完璧主義とは何か

人生/一般

完璧主義者と真の完璧主義者

社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、完璧主義に陥った人に対し、真の完璧主義者とは完璧を放棄できる人の事だ、と教え諭します。
真の完璧とは完璧の放棄、という矛盾した言葉ですが、この場合、前者は本質的な目的に対する完璧、後者はその構成要素としての二次的なものの完璧を指しています。

例えば、街の風景画を描く時に本質的な目的は、街全体の絵としての完成度です。
しかし、いわゆる完璧主義者と呼ばれる人は、個々の家の瓦や人の顔や道の小石など、街の構成要素を完璧に描くことに囚われ、全体としては崩れた不調和な絵となったり、一生完成することのない街の絵を描くことになります。
構成要素に求められているのは、本質的な目的が達成されるために「適当、よい加減」な程度の完成度であり、「完璧」ではありません。
そういう意味での完璧を捨てなければ、真の完璧は達成されないということです。
「適当」や「いい加減(よい加減)」というのは、本来は良い意味の言葉ですが、完璧主義者の病んだ視点からすると悪いものとして意味付けられてしまいます。

完璧主義者の中で何が生じているのか

完璧主義者の根っこにある問題は、本質的な目的を見失ってしまっているということです。
見失い方にはいくつかありますが、代表的なものを三つ挙げてみます。

1.手段が目的化してしまっている

これはよく言われることなので詳しい説明は要らないと思います。
要するに目的のための手段のはずが、いつの間にか気づかぬうちにそれ自体が目的になってしまっている状態です。
例えば、良い料理を作る為の手段として包丁を研ぐことは必要ですが、いつの間にか包丁を研ぐこと自体が目的になり、研ぎ師のように美しい刃紋を作ることに必死になって料理を作ること(本質的目的)を忘れた料理人です。

2.部分の足し算が全体だと思ってしまっている

これは部分を全部足せば全体になるという単純な思考です。
本来、全体を構成する部分は、足し算でも掛け算でもなく、調和(独立した諸要素が統一的全体をなすこと~小学館『日本大百科全書』)によって成り立っています。
ですので、調和を成立させる、いわば本質的な目的が達成されるために適当な程度以上、あるいは以下の部分は、全体を壊す障害になります。
例えば、食味評価で最高の米は、それ単体で完璧なだけであり、他の食材と共に料理のいち構成要素となる場合、むしろその最高の味や香りや食感が調和を破壊し、料理を駄目にしてしまう事が多々あります。
全体の部分として在る場合の評価基準は「適当な状態」であり、それ単体で存る場合の評価基準は「最高な状態」であり、まったく異なる基準ですが、これが見えていません。

3.目的ではなく自分にフォーカスされている

本質的な目的にフォーカスされている場合、全体を構成する部分が適当な状態まで来た時、それ以上やると無駄なので次の作業に移ります。
しかし、本質的目的ではなく自分にフォーカスされている場合、最適(最も適当)点を超えて最高点を目指しはじめます。
仕事や作業が目的の達成ではなく、自分に対して向けられている人はかなり多くいます。
自意識(自己意識)には、他者の目に映る自分を意識する社会的なものと、自分の目に映る自分を意識する私的なものがあります。
いわゆる自意識過剰と呼ばれる人は、前者の社会的自意識に囚われている人です。
自己反省によって自分で自分を鞭打つストイックなタイプの人は、後者の私的自意識に囚われている人です。
社会的自意識に囚われている人は、仕事や作業の目的が、他人(社会)から評価されることに向けられており、私的自意識に囚われている人は、仕事や作業の目的が、自分の評価に自分で答え自尊心を満たすことに向けられており、両者とも、本質的な目的を見失っています。
彼らにとって「適当」は「妥協」にしか見えず、何としてでも最高点を取って他人からの称賛や自尊感情を得ようとします。

完璧主義者という悲惨と孤独

努力しない者が良い結果を出せないのは当然の事で、何の問題もありません。
しかし、完璧主義者は自分を限界まで追い込みながら、結果を出せないという悲惨な状態にあります。
健康、お金、労力、時間、才能、経験など、その人の持つ様々なリソース(資源、資産)を投下しボロボロになっても、結局、結果(見返り)は得られないという、非常に悲しい生き方です。
本人は良かれと思って努力しながら、目的となる対象も自分自身も破壊してしまうような二重の意味で非生産的な人です。

