画材の本質
「あるメディア(メディウム)の本質は、そのメディア(メディウム)の限界に一致する」というのが、絵画の特質を深く考察したグリーンバーグの説です。
よく仏教の坊さんが言うように、「短所と長所は同じものを別の面から見たもの」という感じです。
例えば、 傷付きやすい(短所)⇔ 感受性が高い(長所)。
或る物(者)の「何ができないか(限界)」ということは、「何ができるか」を裏側から規定し、その「できること」に特化したもの(特技)が、その或るものの特徴となります。
魚の本質的特徴は「上手く泳ぐ」ですが、裏を返して言えば「歩けない」「飛べない」という限界からして泳ぎに特化した生物です。
画材で例えるなら、私たちが小学生の時に与えられた「透明水彩絵具」の本質的特徴は、その限界から導き出されます。
・薄塗しかできない(限界)→水で溶かれた薄い絵具の膜の塗り重ねによって生じる透明性と多層的色彩、および透ける水彩紙のテクスチャ(特徴)。
・流動的で不安定(限界)→水で溶かれた曖昧で有機的な輪郭と、にじんでゆく柔らかい筆跡(特徴)。
・描き直しが効かない(限界)→無駄のない潔い線と塗り(特徴)
いわさきちひろ
CG絵の本質
これと同様、CGの本質的特徴も、その限界に一致していますが、問題はCGが進化するということです。
すなわち、時代によってCGの限界の境界線が拡張され、それに伴い本質的特徴も変化するということです。
1980年頃の能力の低かったコンピューターで作られた場合、ワイヤーフレームの様な画像が、最もCGらしさ(本質的特徴)を実現したものになります。
CGが一番CGらしかった時代です。
ATARI,Battlezone (1980)
コンピューターが中程度の能力になると、ぬめっとした質感の蝋人形の様な画像が、最もCGらしさ(本質的特徴)を実現したものになります。
SQUARE ENIX , FINAL FANTASY VIII(1999)
現在のCGは進化しすぎて実写と見分けがつかなくなり、あらゆる画材の特徴を精巧に再現できるようになり、限界が見えなくなっている状態です。
限界があれば本質的特徴が特定できるのですが、ほぼ限界が無くなっているCGは、本質的特徴をもたない変幻自在のゴーストのようなメディア(メディウム)になってしまっています。
水彩風CGアニメ『やさいのようせい N.Y.SALAD』(2007)
芸術形式と時間
問題となるのは、テクノロジーの進化のスピードです。
例えば、映画では、モノクロ、サウンド、カラー、3Dという技術的進化は、それなりの時間を要したため、それぞれの映画形式が、それぞれの形式独自の芸術表現をある程度開化させることができました。
しかし、この進化がもっと早かったとしたら、それぞれの映画形式は未熟なままひとつの芸術形式となる前に捨てられ、次々と上描きされていくことになります。
CGの場合、この進化のスピードが速すぎ、各進化段階が独自の芸術的表現を獲得する前に次の段階に進んでいってしまったため、結局CGはただ時間と労力を削減するための機械に堕ちています。
つまり、CGは表現として優れたメディアだからではなく、ただ便利だから使っているにすぎない訳です。
勿論、技術とはそういうものなのですが、技術の進化が早いと、人間の創意工夫をする時間的な余地が無くなるということです。
多くの人は表現と技術の違いを考えず、かつ表現の内容への関心よりも新しい技術に対しての外的好奇心の方が大きいので、必然的に人は技術のスピードと同化し、ついていってしまいます。
脂ののったサイレントの名作映画よりも、色と音の付いただけの駄作映画に足を運び、旧ゲーム機の名作ソフトよりも、新発売のゲーム機の絵が綺麗なだけのクソゲーに惹かれ買いに走ります。
表現媒体に進化はない
技術としての媒体に進化はあっても、表現としての媒体に進化などありません。
ピコピコ音のドット絵のファミコンゲームが、ほぼ完全な現実の音や映像をなめらかに再現したプレステ5のゲームに表現として劣るということは全くありません。
短所が長所を生むと最初に述べましたが、それは裏を返せば、短所を失うということは長所をも失うということです。
技術が完全になり、媒体がすべての短所を克服すれば、それは何の長所も持たないものとして透明になります。
表現媒体の短所とは、表現するもの(メディウム)と表現されるもの(対象~主に現実)の間にある断絶です。
この断絶(短所)が、創意工夫、つまり芸術表現を可能にする条件なのだということを、作り手も観客も見えていません。
例えば、シルエットのみで対象を表現せねばならないという、非常に拘束されたメディウムを使う影絵アニメ作家は、シルエットランゲージとも言えるような極端に様式化された独特の形態と動きによって人物を表現し、それが強い作家性と芸術性を生じさせています。
Lotte Reiniger “Thumbelina” (1954)
短所のないメディア(表現するもの)は、創造性をすべて現実(表現されるもの)に丸投げするほかありません。
喩えるなら、自分の絵画表現の腕を磨くことを止め、モデルに美容整形手術を施すことが唯一の仕事になった画家のようなものです。
なにものでもないCG
ほとんど完全な現実の模倣を達成しつつあるCGは、自由に想像上の仮想現実を作れるようになっています。
勿論、それはプレイヤーが自由に動き回り視点を変えられる3Dの仮想現実では、なくてはならない技術です。
しかし、視点が固定した映画やイラストなどの表現において、CGの独自性とはいったい何なのか、ということになります。
ディズニーやピクサーのCGアニメは精度の高いクレイアニメ(粘土アニメ)と変わらず、それは先の『やさいの妖精』が水彩風CGであったように、粘土風CGでしかありません。
