パースのプラグマティズム(1)

哲学/思想

プラグマティズムとは

プラグマティズムはアメリカを代表する哲学であり、チャールズ・サンダース・パースがその創始者です。
一般的な「プラグマティズム」という言葉は、アメリカ人特有の単なる実利重視の「実用主義」と考えられています。
しかし、パースのプラグマティズムは、それとはまったく異なる意味をもつものです。

元になっているのはカントの用語”praktisch”で、「実践的」という意味です。
人間の意志や行為や倫理を扱った『実践理性批判』の「実践」です。
“praktisch(プラクティッシュ-実践的)”は、”moralisch(モラリッシュ-道徳的)”と”pragmatisch(プラグマティッシュ-実用的)”の二つの意味をもつ両者を含む上位概念です。
パースはこの”pragmatisch(プラグマティッシュ-実用的)”なものを探究するという意味で、”pragmatism(プラグマティズム)”と名付けました。
カントの用語規定からして、”praktisch(プラクティッシュ-実践的)”は、”moralisch(モラリッシュ-道徳的)”の意味合いの方がかなり強く出るもので、経験科学の学問的地盤としての信用に欠くため、斥けられます。

以上のような理論にたいして、わたしはプラグマティズムpragmatismという名称を新しくつくりだした。あるわたしの友人は、プラクティシズム practicism あるいはプラクティカリズムpracticalism と名づけたほうがよかろうと言ってくれた。しかし、哲学に転じた実験科学者たちの大部分がそうであるように、わたしなどのようにカントから哲学にはいり、いまもなおカントの用語でものを考えがちな者にとっては、プラクティカルという英語にあたるドイツ語のプラクティッシュ praktisch とプラグマティックに当たるプラグマティッシュ pragmatisch とは、まるで両極端のように異なった意味をもつものと思われたのである。というのは、プラクティッシュということばは、実験家タイプの人にとって 、どうしてもしっかりした地盤の上に立っているという確信のもてないような思想の領域に属するのに たいして、プラグマティッシュということばは、あるはっきりした人間的な目的とかかわりをもつことを示しているからである。ところがわたしの新しい説のもっともいちじるしい特徴は、理性的な認識と理性的な目的とが分かれがたく結びついているということを強調する点にある。そしてまさしくこういった考慮が、わたしに、プラグマティズムという言葉を選ばせたのである。(○)

友人(ウイリアム・ジェームズのこと)の勧めに従うことは出来ない「プラグマティズム」という用語へのこだわりが述べられています。

プラグマティズムの格率

パースはプラグマティズムの格率を、以下のように定めます。

「ある対象の概念を明確にとらえようとするならば、その対象が、どんな効果を、しかも行動に関係があるかもしれないと考えられるような効果をおよぼすと考えられるか、ということをよく考察してみよ。そうすれば、こうした効果についての概念は、その対象についての概念と一致する。」(意訳、○)
「わたしたちの概念の対象が、行動にかかわりがあるかもしれないと考えることのできるどんな効果をもつとわたしたちが考えるか、ということをよく考えてみよ。そうすれば、こうした効果にかんするわたしたちの概念は、その対象にかんするわたしたちの概念と一致する。」(直訳、○)

これは、ある対象についての概念を明晰にするための方法、指針であり、対象が生じさせる効果からアプローチするものです。
ある対象の概念の意味とは、その対象によって引き起こされる感知可能な効果と考えられるもののすべてです。
例えば、「硬い」という概念は、引っ掻いても傷付かない、押しても変形しないなどの結果(効果や影響)のすべてであり、「重い」という概念は、下に落ちる、上に力を加えなければ上がらないなどの結果(効果や影響)のすべてです。
そしてこれら概念は、現実に引っ掻いたり落としたりするテストなしには成り立たない、行動と表裏一体のものです。
行動なしに概念はなく、行動によって働きかけてはじめて概念が生じます。
観察(感知可能)および実験(行動)を考える(予期)ことのできない概念は、無意味な概念として斥けられます。

