第五章、対処の概念
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第六章、対処のプロセス
第一節、対処の定義
プロセスとしての「対処」とは、自分の力を超えるような環境(外部)および自身(内部)の双方(あるいは一方)からの強制的圧力が生じた際、それを適切に処理し、統制していこうとする、絶え間なく変化していく認知的、行動的努力のことです。
この定義の特徴は、以下の四点になります。
1.対処は絶えず変化するプロセスであること。
2.対処プロセスは、自動的な適応行動ではなく、自らの評価によって自分の力と強制的圧力を判断し生じる心理的ストレス状態に対するものであるということ。
3.対処とは、処理の努力そのものであり、努力の結果を指すのではないこと。
4.処理するとは、対処をマスター(習熟)するというようなものではなく、ストレスを最小限にとどめ、回避し、受容可能なものとするものであること。
第二節、プロセスとしての対処
一貫した個人の特性から対処が生ずると考える特性論と異なり、プロセス論は特定の文脈の中で刻々と変化し展開していく対処のあり方を観察し測定し理解します。
対処する人の努力による出来事(環境)の変化、対処する人自身の変化、出来事(環境)自体の変化などによって、環境と個人の関係は移り変わっていきます。
この軸にあるものが「評価」です。
先行の認知的評価に基づき為される再評価の連続に伴い、対処の努力も刻々と変化し、情動は移り変わり、三つの面(認知、情動、行動)において展開していきます。
例えば、愛する人を失った場合、前半では、事実の否認、感情の爆発、無理な平静さの保持、後半では、抑うつ、事実の受容、他者に対する愛の回復、といったように、対処のプロセスは何年もかけて持続しながらへ変化していくものです。
だから、ある時期(段階)を局所的に見るだけの第三者からすると、まったく異なった対処として見えてしまう可能性があります。
ストレスとなる出来事には、必ずプロセスとしての対処が生じ、その持続期間は数秒間程度のものから数年を要するものまで様々あります。
第三節、対処プロセスの段階
このような対処のプロセスの移り変わりを、段階的な概念としてとらえます。
例えば、幼児から母親を引き離す実験では、このストレスフルな状況への幼児の対処プロセスは、抗議する→諦める→愛着を失う、という三段階のスタイルが取られます。
この段階は、一定の方向や定まった順序(規範的発展的プロセスパターン)で現れるというようなものではなく、諸々の対処のパターンを理解するために必要な手続きとして為す分割にすぎません。
段階には著しい個人的特徴があり、キューブラー・ロスのような規範的な段階説とは異なります。
対処プロセスの段階は様々なパターンがあり、それぞれの文化や生活圏によって、中心となるパターンは異なります。
問題は万人共通の規範的なパターンを抽出することにあるのではなく、諸々の対処のパターンを比較しその有効性を明らかにすることです。
特定のタイプの人間が、特定のストレス状況において、特定の出来事に対する適応を必要とされる時、いかなる特定の対処のパターンが最も有効かを調べることです。
第四節、多様な対処の機能
対処の「機能」とは、それが果たす目的を意味するものであり、対処の結果とは明確に区別する必要があります。
対処の機能は対処の結果から明らかにされるものではありません。
対処の機能は大きく分けて二種類あります。
1.情動中心の対処~苦痛をもたらす問題に対する情動反応を調整していくこと。
2.問題中心の対処~苦痛をもたらす問題を処理し変化させること。
問題中心の対処は、脅威ある状況が自力で変えられるものとして評価されている場合、情動中心の対処は、脅威ある状況が自力で変えられないものとして評価されている場合に生じやすくなります。
1.情動中心の対処
「情動中心の対処」は、ストレスフルな出来事が生じさせる情動的苦痛を減少させるために為される対処です。
客観的な状況を変えないまま、主観的な情動的苦痛を変えていく方法です。
これには、回避、最小化、隔離、選択的注意、肯定的な対比、積極的反転など、様々な方法が採られます。
