災厄とは何か

人生/一般

人生停止スイッチ

長い人生、様々な災厄が降りかかってきます。
もし、アンドロイドのように脇腹のハッチを開ければ生命活動を停止するスイッチがあり、指先ひとつで簡単に人生を停止できたとしたなら、心の繊細な日本人の人口は半分くらいになってしまうかもしれません。
災厄が生じた際に、そんなスイッチがあったとしても、押すのはちょっと待った方がいいと思います。
なぜなら、その出来事が災厄かどうかまだ分からないからです。

たとえ話

物事の意味というものは、どこで区切るか(限定するか)によって変わってきます。
例えば、天体としての地球の軌道を問うと、多くの人は、円運動(公転)だと答えます。
しかし、それは太陽系という極めて小さな範囲に限定した場合の動きでしかありません。
実際の地球は、自転しつつ公転しているだけではなく、太陽系自体が銀河系内を回転しており、さらに銀河系自体が銀河団内を動いており、さらに銀河団自体が宇宙空間内を広がるように動いています。
本当の地球の動きの軌道は、それら全ての動きが合成された非常に複雑なものであり、もつれてほどけない糸のような軌跡を描いて動いており、把握することは困難です。
ですので、動きを記述するためには、範囲を限定する必要が生ずるのですが、太陽系で限定するか、銀河系で限定するか、銀河団内に限定するか等の限定の仕方によって、地球の動きの形が異なってくることになります。

サイズによって変わる意味

物事の意味や価値も、これと同様です。
いわゆる文脈(コンテクスト)の切り方(限定の仕方)次第で、それは大きく変化し異なってきます。
そもそも文脈を限定しなければ、先ほどの地球の動きと同様、意味も価値も決定することすら出来ません。
日常生活においても、小さい範囲の限定(ミクロ)では正しい行いが、大きい範囲の限定(マクロ)では誤った行いとなることがよくあります。

これには大きく分けて、空間的な意味変化と、時間的な意味変化があります。
空間的な変化というのは、空間的な範囲の限定の仕方次第で物事の意味や価値が異なってくるということです。
例えば、感染症流行時に個人がマスクを買って予防したら全体として不足し、医療関係者や感染者にマスクが行き渡らなくなって感染者数が増大し、むしろ感染確率が上がるような場合、個人範囲の小さい空間に限定して見ればマスクの購入着用は自己防衛行為ですが、社会範囲の大きい空間に限定して見れば逆に自己攻撃行為になってしまいます。

時間的な変化というのは、時間的な範囲の限定の仕方次第で物事の意味や価値が異なってくるということです。
例えば、よく戦争映画などで出てくる「歴史が証明する(しているではなく、するだろうの意)」というセリフは、時間的変化の典型です。
悪であったはずの行為が、その出来事が歴史となる未来になった時、実は善の行為であったと意味が変化する場合などです。
現在という小さな範囲の限定では悪の行為ですが、未来を含んだ大きな範囲の限定では善の行為になります。

空間的な意味変化と時間的な意味変化は概念の整理のために分割しただけで、実際は分けられない相即不離の関係にあります。

災厄

前置きが長くなりましたが、災厄のはずの出来事も、これと同様、それが災厄かどうかはそう簡単に分からないということです。
非常に限られた範囲で見た場合に災厄なだけなのかもしれないということです。

例えば、バイクで事故って災厄だと思っていたら、入院先の看護師さんと素敵な恋愛が始まった場合、その事故は運命の出来事になります。
例えば、バイクで事故って災厄だと思っていたら、リハビリで始めたマラソンにはまって、ツーリングより面白いと気付いた場合、より興味も健康も増進し、事故は転身の善い契機となります。

勿論、反対に幸福な出来事も同じです。
素敵な異性を見つけて最高だと思っていたのに、未来においては地獄の夫婦関係になってしまっている人は沢山います。
現在という狭い範囲では天国の門と思っていたら、未来を含んだ広い範囲として見れば地獄の門だったわけです。

幸福な時に浮かれて災厄への変化に対する備えを怠っていれば、後に取り返しのつかないことになる可能性があります。
それと同様、災厄に見舞われた時にも、幸福への変化に対する備えを怠っていれば、チャンスを取り逃がすことになります。
災厄の時に自暴自棄になって、財産を使い果たしたり、心を腐らせたり、自罰的に自ら健康を破壊したりすれば、幸福への変化への可能性は閉ざされます。
バイクの事故で心を腐らせ、本来持っていた人格的魅力を捨ててしまえば、看護師さんはその患者に好意ではなく嫌悪感情を持つことでしょう。

井の中の蛙

そもそも人間は広大な世界の事をよく分かっていませんし、さらに未来の事なんて分かりっこありません。
空間的にも時間的にも、非常に限られた文脈で物事を判断してしまいがちです。
客観的に見れば大したことない出来事でも災厄と断定し、「俺の人生先が見えた」などと言う人は、地球の動きを地球という非常に狭い文脈に限って見る、天動説を信じる原始人と変わりありません。