疑念と信念

パースにとって探究とは、「疑念」という刺激によって生じた動因(欲求)を、「信念」に達することによって停止(満足)させる努力のことです。
信念を固めることが思考の唯一の機能です。
探究によって信念を獲得し思考が停止しても、今度は獲得された信念が行動のための規則になり、その新たな行動によって新たな疑念が生じ、疑念解消の為にまた思考が動き出すという、疑念から信念の限りない連結が生じます。
思考は信念の確立となり、信念の確立は習慣の形成となり、習慣の形成は行動の規則(可能性)となります。

信念を固めることが、行動の前段階としてあるということです。
ある概念が生じさせる行動や結果から、遡及的にその概念の意味を明晰にしようとする先のプラグマティズムの格率は、この探究を逆の側から述べたものです。

疑念が刺激となって、信念に到達しようとする努力が生ずる。この努力を、必ずしもぴったりした名称ではないが、「探究」と名づけよう。疑念という刺激は、信念に到達しようとする努力を生ずる唯一の直接的な動機である。信念が、本当に、欲求を充足させるように行動を導くようなものであるならば、わたしたちにとって最上であり、このように考えるかぎり、わたしたちはこうした結果を保証するように思えない信念をしりぞけるだろう。だが、そうすることは、信念をしりぞけたのちに新たな疑念を生みだすことを意味する。こうして、疑念とともに努力がはじまり、疑念がなくなるとともにその努力は終わる。したがって、信念しくは意見の確定こそ探究の唯一の目標にほかならない。あるいは、この考えは不十分であり、わたしたちはたんなる意見をもとめているのではなく、 真実な意見をもとめているのだ、と思う人があるかもしれない。しかし、それは実際に検討してみると根拠のないことがわかる。なぜなら、 わたしたちは強固な信念に到達しさえすれば、その信念が真であろうと偽であろうと、それですっかり満足してしまうからである。なお、わたしたちの知識の範囲外にあるものはわたしたちの目標とはなりえはい。精神に作用をおよぼさないものは精神的努力の動機とはなりえないから、せいぜい言いるのは、わたしたちは真であると考える信念をもとめる、ということである。しかし、わたしたちはどの信念も真だと考えているわけだから、「真と考える信念をもとめる」ということは、「信念をもとめる」ということのたんなる言いかえ(同義異語反復)にすぎない。(○)

たとえば、鉄道馬車のなかで、ポケットから財布をとりだしてなかをのぞいてみると、五セントのニッケル貨一枚と一セントの銅貨五枚があったとする。わたしは、財布に手を入れながら、「馬車の運賃を五セント一枚で支払おうか、それとも一セント五枚で支払おうか」という問いに決定を与える。…事柄を綿密に検討してみると、一セント五枚で支払おうか、それとも五セント一枚で支払おうか、という点にかんしてすこしでもためらいがあるとすれば(その件についてあらかじめつくられた習慣によって行動するのでないかぎり、きっとためらいが生じるはずだが)、刺激(興奮)というのはすこしきつすぎることばかもしれないが、やはり、そのためらいによって、わたしがいかに行動すべきかを決心する必要があるようなささやかな精神的活動をおこすように刺激される(興奮させられる)ということは、認められねばならない。(○)

些細なものであれ重要なものであれ、疑念は精神を活動へと駆り立て、イメージが次々と意識に浮かんでは消え、終にすべてのイメージが通り過ぎた時(一秒か一時間かあるいは一年か)、いかに行動すべきかという決心をした自分に気付きます。
すなわち、それが疑念から信念に到達した瞬間です。
活動状態にある思考(つまり疑念)の目的は、思考を休止状態(つまり信念)へともたらすことであり、それ(信念)に関わりのないものは、何であれ思考の本質的な要素にはなりえません。

