親ガチャとは何か

人生/一般

※ここで述べる家庭環境とは、主にお金と教育を指しています。

親ガチャと子ガチャ

「親ガチャ」とは、生まれる家庭環境の良し悪しの運の要素を、ランダムで商品が出てくる「ガチャポン」や、ランダムでゲーム内のアイテムやキャラなどが獲得できる「ガチャ」に喩えて述べた俗語です。
反対に「子ガチャ」とは、親が生まれてくる子供を選べないという運の要素を指します。
ただ、子供の遺伝子は両親の影響であり、親自身の教育によって子を馴致することが可能であり、親は先天的にも後天的にも子に対する必然的責任を負っています。
また、そもそも論として子を作るか否かの選択権も親が有しているため、ガチャ(運)の要素の幅は極めて小さく、「子ガチャ」の喩えには無理があります。

大きなガチャ

環境的運の要素をガチャに喩えるなら、家族の上位にある国家も、その上にある生物学的種も、ガチャと言えます。
陥落しましたが未だ世界三位のGDPを誇る豊かな現代の日本に生まれた時点で国籍的にはガチャ成功ですし、生物的ピラミッドの特権者である人類として生まれたことにおいてもガチャ成功です。
この世に生命が誕生する確率が、10の四万乗(10の後にゼロが四万個付く)分の一と言われていますが、さらに人間として、さらに現代の日本に生まれる確率を考えると、もっと多くのゼロが付きます。
ちなみに一億円宝くじ当選確率が10の五乗から六乗分の一です。
人気お笑い芸人が「生きてるだけで丸もうけ」と述べるように、生きることを制度的に保証されたこの国に生まれた時点で、既に十分な幸運を回収しています。
[勿論、制度的保証の外にある場合は例外です。例えば、虐待死する子供は両親によって法制度の保護の外に置かれています。]

小さなガチャ

親ガチャ失敗を嘆く日本人は、大きなガチャ(上述)では成功して、小さなガチャ(日本のどの家庭に生まれるか)で失敗している状態です。
しかし、人間は隣接する小さな範囲との比較で幸福かどうかを判断する、かつ、上との比較のみで判断する、偏ったバイアスで物事を評価する生き物なので、事は深刻です。
クラスの皆がおかず十品目のお弁当の中で自分だけ二品目の寂しい弁当であれば、心理的には相当の不幸を感じます。
勿論、その二品目の弁当は、食うに食えなかった曾祖父や途上国の人にとっては、十分に幸福なものです。

人間は、自分に既に与えられた恩恵は当然のものとみなして無視し、与えられていない不遇のみにスポットを当てる「満たされない欲望」をモチベーション(動機)にする生き物なので、これはある程度必然です。
自分の満たされない利益関心のみに絞られた視野狭窄的なサーチライトで、限られた世界のみを見ているのが普通です。
「生きてるだけで丸もうけ」と、広い視点に立って達観できるには、かなりの人生経験が必要です。

親ガチャは運ではない

親ガチャに失敗したと思う人は、一度、反対の立場(親ガチャ成功者の両親)を想像してみて欲しいのです。
例えば、Aさんが、若い頃に貧乏で苦しんで、自分の子にはそんな思いをさせたくないという思いで頑張って勉強し、資産を形成し、それ(金と教育)を子供に残したとします。
Aさんの子供は「親ガチャ成功者」として羨ましがられます。
その資産形成の必死の努力を「ガチャ(運)」と呼ばれたら、そのAさん親子はどう思うでしょうか。

親ガチャ成功者(恵まれた子供)は、その両親や祖父母や曾祖父母が努力した結果として生じたかなりの「必然」であり、ただの「運」などではありません(家系図のどこかで誰かが奮起して努力しない限り、お金持ちの家は生じない)。
それを「運」と感じるのは、ただ「今だけ、自分だけ」しか考えない狭隘な視点で見るからです。
先代の資産形成の努力を運と呼び、撲滅し、平等にしたいなら、私有財産や相続や家族制度を否定する共産主義的社会を目指すしかありませんが、そうするともっと耐えがたい世界になるかもしれません。