例外的に苦痛を強めるために行われることもあります(やる気のアップや苦楽の落差によってより強い快を作る場合など)。
情動中心の対処には、出来事の解釈の仕方を変えることによって苦痛をもたらす意味付けを弱めるものがあります。
状況の意味内容を変えていく解釈のプロセスを、認知的再評価と呼びますが、これは現実的解釈であっても、強く現実を歪めた解釈(防衛的再評価)であっても、再評価のプロセスであることに変わりません。
再評価は問題の解決を目的に行われるものと、情動の調整を目的に行われるものがあり、状況を客観的に変える問題解決を目的としない後者を「認知的再評価」と分けて考えます。
再評価の内で情動的対処に関わるものが認知的再評価、情動的対処の内で再評価につながるものが認知的再評価であり、「再評価」「認知的再評価」「情動的対処」はイコールの関係ではありません。
この認知的再評価による情動的対処プロセスの顕著なものが、「自己欺瞞」です。
例えば、客観的には最悪の状況であっても、何事もないかのように解釈し、情動的苦痛を回避するような場合です。
人は自ら完全に自らを欺くということは不可能なため、より効果的な自己欺瞞の為には、そのこと自体を意識に上らせないことが必要です。
先に述べたように(第二章 節)、認知的評価のプロセスを意識に限定する必要はなく、無意識を含めて考えるべきでしょう。
自己欺瞞は、些細な思い込みから大きな歪曲まで、健康なものから病的なものまで、広範に生じる日常的なものであるため、それによってもたらされる利害得失を十分に理解しておく必要があります。
2.問題中心の対処
「問題中心の対処」は、問題解決そのものを目指す対処です。
問題解決とは、問題を明確にし、具体的な解決策を考え、解決策間の利害得失を比較し、実際に試行錯誤しながら最適解を確定していきます。
ここで主になるのは、外部の環境に向けられた客観的な分析プロセスです。
「問題中心の対処」は、このような外部環境に対してのものだけでなく、自己自身の内部にも向けられるものです。
勿論、主となるのは前者、外部からの圧力や妨害、および環境内に存在する対処の手段を適切なものに変化させることです。
これを助けるのが後者、自分自身(内部)を変化させることです。
自我関与や欲求レベルのコントロールや、新しい行動様式の獲得や、新しい技術の学びなどによって、問題解決を助長します。
ふたつの対処の関係
情動中心の対処と問題中心の対処は、互いに促進し合ったり抑制し合ったりします。
情動対処がよい準備となり問題対処を促したり、問題対処が情動的苦痛を緩和し情動対処を易しくしたり、情動対処の苦痛が問題対処の力を弱めたり、問題対処の困難が情動的苦痛を強めたりします。
この対処の関係次第で、好循環や悪循環の対処のサイクルが生じやすくなります。
第五節、対処のリソース
対処のリソースとなるものは、対処を為す行為者自身の能力である、1.健康と活力(身体的能力)、2.積極的な信念(心理的能力)、3.問題解決能力(社会的能力)、4.ソーシャルスキル(社会的能力)です。
その他、行為者の外の環境に依存する、5.社会的支援、6.物質的資力を併せて考察します。
1.健康と活力
身体の健康と活力は対処努力を促進します。
特に長期間にわたるストレスフルな状況に対処する場合、身体的健康が果たす役割は大きくなります。
2.積極的な信念
積極的な信念を持つことは、対処を促進する心理的な力となります。
希望を持たせたり、困難な状況においても諦めさせないような信念です。
自信や正義や自由意志や慈愛の神などの積極的な信念です。
反対に、無能力感や不公正や運命や懲罰の神などの消極的な信念は、対処努力を弱めます。
3.問題解決能力
問題解決能力は、対処を促進します。
適切な情報を収集する力、問題の解明及び対処法を導き出す状況分析力、適切なプランを選択し実行する決断力、などです。
例えば、車が急に動かなくなった場合、問題はどこにあり、その解決策はどのようなものがあり、その内のどの方法を選択することがベストかを理解しているドライバーは対処行動を円滑に為し、反対にそのような問題解決能力を持っていない未熟なドライバーは、立ち往生するだけです。