疑念によって生じた興奮状態は、信念の確立によって休まり、その信念は新たな行動の規則として現実の状況を変え、また新たな疑念が生じるという、留まることのない連鎖を生じさせます。
思考とは、継続的に感覚を貫くメロディーの糸であり、信念とは、その思考活動というシンフォニーの中にある半終止(ひと段落)なのです。
そして、信念は、同一の規則によって同一の疑念を抑えられる時、「習慣」となります。
思考の機能が信念を確立することであるとは、思考の機能は行為の習慣を作り出すことであると、言い換えることができます。
思考における意味の区分は、常に知覚可能な現実的結果、効果としてあらわれるということ(信念と行動の相即不離の結び付き)であり、この関係を簡潔に述べたものが、先の「プラグマティズムの格率」です。

探究の方法

信念を固める方法には、四つのタイプがあります。
この四つは、1.自己中心性⇒2.社会中心性⇒3.思弁的普遍性⇒4.経験的普遍性と、段階的に開かれたものとして進んでいきます。

1.固執の方法…自分の主観的な願望を基準にした上で取捨選択し、反復的に心の中で信念として固定する方法。これは、他人の信念と出会う機会に自身の信念が揺らぎ、疑念が生じることで崩れます。

2.権威の方法…社会集団における権威を基準にし、集団的に固定される信念です。社会的権力の統制によって管理される強制的な信念で、時に残酷なものとなります。これは、他の社会集団の信念を知る機会に自集団の信念が揺らぎ、疑念が生じることで崩れます。

3.先天的方法…人類共通の普遍的な理性を基準とし、思弁的に信念を固定する方法です(例、デカルト哲学)。この普遍性は、結局確固とした意見の一致に到達できず、常に時代と共に揺れ動く流行や趣味のようなものであることが露呈することによって疑念が生じ崩れます。

4.科学の方法…客観的事実を基準にし、経験的に信念を固定する方法で、以下のようなものです。

実在の事物があり、その性質はわたしたちの意見にまったく依存しない。その実在物は、規則正しい法則にしたがってわたしたちの感覚器官に作用をおよぼす。その結果生じる感覚は、わたしたちと対象との関係に応じて異なるが、わたしたちは、知覚の法則を用いて、事物の本当の姿はどうであるかということを推論によって確かめることができる。そして、だれでも、その事物について十分な経験をもち、またそれについて十分に考えを練るならば、ひとつの真なる結論に到達するだろう。(○)

「科学的方法」の見地から、右にあげたデカルト哲学の四つの特質のそれぞれに対して次のような批判を加えた。(一)哲学をはじめるには、それまで身につけてきたたくさんの先入見(常識のかたまり)を足がかりにしない訳にはゆかない。すべてをうたがうということは、事実上は不可能だ。私たちは、哲学をはじめるにあたって、むしろ心からうたがってもいないことをうたがっているようなふりをしないようにすべきだ。(二)個人を真理の究極の審判官にするというのは大へん危険なことだ。「私たちは個人としては私たちのもとめる究極の哲学を手にいれることをまともに望むことはできない。私たちは、それを、哲学者たちのコミュニティーにたいしてのみ、もとめることができる」つまり審判官は一人でなく、「訓練された、公正な」多くの人々からなるコミュニティーでなければならない。(三)哲学は科学にならって、いくつかの明白な前提から多くの推論を併行して用いながら理論をたてるべきだ。一本の推論にたよる理論はくさりのように全体の強さが一番よわいくさりの輪によって決定されるのに対して、何本もの推論にたよる理論は針金をよりあわせてつくったケーブルのように全体の強さは一本一本の針金の何倍もの力を示す。(四)あるものが説明できない、ということは、記号による推論のみによって知ることができるが、記号による推論の存在理由は、その推論の結論が事実を説明する点にある。ところで絶対的に説明できない事実を想定することは、事実を説明することではないから、この想定はみとめられない。パースは、こうした主張を中心として、 「批判的常識主義 (critical commonsensism)」、真理の社会性に関する理論、推論に関する理論、記号論、等を展開した。(☆)

 

(2)へつづく