バザンの『存在論と言語(映画とは何か)』

芸術/メディア

はじめに

本頁は、アンドレ・バザンの主著である『映画とは何か-全四巻-』のうち、映画理論を集めた第一巻『存在論と言語』を簡潔にまとめたものです。
最も重要な三つの論文「写真映像の存在論」「映画言語の進化」「禁じられたモンタージュ」を扱います。

第一章、写真映像の存在論

造形芸術誕生の要因の一つとして、肉体の物理的永続性を求める心理的欲求があります。
死体の防腐処理により、死という時間からの征服に抗おうとした古代エジプトの「ミイラ」 が、その起源です。
芸術と文明が進歩すると、永続性は防腐処理から絵画による模倣へと変化し、王は宮廷画家に肖像画を描かせ、満足しました。
人々は、モデルと肖像画の間の存在論的な同一性を信じる訳でないにしろ、肖像画を介した想起によって第二の死(精神的な死)を免れることができます。
現実に似ていながら異なる時間性を備え自立した理想的宇宙の創造へと向かいます。
造形芸術の歴史は、本質的には類似性の歴史、リアリズム(心理学的)の歴史であるのです。

西欧の画家は十五世紀に入ると、外的世界の完全な模倣を志向し、透視画法による三次元空間の錯覚によって、直接的な知覚の複製を作り上げます。
心理的願望(ミイラ・コンプレックス)を満足させる錯覚への欲求は、徐々に造形芸術全体を呑み込んでいきますが、やがて「運動」の問題に突き当たります。
その解決のために生じたものが、瞬間(不動)において運動的、劇的、生命的表現を可能にしたバロック芸術です(透視画的三次元性に運動の契機を加えた心理的な四次元性の表現)。

精神的現実を表現するという造形芸術の根源的な美学的志向は、錯覚に対する心理的欲求に圧倒され、造形芸術のバランスは崩壊します。
写実的でありながら同時に精神的である統一的な中世の芸術は、透視画法という原罪によって、引き裂かれます。
世界の本質的な意味を表現したいという美学的な(真の)リアリズムと、形態の錯覚によって騙し絵的に作られる心理学的な(疑似)リアリズムの、相克と混乱です。

ニエプス(写真製版の発明)とリュミエール(映画機器の発明)は、造形芸術をその原罪から救い、バロック芸術を成仏させ、造形芸術を類似性の執念(コンプレックス)から解放しました。
写真は媒介する人間(画家の主観)を完全に排除することによって、リアリズムへの執念を決定的かつ本質的に満足させたのです。
画家を介した色彩の正確な本物のような精巧な絵画より、機械的再現によるモノクロの粗くぼやけた図像の写真の方が、類似性への欲求を満たすのです。
解決は結果ではなく、過程の中にあったのです。

「映画とは、ルネッサンスと共にその原理があらわれ、バロック美術において極限的表現に達した造形的リアリズムの、最も進歩したものに他ならない」アンドレ・マルロー

類似性のコンプレックスから解放され、自由な表現を獲得した現代の画家は、そのコンプレックスを大衆に引き渡し、以後、大衆は類似性へのこだわりを、写真と、写実に専念する類の絵画に結び付けることになります。

写真の本質はその客観性にあります。
外部世界のイメージが、人間の創造的干渉なしに自動的に形成されるという、初めての事態が生じます。
それは、人間という媒介が不在の直接的な自然現象と同じように私たちに働きかけ、絵画にはない強力な信憑性を与えます。
写真は現実の事物からその実在性を無条件に譲渡されるという恩恵に授かり、方や現実に忠実な絵画は、事物の情報を無数に人間に提供しても、信頼性を勝ち得ることはありません。
写実絵画は、類似に関して劣った代用的技術でしかなくなり、無意識の底の類似への欲求をより完全に解放するのは、写真という死の運命から自由になった存在です。
造形芸術の魔術的な力によって、永遠を作り出すのではなく、無感動の器械の力によって、時間に防腐処理を施し、時間そのもの(モデルの存在する)を時間の流れから守るということです。

映画は、写真の客観性を時間においても完成させたものであり、バロック芸術をその硬直から解放します。
事物のイメージは持続のイメージとなり、変化そのもをミイラ(ミイラ化した変化)にします。
写真の美学的特質は、事物から慣習や先入観、人間の知覚が生じさせる精神的なものを洗い流し、私たちの前に無垢な姿で渡してくれるということです。
私たちの知らなかった、見ることのできなかった、世界の自然のままのイメージを与えてくれるのです。