4.ソーシャルスキル
ソーシャルスキルは他者との関係を円滑にし、協力や援助を生じさせることにより、対処を促進します。
難しい問題の解決や社会集団内における問題の解決は、個人の能力や努力以上に協力関係や集団行動によって解決する力が求められます。
5.社会的支援
身の回りに支援してくれる人がいる状況は、感情的支え、情報の提供、行動による援助などの社会的支援により、対処行動の力となります。
6.物質的資力
物質的なものの力(特にお金)は、対処行動のための力となります。
お金を持ちかつそれを有効に使う能力を持つ人は、ほとんどのストレスフルな出来事において、適切な対処行動を導く取引きが可能になります。
お金によって容易に効果的な問題解決のための援助が得られます。
また、使う事がなくとも、所有しているだけで、ストレス抵抗力が増加し、対処を促進します。
第六節、対処のリソースに対する制約
所有している対処のリソースを制約する因子があります。
リソースの使用は、1.個人的制約と2.環境的制約、そして3.脅威のレベルによって媒介され、それら制限を通した上で決定されています。
1.個人的制約
自らに内面化されている文化的価値観から生ずる信念や心理的機構の個人的特性など、本人の内にあるものがリソースと衝突する場合、制約因子となります。
例えば、内在する宗教的価値観によってポジティブであることを禁じられていたり、内在する羞恥心によって適切な当然の社会的援助が受けられなかったり、心的に曖昧さへの耐性が弱く問題解決における決断を簡単に諦めてしまったりします。
2.環境的制約
環境の側にも対処行動のリソースを制約するような要素が多数あります。
例えば、対処すべき問題が同時に存在するような状況においては、同じリソースに複数の競合する要求が生ずるため、有限なリソースを上手く調整し配分しなければならないという制約がかかります。
例えば、低所得者層を取り巻く環境は、中間層や富裕層に比べ、効果的なリソースの使用を妨げる制約がより多くなっています。
リソースの制約は一様ではなく、個人の置かれた環境により異なります。
3.脅威のレベル
脅威が大きい(大きいストレスを感じている)場合は、情動中心の対処に偏り、問題中心の対処が抑制されます(過度の脅威は認知機能と情報処理能力を阻害するため)。
脅威が中程度である場合は、問題中心の対処が主なものとなります(適度な危機意識が問題解決に集中させる)。
脅威が小さい場合は、情動中心の対処と問題中心の対処は、同程度の量となります。
勿論、脅威のレベルは対処行動の決定要因の1つにすぎませんので、例外は多くあります。
対処に必要なリソースは、時間の経過とともに変化するため、一定ではありません。
人生の時間のさまざまな期間に生ずる適応のための要件との関数として決定されます。
したがって、特定の時期に特定のリソースが存在することは、同じ人が別の時期に同程度にそのリソースを利用できることを意味するものではありません。
第七節、評価としての統制、対処としての統制
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第八節、ライフコースの段階における対処
対処のあり方はライフコースの各段階において変化するというのが、従来中心となる考え方でした。
しかし、年齢に応じて変化するのは対処のあり方そのものではなく、年齢に応じた生活環境であり、それに伴い対処のあり方が変化すると考えるべきです。
例えば、人は年を取ると対処のあり方が受動的で現実的なものになると言われますが、それは、高齢期になると健康面および経済面で衰え、社会的および物質的リソースが不足し、それにつれて対処のあり方も変化すると考えられます。
対処のあり方が人生の段階を通して一定か変化するかは、研究結果として見解が分かれていますが、現時点のエビデンスにおいては、人生の段階が対処プロセスそのものに直接変化をもたらすわけではないと仮定するのがベストです。
第九節、対処スタイルの研究の展望
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第十節、まとめ