「自分は広い世界(空間的文脈)をよく知っていて、未来(時間的文脈)を見通す力もあるから、出来事の意味を現在において確実に決定できる」という自信があるのなら、災厄に出会った時に冒頭の生命停止スイッチを押してもいいのかもしれませんが、たぶん、そんな偉く賢い人なら、スイッチを押すまでもなく簡単に災厄を挽回する方法を見つけることができるでしょう。

どう転ぶか分からないから人生(Life)なのであって、完全にどっちに転ぶか分かるのは物理の実験の生命なき金属球だけです。

人生どう転ぶかわからん率

要するに確率論です。
人生どう転ぶか分からない確率の大きさを計った上で、災厄を暫定的(一時的)な仮のものとして保留しておく必要があるのです。
「人生どう転ぶかわからん率」は、主に三つの要因で決定します。
年齢×経験(知識)×災厄の程度です。

・年齢が若いほど余命(未来)が長く、限定されていない時間的な文脈も大きくなり、その分、災厄の意味も不確定なものとなります。
・経験(知識)が少ないほど知らない世界が多くなり、限定されていない空間的な文脈も大きく、その分災厄の意味も不確定なものとなります。
・災厄の程度が小さいほど、未来の拘束が小さくなり、その分災厄の意味も不確定なものとなります。

例えば、私が後期高齢者で、経験豊富で物事をほとんど知り尽くしており、大きな災厄(重い病や全財産の喪失)に出会った場合、先がどうなるかはほぼ明確なので、人生どう転ぶかわからん率は極めて小さなものとなります。
しかし、学校でのイジメや大学受験の失敗などは、人生どう転ぶかわからん率が極めて大きく、その時点でそれが災厄かどうかを判断することは出来ないということです。
例えば、学生の頃のイジメがきっかけでボクシングを始めた世界チャンピオンは山のようにいますし(特に日本には非常に多い)、大学受験に失敗していなければ、黒澤明は凡庸な芸大の講師に、井上陽水は人気のない開業医になっていたかもしれません。

勿論、若く未来があり、経験が少なく物事の何たるかが未だ分かっていない状態でも、極端に大きい災厄に出会ってしまった場合は、未来の可能性そのものが非常に狭まり、人生どう転ぶか見えてしまうようなこともあります。
究極的な災厄で人生の可能性が極端に狭められ、どう転ぶか誰の目から見ても明らかで、極端な災厄が災厄として確実である場合は、安楽死の是非のような特殊な問題となってきます。
しかし、そんな究極的な災厄に出会うことは、少なくとも日本においては極めて稀です。

災厄の出来事に出会っても、「人生どう転ぶかわからない」ことを想い、脇腹のボタンを押す手をとどめた方が確率的に良い選択だということです。
その時点でその出来事が災厄かどうかは、神様にしか分からないからです。

文脈を自分でつけ足して災厄の意味を変える人

ポジティブな人は、災厄の出来事があっても、それを幸福の出来事に変える文脈をせっせと耕し拡大していきます。

例えば、ある音楽家は修業時代に、その真面目さに嫉妬した先輩たちから厳しいイジメに遭い、様々な不自由と拘束(音楽家として不利な条件)が与えられました。
そこで投げだしてしまえば、その災厄は災厄として固定してしまいますが、その音楽家はいかにその制約の中で優れた音楽を作るかに挑戦し続け、最終的に誰にも想像できなかった独自の世界観の音楽を作る名作曲家と成なりました。
「イジメられて作曲活動が制約された」という自分史の記述に、「イジメられて作曲活動が制約された、ので、その制約そもののをリソースとして独自の作曲法を編み出し、新たな潮流を生み出す天才作曲家となった」と、自分で付け足し、災厄の出来事を広い文脈において、幸福の入口へと変化させたわけです。
これは先に述べた時間的変化です。

それに対し、空間的な変化とは、視点(視野の範囲)を変える(拡大する)ことによって、物事の意味のとらえ方を変化させる方法です。
例えば、「災厄だ。サークルで村八分の対象になった」から、空間的な文脈を拡大して、「そもそも村八分で結束する集団って傍から見れば最低の人種じゃん。そんな人間達に取り入ろうとする自分って何なの?最低を崇めるさらに最低の人種?これは災厄ではなく、ラッキーな出来事なのでは?さっさと辞めて、共通の敵ではなく共通の目的を持つことで結束するポジティブなサークル仲間を探そう」みたいな感じです。
経験値にならないスライムを相手に戦う勇者はいません。
狭い主観的な文脈で見たコマンドは「逃げる」ですが、広い客観的な文脈で見れば「相手にしていない」です。
視野が狭いせいで、どうでもいいような災厄(災厄でも何でもない災厄)と闘い、心をすり減らしている人が多すぎるように思います。
広い視点(空間的文脈の拡大)を持てば、大抵の災厄は災厄でない出来事に変化します。

 

おわり