覚の機能を授けられた有限な精神(人間)が、徐々に世界の事物を存在として発見していく過程なのだ。
事物は、私たちが自然法則と呼ぶ秩序や順序に従い、知性的な被造物に知覚されるよう神がはからった時に、私たちにとって存在しはじめる、つまり創造される。
ハイラス
事物を知覚可能なものにするという神のはからいは、永遠の昔から行使されていたのか、ある時に意志して始めたのかの、どちらかでしょう。
前者のような無時間性においては、何ものも始まりを持つことが出来ないし、後者においては時間的な変化を意味し、神の不完全性を示すことになってしまう。
フィロナス
神は制限なき完全な存在者であり、僕たち有限な精神から超越した存在だ。
神の本性や働きについての正確な思念、完全な理解を持つことなど期待してはいけない。
神の本性について語られる概念に不適切さが生じるのは、有限の知性(人間)による必然的な限界だろう。
僕たちが主題にすべきは、出来もしない神の完全な図解を作ることではなく、物質の存在に対する是非についてだろう。
ハイラス
おっしゃる通りですが、どうしてもあなたの意見に矛盾がある気がするのです。
フィロナス
ずっと君の意見に沿って、十分な感覚と推論と想像とによって検討し、導き出してきた結論だろう。
未知の物質を想定したところで、「神の創造」を想像することもできず、何の役にも立たない。
君は創世記の記述と非物質主義の矛盾について語るが、具体的な難点を君自身が理解しないまま、僕に解決を求めている。
それでいて、君は創世記の記述と物質主義には矛盾がないと確信している。
ハイラス
ええ、確信しています。
フィロナス
聖書の記述の歴史的な部分は、普通の平明な意味で理解すべきか、通常ではない形而上学的な意味で理解すべきか、どちらだろうか。
ハイラス
勿論、普通に読むべきでしょう。
フィロナス
モーゼが神の創造について、大地や空や水などを書く時、普通に可感的なものとして、普通の読者に向けて示されている。
しかし、物質主義者の説によると、感官によって知覚される可感的なものはその実在が否定されており、絶対的に存在している形而上学的なある未知の自然(物体自体)こそが実在であると言う。
つまり、モーゼの神の創造の記述が意味するものと、物質主義者の神の創造の思念は、両立しない。
モーゼは可感的なものの創造を語っているのであって、未知の本質や基体や機会因などのことを言っているのではないだろう。
想像できないほど抽象化された外的な実体という不毛な思念が、かつてあっただろうか。
むしろ、それ(精神に無関係に存在する物質的実体)は、神の創造に反論する無神論者の格好の口実を与えてきただけだろう。
ハイラス
・・・反論できません。
もう、私自身、何も言えることが残っていません。
ただ、あなたの説を受け入れるための心の整理がついていないだけです。
フィロナス
物質に対する信念という先入観が、その人にとって利益になっているので、その信念を変更するには抵抗が生ずる。
そういう場合は、新しい信念から得られる利点を考察し、失うものより得るものの方が大きいことを理解すればいい。
物質信仰が生じさせた様々な矛盾と科学の難解(パズル)化と無意味な論争、その双生児である反科学的な懐疑主義の狂乱と無神論的な道徳的頽落と慢心。これらを一掃したければ、物の実在性を外的実体ではなく観念におけばいいだけなのだ。
ハイラス
おっしゃる通りですね。
しかし、今は私も満足していますが、将来的にはあなたの非物質主義に対する反論が生じるかもしれません。
フィロナス
では、君を将来的に生ずるであろう無意味な反論から護るために、いくつか忠告していこう。
先ず、二つの対立する意見双方に同じように問題を生じさせるものは、いずれにおいても反論の証拠とはならない。
だから、非物質主義の仮説への反論の前に、物質主義の仮説上でその問題が解決可能か試してから、為すべきなのだ。
次いで、根拠なく立てた前提によって生ずる誤った眼差しで反論してはいけないということ。
例えば、僕は可感的事物の存在を強く確信していることをずっと述べてきたが、君の未知の外的実在(物質)という根拠なき前提が、「フィロナスは可感的事物が存在しないと主張している」という君の無意味な反論(論点すり替えの誤謬)を量産した。
君の反論は、多くの場合、僕に向けられたものと言うより、君自身の思念に向けられていたのだよ。
ハイラス
それは認め、反省しています。
思いついたのですが、いっそ可感的事物(即実在)を「物質」と呼べば、あなたの革新的な説を人々に受け入れられやすくできるのではないでしょうか。
フィロナス
君がどう呼ぼうが構わないが、可感的、実体、物体、質料などと言うような既存の名称との関りで物質が語られる限り、無理だろう。
哲学者たちが、この手の混乱した言葉づかいで議論することを止めてしまうのが、一番良いとは思うのだが。
ハイラス
あなたの革新的な説を認めますが、ずっと「物質」という言葉に馴染んできたので、その言葉を捨てるのに抵抗が生じるのです。
心の外に存在する未知の実体(物質)などない、ということを頭で理解することは出来ても、やはり「世の中に物質などない」という言葉は衝撃的です。
だから、「物質」という言葉は残しつつ、その定義を変えれば、人々の抵抗も緩和されると思ったのです。
フィロナス
僕は革新的ではないよ。
感官を素直に信じる一般人と、感官を信じない哲学者の間で分断されていた真理のピースを、統一しただけだよ。
ハイラス
私も感官を信じない者に属していましたが、今は事物をあるがままに見ることが出来ます。
あなたは、アカデメイアの人々やデカルト学派と同じような原理で話しはじめたので、懐疑主義に行きつくかと思いましたが、最後は正反対の結論を導き出しました。
フィロナス
向こうの噴水を御覧なさい。
水はある点まで上昇すると、引き返し、元いた点に戻る。
それと同様、懐疑主義へ進んでいくように見える原理も、ある点まで追及されると、人々を常識へと立ち返らせるのだよ。
おわり