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第七章、評価、対処、適応の結果
最初に述べておきますが、基本的にストレスというものはそれ自体が良いとか悪いとかいうものではなく、中立的な概念です。
プラスにもマイナスにも作用するものであり、問われるべきはその状況と在り様です。
ストレスが無い状態は、人間の成長の機会や人生の張りなどの重要なものを失わせます。
それは生物学的な適応における情動の概念と同様です。
人間から怒りや恐れの感情を奪えば、生存の為の重要な防衛機能を失うことになります。
問題は状況に必要な水準を超えた情動の在り様です。
ストレス状況に対する評価及び対処プロセスを考える際に重要となる問題は、評価と対処がどのようにして3つの主な適応の結果「社会的機能(仕事や社会生活)、士気(自信や意欲)、身体的健康」に影響するのかということです。
身体的健康に偏るものでなく、社会的、心理的、身体的な三つの側面の全体的な適応と健康を主題とするものです。
例えば、身体的には問題があっても、他の面で充実している高齢者は自分の適応状況を肯定的に評価しています。
行動を中心とする身体的基準のみでの研究では、歪んだ適応像が映し出されてしまいます。
社会的機能、士気、身体的健康は、長期的視点から見た適応の結果であり、それはストレスに遭遇した際の短期的結果(適応状態)に反映されます。
例えば、身体的健康(長期的結果)は、特定のストレスに遭遇した時に生じる生理的変化(短期的結果)に反映されています。
多様な文脈で何度も短期的結果を観察することによって、長期的結果のような一般的特質を炙り出す必要があり、短絡的に一対一対応で結びつけてはなりません。
ストレスに遭遇した際の短期的な適応の結果が、長期的な適応の結果とどう結びついているかの影響関係を理解せねばなりません。
短期、長期、双方の文脈で、適応の結果を論じる必要があります。
第一節、社会的機能
社会的機能は、個人のもつ多様な社会役割の働きを指すものです。
社会役割への期待(役割期待)は、文化一般の期待による唯一の型により決定されているわけではありません。
オーディエンスが異なると期待も異なり、時に矛盾することもあります。
また、役割期待は個人の持つ他の役割期待との関係によって変化するものであり、例えば、妻への期待は、彼女が専業主婦か共働きかで異なります。
社会的機能は心理学的にも重要な主題であり、特に社会及び他者からの視点ではなく当の個人から見た社会的関係が問題になります。
個人の特性、個人の経験(歴史)、個人の環境、文化的価値、役割期待など、様々な要因が社会的機能に影響を与え、他者との関係を構成し、その関係がどのように主観に経験され行動として表出されるかが問題となります。
これらは日常の出来事との出会いを通じて発展、変化、維持されるため、社会的機能の質を決定する上でいかに特定の出会いに対し有効に対処できるかが重要になります。
この対処の際の効果は、個人の特性と環境との関係において決定します。
対処の戦略そのものは本質的に中立であり、それが有効かどうかは、状況によって変化します。
その状況における内的欲求および外的欲求に対し、どれくらい適切であるかが問題になります。
この対処戦略の適切な効果(有効性)を生じさせる、評価と対処プロセスの基本的特徴はどのようなものかを考える必要があります。
「評価の効果」
適切な効果をもたらす評価は、出来事の流れに一致あるいは近い、現実的判断に従うものです。
一次的評価(脅威の評価)、二次的評価(対処能力の評価)いずれにおいても、現実の出来事の流れと不一致が生じている場合、有効な対処戦略とならず、自分や他人を害するような行動をとることになります。
しかし、評価は出来事の流れと完全に一致あるい不一致となることはなく、その中間にあるものなので、病理的な極端な事例でない場合は確認し難い状態にあります。
ストレスとの出会において評価に影響を与える要素は、曖昧さと傷付きやすさです。
多くの場合、ストレス状況は曖昧であり、当然、曖昧さが多くなるほど、現実と評価の間の不一致は大きくなります。