この写真の創造力において、自然は芸術家を凌駕します。
画家の美的宇宙は、額縁の外側の世界とは実体的にも本質的にも異質の、内側に生じる小宇宙です。
それに対し、写真内の事物の存在は、写真外の存在(事物そのもの)と同じ性質を帯びています。
写真は、絵画のように自然の創造物を別の創造物で代用するのではなく、自然の創造物の中に加わりその一部となります。

シュルレアリズムはそれを直感的に理解していたため、写真(や細密描写)を活用したのです。
想像的なものと現実的なものの論理的な区別をなくし、すべてのイメージは事物として、すべての事物はイメージとして感じさせるために、写真は特権的な技術になります。
写真は、自然と同じ性質を持つイメージ、いわば「本物の幻」を実現するものだからです。

写真の出現は、西洋絵画の写実への執念を払拭し、その美学的自律性を回復させました。
印象派のリアリズムは、もはや騙し絵的模倣でも遠近法的錯覚でもありません。
写真がバロック的類似性を乗り越え、モデルとの同一性を完遂した時、絵画は自らが事物の位置に身を置かざるをえなくなったのです。
写真のおかげで、私たちは今まで愛することのなかった自然のままの事物に感嘆することができ、絵画においては、自然への依存を存在価値とすることのない、自律した一個の純粋な事物として、鑑賞することが可能になったのです。

第二章、映画言語の進化

【先に用語解説】
「デクパージュ」「モンタージュ」共に映画フィルムを切って貼る(カッティング、編集)作業です。「デクパージュ」の語源は「切り抜く」で、無駄なものを切り落とす意味が強く、「モンタージュ」の語源は「組み立て」で、異なる部分の組み合わせで構築する意味が強いものです。元の素材の意味を壊さない自然な切り貼り(編集)が「デクパージュ」、元の素材の意味とは異なる意味を再構築的に創出する目立つ切り貼り(編集)が「モンタージュ」です。例えば、「悲しむ顔」のショット後に「机に落ちる涙のしずく」をつなぐのが「デクパージュ」、「悲しむ顔」のショット後に「割れたガラス」につなぐのが「モンタージュ」です。前者は「泣いた」という元の事実をただ効率的に示す作業で、後者は「心の崩壊」という新たな意味付けを示す作業です。乱暴に整理すると「デクパージュ」の特殊仕様が「モンタージュ」、「モンタージュ」の基本仕様が「デクパージュ」です。勿論、一般的にはバザンのようにこれらの語を明確に分けて使っている人はいません。
【解説おわり】

1920年から1940年までの映画(サイレントからトーキーへの移行期)には、「映像」を信じる監督と、「現実」を信じる監督という、二つの対立する傾向があります。
ここで言う「映像」の表現は、映像の造形性に関わるもの(舞台美術、照明、メーキャップ、演技スタイル等)と、映像の構成に関わるもの(様々なモンタージュ)、に分けられます。
古典的、慣習的なモンタージュ(デクパージュ)は、出来事を場面の物理性やドラマの筋に従う論理的な分割と総合をなすため、観客の精神に自然に受容され、「目に見えない」ものとなります(物理的あるいは関心の因果的整合性でつながれ、継ぎ目が見につかなくなっている状態)。
この中立的な目に見えないモンタージュ(デクパージュ)と異なる可能性を持つもの(いわば目に見えるモンタージュ)は、映像と映像の関係を操作することによって、元の映像が客観的には含んでいない意味を創造するという特質を持っています。

グリフィスの平行モンタージュは、異なる場所の映像を交互に並べることにより、同時進行描写を可能にします。
ガンスの加速モンタージュは、車輪の回転の速度を上げることなく、カットの長さを徐々に縮めることによって、映像上での加速の錯覚を生じさせるものです。
エイゼンシュテインのアトラクションのモンタージュは、異なる出来事の映像の衝突により、意味を創出するものです。
クレショフのモンタージュ実験(ある映像は隣接の映像いかんによって、その意味が変化する)は、モンタージュの特質を要約的に述べるものです。

これらは、単に出来事という要素の客観的内容を示すものではなく、その要素の配列そのものの内に意味を暗示するものです。
例えば、「若い娘」+「花咲くリンゴの木」=「希望」というように、要素が最初に含んでいない或る観念を創出することです。
要素となる生の映像と最終目的となる物語の観念の間には美学的な変圧器が介在し、意味は映像の中ではなく、モンタージュを介した観客の意識の中に投影されれ生じるものとなります。

映像の造形性とモンタージュ(先の映像を信じる監督)が、映画芸術の本質であるとしたら、サイレント映画は完全な芸術であることになり、音は伴奏や補足程度の従属的なものでしかありえません。