また、努力しない者や成績の悪い者に対しては、多くの人がその欠点を指摘してくれます。
しかし、完璧主義者に対し欠点を指摘してくれる人は稀です。
なぜなら、完璧主義者は非常に努力し、部分(構成要素)の成績においては優秀な人が多いので、周囲の人間も批判しにくいのです。
運良く「もっと適当でいいよ」と批判してくれる人がいたとしても、「俺の成績に嫉妬して、やる気をそごうとしている」とか「頑張る自分を心配してくれているある種の誉め言葉だな」というように歪めて解釈し、せっかくの助言を無いものにしてしまいます。
彼は周回遅れに気付いていないトップランナーなので、後ろにいる人(実質前にいる人)からの助言を上から目線で見てしまい、正しい文脈で解釈できないのです。
このように、完璧主義者は自分の欠点に自分で気付くしかないという、非常に孤独な状態にあります。
そして、多くの場合、全てを失ってから気付きます。

どうすればよいのか

その完璧主義が何を主な原因として生じているかによって、対処方法が変わってきます。
生まれ持った先天的な人格特性か、小さな頃に獲得したライフスタイルか、就学期以降に学んだ行動原理か、一時的な選択によるものか、個人の内的問題から生ずるものか、社会的環境により拘束されて起こるものか、心理的問題か、論理的問題か、等々。
ここでは、先ほどの考察(見出し2)に合わせて、三つの対処法を取り挙げます。

1.領域を限る

先天的な特性、あるいは堅固で変え難いライフスタイルであった場合は、完璧主義者本人ではなく、環境を変えるしかありません。
全体の構成要素(部分)が多くなればなるほど、完璧主義者に対する罠も多くなります。
ですので、極力構成要素の少ない世界で生きれば、それだけ脅威も減ります。
先の例のように、単に米のみの評価の世界であれば、完璧主義は最大の利点になります。
例えば、数十点の品目で構成され月替わりでメニューの変わるフレンチや懐石の料理人ではなく、タコ焼きのみ卵かけご飯のみで勝負するような店であれば、目的が達成される可能性は高くなります。

2.全体と部分のつながりを知る

物事の成り立ちに対する無知や誤解によって完璧主義が生じている場合、知識によってそれを補うことで修正できます。
本質的な目的の把握、目的(全体)と手段(部分)の関係付け、手段(部分)間の優先順位付け、最適基準の確認等、いま自分が為そうとしている行為(部分)が全体の中でいかなる存在理由や役割を持っているかということを常に自覚することによって、部分は調和的に全体へと結合し、活かされます。

3.自分ではなく対象(本質的な目的)と向き合う

自己意識から完璧主義が生じている場合は、その視線を外部の対象へ向け変える必要があります。
彼にとって完璧でないことは、即ち自分の社会的自意識や私的自意識を傷付けることであり、適当(彼にとっては妥協)も失敗も恐怖となります。
しかし、本質的な目的(全体)を達成するためには、その構成要素(部分)は適当でなければなりませんし、失敗は最適解を絞り込むために必須の過程です。
適当や失敗を恐れ、部分的評価や短期的評価での完璧にこだわる完璧主義者は、全体的評価や長期的評価を失ってしまいます。
彼は、敢えて下位につけ、力を温存し、最後に“まくって”レースで優勝する、というようなことができません。
厳格な自己意識がそれを許さないのです。

仕事や作業の舳先(へさき)が自己に向いている限り、目的は達成されません。
大きく舵を切り、自己ではなく外部の対象(本質的な目的)に向け変え、妥協する自分、失敗する自分を、成功のために必要なものとして許してあげなければなりません。
泥だらけになって走るランナーを誰も格好悪いとは思いません。
むしろ泥が付くことを恐れ、格好をつけて走り、最終的に大した成績を出せない者ほど格好の悪い人はいません。

おわりに

最初のフロムの言葉に戻って考えれば、真の完璧とは、完璧を捨てた適当の連繋によって生じるものです。
真の完璧主義者とは、即ち「適当主義者」だということです。
「適当」という言葉にどうしてもネガティブな印象を持ってしまう方は、「最適(最も適当)」という言葉に置き換え、「最適主義者」と呼んでも構いません。
「適当」を拒む人は、周回遅れに気付いていない哀しきランナーです。

 

おわり