コミットメントが強く傷つきやすさが大きくなっている場合(第二章六節参照)も、評価が主観的に偏り、現実の出来事の流れと評価の不一致が生じやすくなります。
例えば、口臭に強くコミットしている人は、他者のアクションの多くを自己の口臭に対する嫌悪反応だと歪めて捉え、抑うつ的になります。
ストレス状況において曖昧さと傷付きやすさは付き物なので、問題となるのは、非現実的評価を繰り返す傾向、長期的な適応性に関してです。
「対処の効果」
適切な効果をもたらす対処は、情動中心の対処と問題中心の対処が相補って働き,互いに妨害することのない状態です。
問題の対処としては効果的であっても、情動的に制御できずマイナス感情に対処できていない場合、十分に効果的であるとは言えません。
例えば、年老いた親を介護施設に入れることが問題の対処としては適切であっても、残った家族に喪失感や罪の意識などのマイナス感情が強く残る場合です。
同様に、情動は制御していても問題そのものは放置している場合、効果的な対処とは言えません。
例えば、アルコールや娯楽などによって感情を制御しストレスフルな状況を抑えたとしても、原因となる問題そのものは残り、むしろ情動中心、問題中心の両面で悪化させることもありえます。
勿論、個人の力では効果的に対処できないタイプの出来事も存在するため、その場合、対処の効果が直接その人の対処能力を反映しているわけではなく、社会システムの問題である可能性が大きくなります。
また、効果的な対処のためには、対処の努力と他の要因(価値、目標、コミットメント、信念、必要な対処戦略、対処スタイルの傾向など)が適合していなければなりません。
実際に採られる対処行動と、この適合関係に矛盾や相反があると、効果的な結果が得られないだけでなく、対処努力自体が新たなストレスの原因となります。
例えば、個人の価値と必要な戦略が矛盾する場合はストレスが生じ、価値と目標が一致しない対処戦略の場合は動機付けられず結果が出ません。
本章冒頭で述べたように、長期的な社会的機能(社会役割)は、人生で出会う様々な出来事の対処の効果の延長、積み重ねです。
評価と出来事の流れが頻繁に一致し、長期間効果的な対処を維持する場合に、それは安定します。
頻繁に誤りが生じ不安定となる場合、あるいは長期間一致させられたとしてもそれを(挑戦ではなく)脅威だと常にとらえる傾向にある人の場合は、社会的機能に問題が生じます。
第二節、士気
士気(自信や意欲)は、自分自身と自分の生活条件をいかにとらえ、感じているかによって変化します。
自覚された心理的健康、幸福や満足や主観的健康と関係するものです。
ストレスとの出会いにおける一時的(短期的)な情動や健康感や幸福感は、特定的で、目立ち、展開的に変化していくものです。
それに対し、長期的な士気は、持続的で背景的な感情状態のようなものとしてあります。
例えば、普通、怪我の痛みは気持ちを落ち込ませ、人に褒められることは気持ちを高めるものであり、これらの感情への個人の特性の影響は小さなものです。
しかし、長期にわたる場合、短期的には影響が小さくても一貫した特性の効果は、諸々の幸不幸の体系的な原泉となります。
出会う事柄の士気への影響は、その対象が人生の目標や長期的コミットメントや信念体系という基本的要素にいかに関わっているかによって決定されます。
眼前の事象(ゲシュタルト的な図)の背景となる気分(ゲシュタルト的な地)のような関係としてあり、長期的な一貫した士気の傾向は眼前の事象の解釈に影響を与えます。
士気は対処能力の有無にも左右されます。
対処能力は不満足を減じ、リソースやエネルギーの浪費を防ぎ、目標を立てやすくし(見通し)、活動をスムーズにします。
第三節、身体的健康
ストレスと健康の関係を図式化すると、このようになります(ラザルス/フォルクマン著『ストレスの心理学』実務教育出版より)。
セリエの研究に代表される図上の非特異性モデルのような一般的な生理学的プロセスに対し、個人の評価とそれに伴う様々な情動および対処という認知心理学的なプロセス(特異な個々の疾患の機構)を加え、図下の特異性モデルのような形で健康に影響を与えるものとなっています。
特定の情動は特定のパターンの生理的混乱を生じさせ、特定の疾患に結び付きます(例、怒り→高血圧→循環器疾患)。
