不安とは何か

人生/一般

不安の意味

ある言葉の意味を考える際、反対の言葉や類似の言葉との比較によって明確にすることが有効です。

「不安」という言葉の対義語は、「安心」です。
第一に不安とは、安心でない不安定な状態を指しています。

「不安」に一番似た言葉は「恐怖」でしょう。
不安は対象のない恐怖などとよく言われます。
第二に不安とは、漠然とした対象無き恐れの様な状態を指しています。
「将来が不安だ」と言えるのは、将来というものが先の見えない対象無きものだからです。
「お化け屋敷が不安だ」という言葉が不自然なのは、恐怖の対象がオバケであると明確であるので、「お化け屋敷が恐い」と言う方が自然だからです。
「不安」を具体化し、対象として明確にすると、「恐怖」や「安堵」に変わります。

不安の機能

恐怖の機能は、人間に危険を知らせることです(恐怖とは何かを参照)。
恐怖という危険信号に有効に対処することによって、その人の安全が確保されます。
恐怖は、人間を危険な状態から安全な状態へと行動することを促す動機として働いています。
不安の機能もこれに似ていて、不安定(不安)な状態から安定(安心)の状態へ、人間を導くよう動機づけます。

人間は混沌を嫌い、調和を好みます。
心理学の実験にあるように、人間は垂直と水平の線のない、斜めだけの線で構成された安定の崩壊した部屋では耐えることができません。
お医者さんに精密検査をすると言われた後、最も耐え難いのは、結果よりも結果が出るまでの間の宙づりの状態です。
一番顕著な例は、完全に調和が崩れたいわゆるゲシュタルト崩壊の状態であり、人為的にその状態へ被験者を導くと、嘔吐したり失神したりします。

不安を無くすためには

不安定は、人間を安定へ向けて駆り立てます。
不安を無くすためには、安定をもたらすしかありません。
具体的に言えば、それは漠然とした対象を明確にする作業です。
対象が明確になればなるほど不安は消え、世界は安定し、「不安」は対処可能な「見通し」に変化していきます。

例えば、普通のニキビを本気で皮膚癌だと考え不安に陥る心気症的な人が、もし皮膚科の先生のような知識を持っていれば、そのニキビに癌の要素は全くないと明確に分かり(見通せ)、不安に陥ることなどありません。
初めての街に行くのが不安なのは、その街を知らないからであり、旅行本などで徹底的にその街を知り尽くしていれば、不安は観光的な楽しみの期待(見通し)に変化します。

不安を征服する

もし、不安なのであれば、その不安の対象について明らかにし、「不安」を「見通し」に変える必要があります。
対象となる未知の事象の情報を集め、それに対応する自分の能力を知り、足りない部分を補い、ある程度の見通しが立ってくれば、不安は消えていきます。
不安だからと言ってうずくまっていれば、不安(未知)の領域はどんどん大きくなっていくだけです。
不安は未知の領域と比例関係にあるので、未知の領域が少なくなると、その分、不安は小さくなっていきます。

イメージで喩えるなら、空間全てがゼリーで満たされ、ある部分はジュレのように柔らかく、抵抗なく通っていけますが、ある部分はハードグミのように硬く、まったく通れません。
人間は未知というゼリーによって六方を包囲されており、硬くて全く動けないハードグミの強い未知(強い不安)の部分を明確(既知、安心)にし、溶かしていくことによって、ジュレ状の弱い未知(弱い不安)の状態にし、そこを突き進んでいくことができます。
例えば、A市からB市まで、様々な交通機関、ルートがあり、もっと時間やお金が節約できる道があるにもかかわらず、私は既知で慣れたジュレ状の通りやすい安心なルートを選びます。

人間は、この未知と不安に覆われた世界を、未開の地に降り立った不安な冒険家のように試行錯誤しながら情報を集め、未知を既知にし、未開を開化(開発)し、その不安の地を自らの安心の地へと変化させ、遂には故郷とするのです。

未知と不可知の違い

ただ、世界には永久に未知であり続けるものがあります。
例えば、宇宙の果てや、存在の根拠や、死の後を考える時などに生じる不安の眩暈は、決して明確(既知)にすることができないため、解決できません。

しかし、永遠に未知のものであるものとは、本当は、未だ知らない「未知」のものなのではなく、そもそも知ることが不可能な「不可知」なものに過ぎないのです。
問題はこの「未知」と「不可知」を混同してしまうことにあります。