時に社会がそれを運にする

ただ、努力による挽回が不可能になった時、この必然は運へと転落します。
いくら努力しても貧しさから脱することのできない社会では、貧富の差はただの生まれの「運」になるからです。
現代の日本で「親ガチャ」という言葉が流行るのは、この「挽回の難しさ」が増してきている閉塞感による面もあるでしょう。
上がる速度はより速く(富める者はより富み)、落ちる速度もより速く(貧者はより貧しく)なっているので、富裕層と貧困層が水と油の様に二極化(格差拡大)している状態です。
中間層がいなくなったことで、「当たり外れ」の二極的感覚が強くなり、かつ一度でも下降流に乗ってしまえばどんどん落ちていくので、「親ガチャ」という諦めの感覚が醸成されても不思議ではありません。

勿論、一番の問題は、日本人特有の主体性の無さ(=責任感の無さ)にあると思います。
他力本願的で、自分の力で下降気流から上昇気流へ乗り換えようとする気概がない、あるいは保守的で自身のパラダイム(思考枠組)を変えられるだけの勇気がない人が、「運」という外的要素にすがっているとも言えます。
多くの場合、「親ガチャ」という言葉を使う人は、客観的な挽回可能性よりも厳しく見積もっています。

何を為すべきか

社会が目指すべきは、この「挽回の難しさ」をある程度緩め、富の安定性と流動性の良いバランスを構築することでしょう。
しかし、それが実現し効力を持つのは遠い先のことであり、今の私の「親ガチャ失敗」の不幸は取り除いてくれません。

別の頁(才能とは何か)で詳しく述べましたが、生まれ持ったもの(才能や環境)のことを考えても、まったく何の意味もないということです。
意味が無いどころが、もともと限られた不利なリソース(お金や時間や健康などの資源)すら無駄に消費してしまうという、最悪の行為です。

勿論、他人の親ガチャ失敗に対して深く考えることは有益です。
不運な境遇のせいで、何の罪もない若者が不幸になっていくのを見て、そういう人を助けたり、社会を変えていこうとすることは有益です。
また、先のAさんのように、自分の親ガチャ失敗を糧にして、自分の子供(厳密に言うと他人)の親ガチャ成功の為に生きることも有益です。
しかし、自分自身の「親ガチャ」に関して考えるという無駄なことは、止めなければなりません。

最速のランナーは、後ろを見たり横を見たりしながら走ったりはしません。
横を見て他人の境遇と比較したり、後ろを見て親や祖父を恨みながら走っていては、スピードが出せません。
まして、周囲の人より遅れた不利な状態にあるのなら、なおさらです。

親ガチャ失敗だからと言って貧しい両親を責めても、私と同様に両親は祖父母の所為にするでしょうし、祖父母は曽祖父母の所為にするでしょう。
貧困の連鎖を断てるのは、それを自覚している自分自身のみです。
学費のために自分が必死でアルバイトしている時に、周りが合コンで楽しんでいれば、不幸に感じるかもしれません。
しかし、病院の窓から、働いて勉強できるそんな私のことを幸せだと思い、羨みながら見ている人もいます。
横目で他人をチラチラ見やりながら、私はアイツより不幸だの、アイツよりマシだなどという眼差しで居る限り、私自身は永遠にトップランナーに成ることは出来ません。

意味の無いことを考えても、意味がありません。
もし、「親ガチャ」という言葉に有益性があるとすれば、「それを考えている間だけは、走る努力をせずに済む」という、病的な利益のみです。
共感のない(あるいは持っていたとしても全力で潰される)今の日本において、泣いていても誰も助けてはくれません。
助けの手を差し伸べてくれるのは、多くの場合、人の不幸や悲しみを利用しようとする偽善者ばかりです。
それが現実なのであれば、せめて自分だけは常に自分の味方で居るべきでしょう。
「親ガチャ」という無駄な言葉が頭に浮かんだら、すぐにやっつけて、自分で自分を護ってあげるしかありません。

 

おわり