また、特定の対処のパターンは、それに特有の疾患を引き起こします。
この対処が身体的健康に影響を与えるプロセスとして、三つの可能性が考えられます。
1.対処は、神経科学的なストレス反応の頻度、強度、持続時間、パターンに影響を与えます。
問題中心の対処の失敗によって、情動中心の対処の失敗によって、それ自体有害な対処スタイルによって、神経科学的なストレス反応に負の影響を与えます。
2.対処の方法は、その手段(何を使用しいかに為すか)の有害性(害のある物質あるいは危険な活動)に応じ、身体的健康に影響を与えます。
例えば、喫煙によるストレスの解消は健康を害し、運動によるストレスの解消は健康を増します。
3.情動中心の対処は、時に健康に必要な適応的行動を妨害し、身体的健康に影響(害)を与えます。
例えば、身体の異常に気付いた時に、そのストレスを情動中心の対処で減じ、病院に行くことが遅れる場合。
これまで述べた三つの適応の結果、「社会的機能」「士気」「身体的健康」は絡み合い、適応の良し悪しの一般的特性を構成します。
例えば、良い士気と良い健康が関係付けられ構成されるものもあれば、良い社会的機能と悪い健康が関係付けられ構成される(社会的健康のために身体的健康が犠牲にされる)ものもあります。
ひとつの領域の適応の結果において上手く機能する評価と対処だからと言って、他の領域でもそうなるとは限らないということです。
健康心理学や行動医学などの中心課題は、ストレスと健康の関係です。
本章の目的は、そこで見落とされているストレスと健康の媒介、認知的評価及び対処のプロセスが健康に与える影響を考察することです。
生理的不均衡を基にした単純なモデル(非特異性モデル)を乗り越え、生理学的、心理学的、社会学的観点から総合的に人間を見る(特異性モデル)必要があるためです。
第四節、まとめ
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第八章、個人と社会
第一節、ストレスと社会に関する三つの観点
社会は時に人間の適応のための手段となり、時に人間と集団を形作るものであり、時に人間と集団に影響を受け作られる作品です。
「観点一、適応の手段としての社会」
環境によって、異なる適応的要求が存在します。
行動および社会は、環境の諸条件が課すこの要求に対する、適応のための反応から生ずるものです。
ある特定の環境下で生きていくための諸条件から生ずる要求や拘束は、人間の思考、感情、行動を形成する決定因であり、社会システムの発展はこの適応を援助する方向へ発展していきます(援助を与えない社会は消滅する)。
環境に対する人間の対処能力、適応能力は、社会や文化が提供する解決法の有効性や諸技能を準備するための機構に依存します。
「観点二、人間と集団を形作るものとしての社会」
人間関係の網の中で生きる私たちは、非常に複雑な社会的規則の拘束に従った行動様式を守り生活しています。
明確な交通ルールから、会話の繊細なニュアンスまで、社会や文化の要求に上手く適応しなければ、社会の中で生きていけません。
この社会的規則は、感情や価値観やコミットメントにも強い影響を与えます。
利便性と必要性から始まった社会様式は、世代を超え受け継がれていき、新たに生まれ落ちた子供にとって、それは社会そのものを意味することになります。
子供が成長し社会人となる社会化のプロセスの中で、家族や学校やテレビなどを通じ取り込まれます。
この人間を形作るものとしての社会という観点を探究するためには、マクロな社会システムがミクロな個人の生活様式にいかに影響を与えるかを考察せねばなりません。
社会システムの文化的要素(文化的に共有される価値や信条)は、個人の情動反応やその管理のあり方に強い影響を与えます。
情動は出来事の解釈によって生ずるものであるため、環境と人間の間に介入する文化が、どのような意味付けや判断基準(文化的バイアス)を提供するかによって、情動反応は変化します。
同じ出来事でも、文化によって怒り、恐怖、無反応など、種類も程度もかなり異なる情動反応を生じさせます。
情動の管理(マネジメント)に関しても同様です。