人間の知の対象には「既知」→「未知」→「不可知」の三段階あり、本来、不安を感じるのは「未知」のものに対してだけです。
例えば、未開の地(未知)に行く場合は、不安を憶えても当然ですが、絶対に行くこともできない何処にもない場所(不可知)に行くことに不安を感じるのは、ドンキホーテ並みの過剰な妄想力を持つ人だけです。

例えば、死後の世界に不安を感じるのは、その人が「未知」と「不可知」を混同し、死後にも認知可能な未知の世界があるかもしれないという幻想を、そこはかとなく信じ込んでいるからです。
しかし、人間の認知の構造をよく理解している学者には、死後の世界が存在の有無以前に人間にとって「不可知」なものであると明確に分かっているので、不安など微塵も感じません。
いわばある未知の事象が「不可知」であると明確になる時、それは「既知」のものとなり、不安は消失するのです。

不安解消の努力は未知の領域まで

もし、ある状況において不安であるのなら、その状況において可能な限りの情報を集め、可能な限りの対策をし、可能な限り未知(未だ知らない)の領域を既知(既に知っている)にすれば、もうその先は私にとっては何の関係も持てない「不可知」の世界であると考えて構いません。
裏を返せば、不安があるということは、まだ自分にできることが残っているということです。
不安の対象と積極的にかかわり、それを明らか(既知)にすることによってしか、不安は解消されません。

入学試験の当日までは、不安であっても良いのです。
その不安によって、受験生は入試問題という未知を、解答可能な既知のものにしようとし、対策を練り自己を強化するという、安心への努力の動機が生ずるからです。
しかし、試験が終わってから合格発表までの間は、不安になっても仕方ありません。
なぜなら採点基準や合格基準が受験生には知らされない試験の場合、それは私にとっては「不可知」の領域だからです。
それに不安になるのは、存在しない怪物に怯える小さな子供のようなものです。

不安耐性

不安には耐性というものがあり、個々人で異なります。
未知を既知に変えることが、不安を無くす根本的な方法ですが、この不安耐性をつけることによって不安を緩和するという、補助的な方法もあります。
精神医学的な個人に特化した方法を除き、一般的に不安耐性を強くする方途をいくつか挙げておわりにします。

一、不安克服の経験値

未知を既知に変え、不安を克服する経験を積めば積むほど、人は不安に対する耐性がつき、不安な場面においても冷静に対処できるようになります。
普通の人なら圧し潰されてしまう不安にでも、ヒーローが立ち向かえるのは、決して根拠のない自信があるからではなく、経験に裏打ちされた不安耐性を有しているからです。
勿論‎、これは不安に対する怠惰な慣れ(諦めや無気力状態)を指すのではなく、不安を克服した過程の経験の積み重ねのことです。
はじめは小さな不安しか克服できませんが、その克服の過程を経験するに従い、やがて大きな不安でも克服できるという確信が持てるようになります。
もし今、不安にたじろぎ動けないなら、その不安を今の自分にでも対処可能な小さな不安に分けて、一つずつ克服していくうち、自分の経験値が上がりレベルアップし、大きな不安にも対峙できるようになります。

二、身体生理的コンディション

哲学者のアランは、不安の原因の多くが身体的な状態にあると考えます。
身体の状態は感情の状態に連動しているため、それが健全であるかどうかによって、不安の耐性も変わってきます。
身体、および身体を取り合く環境(拡張的身体、例-最適な気温と湿度が身体機能を向上させる)を整え、良いコンディションに保てば、未知の対象はワクワク感のようなポジティブな不安感をもって迎えることができます。
反対に、悪いコンディションにしてしまうことによって、未知の対象は怯えにも似たネガティブな不安感を生じさせるものとなります。
病気の状態で冷たい夜風にあたった孤独なパスカルは、星空を見て宇宙の深淵への不安を感じたと、アランは言います。
しかし、健康な状態で暖かい夜風に吹かれる幸せなカップルは、その同じ星空に幸福の予感を感じるのです。

三、他者の影響

周囲に、不安に負けずに果敢にそれを克服していく人がいれば、その態度や生き方が私にも感染し良い影響を与えます(勿論、影響の受けやすさは個々人によって異なります)。
当然、その反対の人ばかりの環境にいる場合、いくら私一人で頑張っても悪影響が上回り、そちらへ流されてしまうこともあります。
世間では不安を克服する人より、不安に呑まれたり逃げたりする人の方が多いのが普通です。
よい影響関係にある他者に恵まれない場合は、自分からよりよいコミュニティーへ移動するか、あるいは本や映画などによって偉人や英雄の生き方を間接的に見て仮想的な友とし、良好な他者との影響関係を自分自身で作っていく必要があります。

 

おわり