真実とは何か

人生/一般

真実なき時代

誰でも簡単に嘘を吐くこと(作ること及び流布すること)が技術的に可能になり、平気で嘘を吐くことが平均的なモラルとなり、反対に誰でも簡単に嘘を暴くことが技術的に可能になり、嘘を暴く暴露趣味で心を満たすことが流行りになっています。
一部の特権層にのみ与えられていた嘘の力が万人に解放され、人々は自由を享受すると同時に、嘘だらけになった世の中で疑心暗鬼になっています。
「真実」はもう時代遅れの役に立たずと罵られ、開き直って堂々と嘘を吐く詭弁術が、次代の(ポスト)真実として、もてはやされています。

現代では「何が真実か分からない」という人が非常に増えましたが、そもそもそれ以前に「真実」という語が何を指しているのかが、いまいちよく分かりません。
例えば、名探偵コナン君の「真実はいつもひとつ」という決め台詞の「真実」と、「真実は人の数だけ無数にある」と言ってそれを揶揄する人の言う「真実」は、たぶん定義がかなり異なっており、ほぼ違うものを指す言葉です。
先ずはこの辺りを、整理してみます。
便宜的に、1.原真実、2.知的真実(個人)、3.知的真実(公共)、4.超真実、の四つの段階に分けて考察します。

ちなみにここで言う「真実」は、「事実」を含みます。
先ず客観的な一つの事実があって、それを解釈する人(主観)の数だけの無数の真実(解釈)がある、と言うような、認知心理学的な素朴な認識論でお話しするわけではありません。
そうではなく、「地球は丸い」という客観的事実そのものの真実性を問うています。

原真実

厳密に言うと、真実というものは、いまこの瞬間に現に経験しているものだけです。
「地球が丸い」という真実も、よく考えれば教科書やテレビというメディアを通して得た間接的な知識でしかありませんし、書斎の窓の向こうを「歩いている人」という真実も、直接抱擁して検証した訳ではなく、服の下は機械仕掛けの人形かもしれません。
真実というものは、疑おうとすればいくらでも疑えるものであり、常に虚偽の可能性をはらんでいます。

しかし、現に「人が歩いている」と思った今この瞬間や、「地球は丸いんだ」とTVを見て感心した瞬間は、それを確実な真実として受け取っています。
というより、いま現に眼前にあるものを真実だと思わざるを得ないのは、生きるために必須の、抗えない強制的な人間の認識の構造です。
この真実を「原真実」と名付けておきます。
厳密に言うと「真実」は「虚偽」との対概念として成立するものなので、「虚偽」の介入を許さない「原真実」は、「真実」とはやや異なる概念です。

知的真実(個人)

この原真実を離れたものは、つねに虚偽の可能性が付きまとい、知的反省による懐疑の対象となります。
そのため、この壊れた真実を、知性によってあらた(改)な真実として再構成する必要がでてきます。

目の前に道があると思った瞬間は、その道は真実のものとしてとらえられていますが(原真実)、知性による反省の機能によって「もしかしたらこれは道ではなく落とし穴(虚偽の道)の可能性もなくはない」と疑うと、それは真実でなくなります。
しかし、知性によって「公道に落とし穴があり、かつそれが眼前の一歩である可能性は一兆分の一くらいの確率だろう」と割り切り、その道を「真実」として再構成し直し、私は臆することなく堂々と歩いていきます。

このように、思考による反省が介在し、虚偽と真実の対概念を精査する過程によって生じたあらた(改)な真実を、「知的真実(個人)」と名付けておきます。
普通一般的な意味での「真実」は、これを指しています。
ちなみに英語の「真実(トゥルース)」は、「信頼(トラスト)」や「木(トゥリー)」などと同語源で、堅固さに由来する概念で、堅くしかっりしたものを指しています。

知的真実(公共)

「原真実」を離れたものは、情報と推論によって個人で知的に「知的真実」として再構成されると述べましたが、これはさらに公共へと拡大します。

個人の経験(情報)は非常に限られているため、「真実(知的真実)」の範囲も限定されたものとなります。
目の前の道が真実のものであるということは、個人でたやすく再構成可能ですが、「地球は丸い」ことを真実として捉えるためには、公共(他の人々)との協力が必須です。
個人の経験の範囲では、どう考えても「地球は平ら」が真実だからです。
それに対し、星の動きや、影の変化や、水平線上の見えの変化など、個人だけでは観察できない様々な視点から見る複数の人々の経験(情報)を集め、推論すると、今度は、どう考えても「地球は丸い」ことが真実になります。

個人では「地球は平ら」なことが真実であっても、公共では「地球は丸い」ことが真実になるのです。
勿論、個人よりも公共が常により真実であるとは限りません。
なぜなら、公共よりも確実な経験(情報)や正確な推論を有する個人も中にはいますし、何より公共には真実を容易にねじ曲げるような社会的な強い束縛があります。

超真実

いずれにせよ、ここから分かることは、真実というものは、知的に構成される仮説的、仮設的なものだということです。
現時点の経験(情報)と推論からして最も確実(可能性の高い)なもの、堅くしかっりしたものが、「真実」として扱われるということです。
「真実」はボクシングのチャンピオンベルトのようなもので、いま現在、最も強い者のもとで保有されるのです。
もし、「地球は丸い」ということを反証するような確実な情報を持った者が現れれば、真実のベルトは彼に奪い取られます。