文化によって、いかなる状況においていかなる感情を表出するのが適切かという感情表現の様式はかなり異なります。
勿論、文化のみがこの様式の決定要因である訳ではないので、文化的差異の小さい普遍性を持つ様式(例、幸福の際の情動的行動)から、文化的な伝統的様式に従う文化的差異の大きいもの(例、葬礼、結婚、闘争の際の情動的行動)まで様々です。
また、社会的慣習としての情動表現と、個人的体験としての情動表現は混在しており、私の情動表現が自己の感情の端的な表現か、処方された社会様式を行動化しているだけかを見分けることは、時に困難を伴います。
社会システムの社会構造的要素(社会役割に伴う人間関係の詳細な様式)は、個人の価値の強い決定因子となります。
人間は、社会役割の価値に見合った感情の様式を取り入れ、自分の内の感情がそれと合致するよう仕立てます。
この暗黙の規則によって、私は自ら感情を準備する様、喜びを隠し、怒りを押し殺し、哀しみを許可し、この規則から逸脱した際は、心は何かまずいことをしたように感じます。
文化的であれ社会構造的であれ、社会システム(マクロ)という遠位的変数の重要さは、個人(マクロ)の認知的評価という近位的変数によって決定されます。
例えば、社会階層は直接個人に影響を与えるのではなく、認知的評価という主観的心理的変数を媒介し、その人の(認知された)環境となった上で影響力を持ちます。
文化と社会構造は、個人の思考・感情・行動を、いわばその人の何であるかの形成に影響を与えると同時に、個々人は決して他人に解放されないプライベートな主観的世界を所有しています。
人々は同じ社会的現実を所有し同じ反応を示す複製人間になることはなく、各々が異なる社会的現実に構築し直し、異なる志向を有するオリジナルのアイデンティティーを形成します。
その人のストレスや対処行動を理解し予測する上で重要なのは、認知的評価を形作る信条、コミットメント、要求、束縛、身近な社会環境などの近位的変数です。
「観点三、人間と集団に影響を受ける社会」
人間は社会システムに影響を受けると同時に、社会システムに影響を与え返し、社会変容を生じさせます。
人間は対処行動を通して、自分自身だけでなく環境を変化させ、社会構造に影響を与えます。
適応の失敗は、適応への個人の能力不足の側面と、適応の条件を提供できなかった社会システムの機能不全の側面があります。
対処行動の失敗は、本質的に人間と社会構造の間の欠陥であるため、変化させるべきはこの関係そもものです。
個人の適応能力を上げてこの関係を変えるか、社会の機能を改良することでこの関係を変えるかの選択においては、直面する問題に対し最も適切な配分、あるいは両方を同時に改善することがベストです。
完全な社会秩序あるいは完全な人間を求めるような両極に偏った解決策は、非現実的で生産的ではありません。
第二節、個人におけるストレス、対処行動と適応
人間は社会的宿命と個人的宿命の両方に対応しつつ、社会的アイデンティティと個人的アイデンティティの調和をはからねばなりません。
ある程度の不適合は不可避であり、この関係間の不適合に対する葛藤がストレスを生じさせ、社会的健康や身体的健康や士気に結果としてあらわれます。
精神分析の言うイド-自我-超自我の葛藤や、社会学の言う疎外化やアノミーは、この問題を扱ったものですが、個人の近位的変数を考慮しない単純化された静態的で構造的なモデルであり、個人のストレスと対処行動の考察においては不完全です。
近位的変数とは、第六章での社会的制約についての関係、および以下に述べる、社会が個人に与える「社会的要求」と個人が社会の中で生きるためのリソースとなる「社会的資源」の関係です。
「社会的要求」
社会様式が複雑化するにつれ、社会からの要求も増大します。
社会的要求とは、成員の行動に対して課される、期待される標準的パターンです。
社会は人間に様々な複数の役割を与え、かつその役割の円滑な遂行(適合)を期待し、個人は複雑で絶えず変化するその要求に答えねばなりません。
社会が課す難題に答えるために、人は心理的に自己を分離し、自己同一性やコミットメント(主体性)の感覚を失い、士気の低下、社会的機能の減退、心身の健康の悪化などの犠牲を伴います。