しかし、サイレント隆盛の時代においても、映像の表現主義(映像の造形性に関わるもの)と、モンタージュの統辞論(映像の構成に関わるもの)に対立するような映画が存在しています(ムルナウ、シュトロハイム等)。
これらの映画にとっては、サイレントは完全ではなく、現実から一つの重要な要素(音)を差し引いた欠陥品でしかありません。
シュトロハイムの『グリード』も、ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』も、潜在的にはトーキー映画なのです。
サウンドによって完全を失う映画と、より完全に近付く映画の対立の根には、映画言語の歴史を貫く本質的な問題があります。

1938年頃には、現実をよりよく見せる、効率的に示す方法であるデクパージュが中心となり、典型的なモンタージュ(エイゼンシュテイン的)は違和感のある浮いたものとして受け取られるようになります。
可塑性に富む「視覚のみの映像(サイレント)」が、造形的表現主義および映像間の象徴的関係(モンタージュ)を示すことを容易にしていたわけですが、加工の難しい「音を伴う映像(トーキー)」が、その潜在的可能性(可塑性)を狭めたため、次第に排除されていったということです。
デクパージュは、モンタージュの比喩や象徴を排除し、客観的再現の錯覚に注力したもの(つまり単なる象徴的抽象的でない編集という意味での具体)にすぎず、本質的なリアリズムの獲得ではありません。

そして、この種の無難なデクパージュに挑戦状を叩きつけたのが、オーソン・ウェルズ、ウィリアム・ワイラーの「空間的深さのデクパージュ」です。
『市民ケーン(オーソン・ウェルズ監督、1941年)』に見られるように、画面の奥行き方向への空間的深さを利用し、ワンシーンワンショットの内に、かつてモンタージュによって生じていた劇的効果を実現します。
【ミニ解説】
この「空間的深さ」は、単にディープフォーカスや被写界深度という技術的問題を指すのではなく、奥行きを利用した演出を指しています。ちなみに被写界深度というのは鮮明に対象が映る範囲(ピントの奥行き幅)です。被写界深度浅い(視点⇒××××○××××⇒奥)、被写界深度深い(視点⇒××○○○○○××⇒奥)。
下の画像は『市民ケーン』の妻の自殺未遂の場面です。見えるのは手前のベッドテーブル上の薬の瓶と奥の扉だけで、交互に聞こえる「苦しむ呼吸音」と「激しくたたくドアの音」に伴い、鑑賞者の関心も手前と奥に揺れ動きます。平行モンタージュで「部屋の外で戸を開けようとする主人公」と「ベッドの上で苦しむ妻」を交互に映すという慣習的な演出に比べ、この空間的深さを利用したワンシーンワンショット演出は、それ以上の劇的効果を生じさせています。

【解説おわり】

モンタージュの継起的な展開によって細分化されていた事物を、奥行き方向の構図の探求によって連続的な空間と時間の内に配置し、計算された俳優の動きとカメラワークによって、観客がその意味を見逃すことができないよう組織化されています。
モンタージュの放棄は、それが映画言語にもたらした革新を否定すること、即ち初期の幼稚な表現に戻ることではなく、モンタージュを弁証法的に取り込み発展させる、演出の進歩の過程にすぎません。

これは形式上の進歩にとどまらず、観客の映像に対する知的関係にも影響し、映画のスペクタクルの意味そのものを変容します。
1、映像と観客の関係が、現実と観客の間の関係に近付く。映像内容ではなく関係構造としてリアルになる。
2、演出に対する観客の積極的な態度、関与をもたらす。モンタージュによる監督の視点との受動的同化ではなく、最低限の主体的選択が観客に要求される。
3、映像(イメージ)の構造の中に「曖昧さ」を導入する(必然としてではなく可能性として)。

モンタージュの特質は出来事が持つ意味の単一性ですが、その前提となっているものは、現実の曖昧さです。
クレショフ実験の男性(モジューヒン)の顔が、三つの意味を持ち得るのは、まさにその顔の曖昧さゆえです。
現実の曖昧さがもつ意味を取り戻そうとしたロッセリーニ監督の『ドイツ零年(1948)』の主人公は、クレショフとは正反対に、その表情の不可解さを保つことが目指されています。