CG映画は、ワイヤーフレーム、荒いドット絵、面取りポリゴン、セルルック、実写風、水彩風、影絵風、クレイアニメ風など、いかなる表現形式であろうが、CG映画であるということです。
何色をも模倣する「鏡」は、何色でもあり何色でもないのと同じです。
便利の裏側にある未来の喪失
CGというものは、必要に応じて何にでも変身できる魔人のような力を持ちます。
非常に便利なので、作家たちはセルを捨て、絵具を捨て、彫刻刀を捨て、影絵鋏を捨て、エアブラシを捨て、皆がコンピューターを買い、「~風」の作品を作り始めます。
オリジナルよりも扱える情報量も精度も高まり、確かに作品として向上した様に見えます。
ガラスに塗った油絵を撮った「油絵アニメーション」と、制約のないCGで作った「油絵風アニメ」を比較すれば、前者の利点は、ノスタルジックな骨董品のような魅力と、すべて手描きであることの努力への敬意くらいしかなくなります。
ただ、ここで問題となるのは未来、その便利なCGの制約の無さによって失われるものです。
先にも述べたように、制約がないということは、新たな創意工夫への動機を失うことになり、未来の可能性は閉ざされます。
コピー(~風)は過去のオリジナルの精度の高い反復にしかなりえず、可能性としては閉じた箱庭世界を豪華に飾るだけです。
期待できるものは、複数のメディウムのいいとこ取りのキメラのような表現を生じさせる可能性のみです。
例えば、日本のアニメの独自性は、リミテッドアニメ(描画枚数の省略)や止め絵を主とした、ディフォルメ的に動きを”感じさせる”アニメーションだと言われます。
それは、セルアニメの物理的制約(短所)から生じたものです。
もし、40年代の日本に、完全なセルルックCGアニメの技術があり、誰でも簡単にディズニーのようなフルアニメーション(完全な描画枚数)を作れていたとしたら、そもそもそういう発想や創意工夫が生じなかった、あるいは仮に生じたとしても洗練されたひとつの表現形式には育たなかったのではないか、ということです。
おわりに
“The flower that blooms in adversity is the rarest and most beautiful of all.(逆境に咲く花は、稀有で最も美しい)”
ウォルト・ディズニーの名言ですが、CGの利便性と引き換えに、私たちはこの世界で一番美しい花を失おうとしているようです。
おわり
おまけネタ:CGに実現不可能なもの
画家は、「CGはマチエール(画肌)は実現できない」と言うかもしれませんが、3Dのバーチャル空間では可能になりますし、3Dプリンターの可能性は未知数です。
半透明で虹色に輝く蝶の美しい羽根の物質感に感動した子供の頃の感動が、マチエールの本質としてありますが、たぶん近いうちにそういう現実以上のエフェクトを加えた特殊な物質感が、3D空間内において実現可能になるでしょう。
残るものは、「個性」と、「コンセプト(アイデア)」のみです。
しかし、それもAIが人間の頭脳に代わって作ってくれる日が、近いうちに来ます。
データの可能性の内に無いよほど特異(天才的)なものは別ですが、出たとしてもすぐに取り込まれ陳腐化するでしょう。
コンセプトのみのアート、Yoko Ono『Grapefruit』
しかし、CGは「作品」を作ることは出来ても、その「過程そのもの」を作り出すことは出来ません。
画家はカンバスから出て、パフォーマンスに走るしかない(例えば60年代の具体美術協会のように)、という事ではありません。
CGは「絵を描く楽しさ、喜び」を作り出すことは出来ない、ということです。
ナガノ『ちいかわ 』
機械による人間の技術の侵略(短所)は、同時に技術の鎖から人間を解放すること(長所)を意味します。
写真技術の普及が、画家を写実の頸木から解放し、純粋な表現の自由(ゴッホやピカソみたいな絵)を獲得させたと言われるように、CGの進化も画家の自由の福音であるのです。
一体、CGやAIは何から人間を解放するのでしょうか。
それは、職業としての、権威としての、いわば大人の事情で絵を描くことからの解放です。
CG技術の発展によって、害を被るのは、どういう絵描きかを考えてみればわかります。
それは、絵をお金にする人、あるいは絵の技術を自己の権威付け(存在証明)にしているような人たちです。
子供の頃は皆、純粋に楽しくて絵を描きます。
しかし、大人になるにつれ、絵は通知表や美大受験や賞レースを通じて自分の社会的ランクを上げるための道具、あるいはお金を儲けるための手段になり下がります。
CGやAIは、そういうもの一切を引き受け、絵の能力でマウントを取り合うような下らない座席争いや、市場のニーズのために自己表現を犠牲にする苦役を、人間から取り去ってくれます。
人間を、純粋に絵を描く楽しさに、没頭させてくれるようになるのです。
自分の作品にサインを入れるなどという発想(名を売ることへの欲望)を持ったのは、西洋近代(近代的個人発生)以降の歴史の浅い「常識」でしかありません。
絵画と市場が結びついたのも、同じ頃です。
一度、思い出してほしいのです。
子供の頃、浜辺で貝を集め宝物にしたこと、浜辺で描いては消える絵に歓声を上げたこと。
それが絵画制作の根源的な動機です。
所有する名画の価格を上げることや、美術館に長く保存されるような権威的な絵を描くことが、絵の本質ではありません。
描いてはすぐに消える砂浜の絵を虚しいと感じるようになったのは、一体いつの頃なのかを思い出してみれば、自分がいつ絵を描く楽しさを失ったのかが分かるかもしれません。
Jane Campion , The Piano(1993)