要求への違反や失敗は、所属欲求を害し、社会的特権や必要な物資を失う危険にさらし、場合によっては強い社会的制裁(投獄、追放、死刑)をもたらします。
勿論、社会的欲求は個人を形作る上で重要なものであり、問題(ストレス)となるのは、葛藤や曖昧さや過剰な負荷です。
例えば、個人の価値観と反する価値を有する社会的要求から生ずる葛藤、複数同時的な社会的要求の中で生ずる不明瞭さや混乱、個人のリソースを超えるような社会的要求による重荷、などです。
最終的には、与えられた役割をどう評価しその葛藤や負荷などにいかに対処したかなどの個人的な状況が、ストレスの有無や程度を決定する要因になります。
例えば、共働きの母親が職業に没頭し母親役割という競合する価値観の間で葛藤が生じたり、夫や近親者が家事育児に対し非協力的で孤立し母親役割への重圧がかかる時などに、ストレスが生じます。
ストレスは社会構造の変数と個人の変数の関係によって決定します。
「社会的資源(社会的支援)」
社会環境はストレスの源であると同時に、個人の生存繁栄のために必須の資源となります。
特に人間関係の環境によって生じる社会的支援は非常に重要なものとなります。
社会的要求と社会的支援は表裏一体であり、個人はそれらを同時に適切に認知し適切に扱わねばなりません。
個人が社会的要求を管理する力および支援を活用する力は、個人の特性および社会の制約に依り異なります。
社会的支援が健康(社会的健康、士気、身体的健康)に与える影響、および個人の社会的支援に対する主観的評価がいかに影響するかを考察する必要があります。
社会的支援の影響にも質があります。
好影響の社会的支援とは、不確実さと心配の減少、良い手本、問題を分かち合う、役に立つ情報の提供、治療計画の維持、問題解決の欲求を作る、などです。
悪影響の社会的支援とは、不確実さと心配の増大、悪い手本、新たな問題を生み出す、誤解を招く情報の提供、治療計画の意欲喪失、権力依存関係の欲求を作る、などです。
社会的絆に取り囲まれていることそのものが、人間の安心や幸福に必要な要素である(ボウルビィのアタッチメント理論を参照)という側面と、支援のリソースがストレスを緩和、予防する緩衝材として働くという側面があります。
その人が持つ社会的相互関係の価値が、遠位的変数、近位的変数のそれぞれにおいていかに認知されているかも重要な問題です。
前者は、その人を取り巻く社会的ネットワークの構成そのものを指しており、その豊かさはその人の社会的存在を保証し、貧しさ(孤立)は精神的身体的な危険因子となります。
後者は、社会的支援を与えられた当事者がいかにその支援の支持性を認知、評価しているかの問題です。
他人が自分の事を気にかけ、大切にしてくれており、必要な時に成れば支援が得られるという信頼、いわば支持性を大きく評価していれば、それだけより良い適応、高い士気と健康に結びついてきます。
社会的支援には、情動的支援(アタッチメントなど)、実質的支援(金銭や労力など)、情報的支援(有益な情報やフィードバックなど)の三種あります。
社会的支援はその社会環境の一つの特徴を形作り、個人にとってその特徴はストレスに対処するための資源であり、自らそれを開拓し利用せねばなりません。
社会環境としての人間関係がストレス源であると同時に資源であるということは、最初に述べた通りです。
第三節、ストレスと社会的変化
医学的な意味での人間は、石器時代からあまり変わっていませんが、社会環境は急速に変化しています。
それに伴い、対応すべきストレスおよび資源の種類が増え、複雑になってきています。
時代によって異なるのは、ストレスの程度や大きさではなく、ストレスの発生源と性質です。
人類の歴史において、ストレス源は社会と共に絶えず変化していきます。
人類や社会に生じるストレスに対する対処のために社会的変化が生じ、その変化のアンバランスにより新たなストレスが生じ、さらに大きな社会的変化が必要になります。
この社会的変化は、社会の成員に新しい要求を課し、それが個人にとってのストレスとなります。
未完
※あとちょっとで終わりですが、飽きたのでここで止めます。また暇になったら書きます。