この革新によって、デクパージュが抽象的かつ知的に置き換え秘匿していた、物事の現実通りの時間と持続が再発見され、物語のリアリズムの再生がなされます。
ここにおいてモンタージュという遺産は、完全に排除されるのではなく、相対的な意味が与えられます。
モンタージュを、全体を編むものではなく「一つの技法」として、つまり、映像のリアリズムとの関係における物事の特別な様態(抽象的様態)の表現として、新たな意味を獲得します。
使用されなくなったモンタージュの手法も、再生するのです。
セシル・B・デミルの『チート(1915)』のクローズアップと、ヒッチコックのクローズアップは、本質的に異なります。

サイレント時代のモンタージュは監督が語りたいものを鑑賞者の中で想起させ、1938年のデクパージュは描写し、今日の監督は映画の中に直接書きます。
映画監督は、もはや画家や劇作家と競争する存在ではなく、小説家と対等の存在となったのです。

第三章、禁じられたモンタージュ

本章の目的は、ジャン・トゥーラン監督の『特異な妖精』1956年制作と、アルベール・ラモリス監督『赤い風船』1956年制作の比較を通して、モンタージュ(前章と異なり広義のモンタージュ-編集-のこと)のいくつかの法則を分析することです。
【ミニ解説】
トゥーラン(1919-1986)は、フランスの動物写真家、動物画家、映画監督です。動物を人間代わりに使った魔法冒険映画が『特異な妖精』です。『英題:The Secret of Magic Island』あるいは『仏題:Une Fee Pas Comme Les Autres』でYouTube検索すれば観ることができます。調教なしの自然な動物を使っているので、キョトンとした何かやらされてる感が味わい深いです(下画像は脱出ポッドみたいな車で帰還するネコチャン)。

ラモリス(1922-1970)は、同じくフランスの映画監督で、少年と白馬の交流を描いた『白い馬』、児童と風船の友情を描いた『赤い風船』が有名です。ともに非常に芸術性の高い作品で、一般的な少年少女向けのファンタジー映画とは異なります。

【解説おわり】

『特異な妖精』は、クレショフ実験(男性の顔の表情の解釈が前後の映像に伴い変化する)の驚異的な図解集となっています。
トゥーランの狙いは、本物の動物でディズニーアニメを作ることです。
その際、利用される動物が調教されていない(単なる飼育)という点が重要です。
実際には動物たちは何もせず、美術や衣装やナレーションの飾りの中でぼんやりしているだけで、人間的な意味は全てモンタージュによる錯覚効果によって生み出されています。
複雑な物語も、登場人物(動物)の多様な性格も、アクションもその意味も、映画編集以前には決して何も存在しておらず、巧みなモンタージュの組み立てによって後から生成してきます。
もし、調教によって実際に演技の出来る動物を使えば、作品の意味が根本から変化してしまいます。
鑑賞者の関心が、想像上の物語のフィクションの喜びから、サーカスの演目のような現実的な動物の芸に対する驚嘆に変わります。
この映画に必須の非現実性は、モンタージュの意味の抽象化作用によって確保されているのです。

それに対し、『赤い風船』は、モンタージュに何も負わず、負ってはいけない作品です。
物体を動物化すること(風船は飼い犬のようなアクションをする)は、人間を動物化すること以上に空想的です。
風船の動物的な動きは、手品のような仕掛けで、編集なしにカメラの前で現実に行われています。
モンタージュの錯覚によって作られた魔法の風船は、スクリーン上にしか存在しませんが、ラモリスの魔法の風船は、現実へと送り返します。
ラモリスの意図は「空想上のドキュメンタリー」、いわば「空想の現実」を作ることなのです。

勿論、ラモリスは本質的にはモンタージュに何も負っていないということであり、非本質的なモンタージュは普通に利用されます。
モンタージュには、以下のような原理が存在するように思われます。
「出来事の本質が、アクションの二つあるいはそれ以上の要素の同時的共存を必要とする時、モンタージュは禁じられる」
アクション(行為)の意味が物理的近接性(共存)に依拠しない時、モンタージュはその権利を取り戻します。
無理にワンシーンワンショットの長回しの時代に戻り、発見された豊かな表現手段を放棄するのは馬鹿げています。
例えば、ヒッチコックの『ロープ』(1948)は、全編ワンシーンの長回しで撮られていますが、古典的なカット割りで撮っていたとしても、その意味は大して変わりません。
しかし、イヌイットのドキュメンタリー『極北のナヌーク』(1922)の有名なアザラシ狩りのシーンの場合、ワンショットで示さなければ、その本質が失われてしまいます(その他の場面はモンタージュを利用しても問題はありません)。