ただ、公共的な真実はかなり安定したものなので、やがて人はその仮説性、仮設性を忘却し、絶対確実なひとつのものと想像し始めます。
また、忘却しないにしても、無数の情報さえ集めれば絶対的なひとつの真実にたどり着くと、勝手に真実を理念化(理想化)して考え始める者も現れます。
この想像された、あるいは抽象化された真実を「超真実」と名付けておきます。
理想や理念としてはあるが、現実としては存在しない現世を超えた真実です。

真実のかたち

要は、「真実」というものは、「未来において嘘である現在の真(まこと)」という、禅問答のような面倒くさい概念です。
歴史を知っている謙虚な教師は、自分が真実だとして生徒に教えている教科書の内容の多くが、数十年数百年後には真実でないものとされていることを、よく分かっています。
けれど、それを現在においては真実として教えています。

“いま現に眼前にあるものを真実だと思わざるを得ないのは、生きるために必須の、抗えない強制的な人間の認識の構造”と先に述べましたが、それは公共であっても同じです。
眼前の真実という確実な道があるから、人(あるいは人類)は歩くことができます。
しかし、その真実という道は、歩き終えた瞬間壊れていきます。
それと同時に眼前に新たな一歩分の真実の道が生成しています。

勿論、歩みをやめれば、道は壊れることも生成することもなくなり、足元の道のみが永久不変の真実として固定されます。
すなわち、それは良くも悪くも進歩を捨てるという選択です。
例えば、宗教にはあえてこの道を選択するものが多くあります。
科学と宗教の真理観が正反対になるのは、この選択の相違です。

大人なコナン君と子供な哲学者

最初に述べた名探偵コナン君の「ひとつの真実」とは、超真実のことを指しています。
彼は白か黒かをはっきりさせないといけない職業なので、暇な哲学者や芸術家のように「真実は無数にある」というような曖昧なことや無責任なことを言ってカッコつけてはいられません。
超真実なんてないと分かっていながら、まるであるかのように想定して振舞います。
短距離走の選手が、現在において最高の結果を出すために、ゴールラインの向こうにありもしない見えないゴールを設定して走るようなものです。

コナン君が証拠(情報)と推理によって、ひとつの真実を見事に暴き出して事件を解決し、犯人を拘束した瞬間に、金田一少年が出てきて、コナン君が見落としていた新たな証拠を発見し、そのひとつの真実を覆して真犯人を突き止めるという可能性もなくはありません。
その後、さらに名探偵ホームズ(犬人間)が現れて、新しい奇抜な推理によって、大大どんでん返しの真真犯人を暴き出し、真実が二転三転する可能性もありますが、そんなことを期待していたらしていたらキリがありません。

真実を確定するには責任がともないます。
真実は常に仮設的なものであり、誤りの可能性を常に含んでおり、犯人が冤罪の可能性は永久になくなりません。
しかし、それでも敢えて彼が犯人であることが真実であると、決定します。
そうしなければ、犯人は永久に捕まらないからです。
最初に述べた例のように、目の前の道が落とし穴であるという懐疑をもったまま何の決断もしなければ、野垂れ死ぬことは必定です。

真実を決断する

三種の人間がいます。
真実に対し疑いを持たない人は「幼稚園児」、真実が相対的である(無数にある)ことを吹聴していい気になるのは「反抗期の少年」、真実が相対的であることを知りつつ知性によって現在最も確実なものを真実として決断するのは「責任ある大人」です。
「責任ある大人」と「幼稚園児」は見分けがつきにくいので、厄介です。
例えば、真実を決断した「責任ある大人」と真実を鵜呑みにする「幼稚園児」を混同し、反抗期の少年は真実の相対性を持ち出して「お前ら何も分かってねえ」と優越感に浸る訳ですが、少年は自分が周回遅れでイキがっていることに全く気付いていません。

結婚式で大人たち(新郎新婦)が永遠の愛を持っていることを真実として述べ合うと、反抗期の少年は特殊離婚率の情報を持ち出して、お前らの半分は嘘吐きだ(離婚する)と揶揄します。
しかし、ここで反抗期の少年は大きな勘違いをしています。
それは、ここで大人たちは真実を述べているのではなく、真実を決断しているということです。

真実は、「情報」と「推論」と「決断」から構成されているのですが、多くの場合、この「決断」の要素が見落とされています。
例えば、私は地球が丸いことも、人類が月面着陸したことも、母の実子であることも、すべて真実だと思っています。
しかし、それは純粋に情報と推論から得た確証ではなく、最後は結局あいまいな部分が残ったままの決断です。

結論を言えば、真実の本質は“確からしさ”に依る決断です。

まとめ

1.原真実~疑いをはさまない直接的な真実。真実云々以前のもの。
2.知的真実(個人)~個人による真偽の知的検証を経た後の決断によって得られる真実。俗に言う「真実」あるいは「臆見(思い込み)」。
3.知的真実(公共)~集団によって真偽の知的検証を経た後の決断によって得られる真実。俗にいう「真実」あるいは「集団的臆見(思い込み)」。
4.超真実~理想化された究極的な知的真実。存在しない抽象概念としての真実。

公共が個人より知的に優秀な場合は、個人が「臆見(思い込み)」で公共が「真実」となります。
個人が公共より知的に優秀な場合(例、ガリレオ)は、個人が「真実」で公共が「集団的臆見(思い込み)」となります。

 

おわり