この原理が適用される特定のテーマの種類や状況を定義付けるのは困難ですのでいくつかの手がかりを提示するにとどめます。
出来事が実際にカメラの前で起こらなければ興味を失ってしまうもの。
例えば、ドキュメンタリーやニュース映画や手品の記録などで、本質的に現実の出来事の表現が必要とされる場面においてです。
想像世界の中に統合された現実的要素によって価値を発揮するようなフィクション。
例えば、ラモリスの作品のような神話(空想上のドキュメンタリー)。
人間や物などの空間的関係に基礎を置く表現。
例えば、空間の中での人と事物の関係の滑稽さを描く、チャップリンやキートンのようなドタバタ喜劇。

ラモリスの『白い馬』において、馬に近付いたこともない少年にわざわざ乗馬を教え、重要なシーンは危険を覚悟で現実に行われることで、否定しがたい神話の土台を形成しています。
即ち、上で述べた、「想像世界の中に統合された現実的要素」です。
しかし、複数用意された白馬によって一頭の馬を作り上げたり、透明の糸で引っ張り馬の動作を操作したりするようなトリックもなしに、すべて現実で行われたものを撮影しただけなら、単なる白馬の調教芸のドキュメンタリーになってしまいます。
この物語(神話)において重要なことは、出来事の虚構性を知りながら、出来事を実在性を信じうることです。
トリックによって想像を現実に接続しつつ、想像的なものにスクリーン上における現実の空間的密度を持たせ(禁じられたモンタージュ)、かつその虚構性を鑑賞者が半ば意識している状態です。

【ミニ解説】
最後にこの章を乱暴に整理してみます。

<表現と制約の問題>
表現には二種類あります。
A.本質的な要請に伴い為される表現。
B.付帯的なスタイル(飾り)として為される表現。
モンタージュ表現も長回し表現も、B.として使用する限りにおいては自由に使えばよいのですが、A.の場合は使用に拘束が生じます。
例えば、手品のショーを撮影する場合、本質的な要請として長回し表現が必要とされるので、モンタージュは使えません。
反対に、概説的な映像では、本質的な要請としてモンタージュ(編集)が必要とされるので、長回しは使えません。
その表現の持つ意味を考えず、単なるスタイルで消費している作家が多いので、表現される作品も、表現そのものも、駄目になってしまっているということです。

<現実と虚構の問題>
映画における現実には二種類あり、さらにそれぞれの虚構を含め、四つになります。
世界(物語や事件)の内容としての現実(W+)と、世界の内容としての虚構(W-)。
映画の形式としての現実(M+)と、映画の形式としての虚構(M-)。
内容としての現実を形式としての現実で撮るのが、ドキュメンタリー(W+M+)。
内容としての虚構を形式としての虚構で撮るのが、トゥーランの『特異な妖精』(W-M-)。
内容としての虚構を形式としての現実で撮るのが、ラモリスの『赤い風船/白い馬』(W-M+)。
内容としての現実を形式としての虚構で撮るのが、失敗したドキュメンタリーや初期の稚拙なニュース映画(W+M-)。

勿論、内容としての現実の「現実性(W+)」と「虚構性(W-)」の区別は程度の問題です。
また、それには、全体の内のどれだけの数の部分が正しい事実かをパーセンテージで判断する量的なものと、部分の事実がどれだけ論理的な整合性によって繋がれ全体として構成されているかで判断する質的なものがあります。
前者が虚構で後者が現実である場合が、ファンタジー。
前者が現実で後者が虚構である場合が、ナンセンスです。
例えば、物語のパーツは虚構で構成は現実的な映画の『指輪物語』はファンタジー、物語のパーツと構成共にかなり虚構なナンセンスファンタジーがディズニーの『不思議の国のアリス』、パーツは現実で構成が虚構の作品はレジェの『バレエメカニック』です。

トゥーランの『特異な妖精』は、内容もほぼ虚構(ファンタジーとして)、形式もほぼ虚構で構成されているので、非常に分かりやすいです。
これに対する分かりやすいものは、内容がほぼ虚構、形式がほぼ現実に当たるもの、偽のドキュメンタリー(虚構の現実、いわゆるモキュメンタリー)です。
ややこしいのは、ラモリスの映画は、内容が半虚構(半ばファンタジー且つ半ばナンセンス)で作られている点です。
『白い馬』の部分的内容の半数は、実際のカマルグ(フランス南部の湿原地帯)の野生の馬や飼育者や漁師の生活を撮った半現実であり、物語の構成も半分は夢やシュールレアリズムのような論理的不整合性で彩られています。
それが、この映画特有の不思議な世界観、単なる虚構の現実ではなく、現実のような虚構(虚構だと分かるが現実世界に思えてしまう)という神話を生じさせているということです。

【解説おわり】