なぜ正直者は馬鹿を見る(損をする)のか~個人編

人生/一般

三種の人間

まず、人間の知の状態はふたつあります。
ひとつは知識の無い「無知の状態」。
もう一つは知識の有る「有知の状態」。
有知の状態にある人はさらに「正直」と「嘘吐き」という二つの態度に分けられます。
よって人間の知の状態は「無知」「正直」「嘘吐き」の三つになります。

ちなみに無知は有知と同じように、態度によってさらに分けることはできません。
なぜなら、正直と嘘は知識を持っていること(有知の状態)を前提としなければ、成り立たないものだからです。
例えば、8時30分集合と知っていながら遅刻して9時に到着し、「え、9時集合じゃなかったの?」と嘘を吐いたり、「ごめん、大遅刻しちゃった」と正直に謝れるのは、「集合時間8時30分」という知識を有しているからです。
本当に正しい集合時間を知らない無知の状態にあれば、正直も嘘も原理的に成り立たず、ただ単に知らずに遅刻してしまった馬鹿な人なのです。

正直者は必然的に不利な状態にある

嘘吐きとは、意図的に嘘を吐いて自分を有利な状態(あるいは他人を不利な状態)にしようとする人です。
意図して自分を不利にする嘘を吐く人はいません。
嘘吐きは意図的に不公平な状態を作る「ズルの力」という必殺技をいつでも使えます。

無知な人とは、知らず知らずのうちに嘘吐きと同じズルの力を使う人です。
先ほどの例の、遅刻してわざと嘘を吐く人も、無知で遅刻して来る人も、実際の結果としては、待っている人に与える損害は同じで、30分の時間損失です。
例えば、軽犯罪には知らずに為されるものが多くありますが、加害者が意図しようとしまいと被害自体は何も変わりません。
こんな風に、無知な人は「ズルの力」を非意図的に時々使います。

正直な人とは、知識をもち、かつ正直であるため、この「ズルの力」が全く使えません。

これら三つを強い順に並べると、
必殺技を常に使える嘘吐き>必殺技を時々使える無知の人>必殺技を常に使えない正直者
という風に、この時点で半ば勝負がついてる、ハンデ戦となっています。
以下で、この関係をある流行歌の歌詞で喩えてみます。

喩え話

世の中には、寂しさや悲しみなどの心に開いた小さな穴に付け込んでくる偽善者がよくいます。
それは非常に効果的なズルの力で、詐欺師やカルト教団などの常套手段です。
それを知っている僕は、そんなズルの力を使えません。
しかし、僕の恋敵であるアイツはそのズルの力を利用し、僕の大好きな女性を奪い去り、弄び、捨てました。
正直者の僕は、必殺技の使えるアイツに恋愛において負けたわけです。

さらに言えば、無知な人もこれに劣りません。
よかれと思って善意で心の隙を突いてしまう、無知な人もいるからです。
無知で異性を騙し、無知で異性を弄び、無知で異性をポイ捨てする、子供のように純粋に悪を為す人が、特に恋愛においては沢山います。

正直者で必殺技を使えない非力な僕は、嘘吐きどころか、無知な人にまで、大切な彼女を連れ去られることになります。

世界の嘘は知識の所有量に比例する

嘘を吐くためには、その前提として「知」が必要だと最初に述べましたが、裏を返せば、その人の心の中に知識が増えれば増えるほど、世の中にも嘘が増えていきます。
まるで光と影の同時生成のように、自分の頭の中に世の中の「真実」がひとつ知として付け加わるごとに、その反対概念である「嘘」もひとつ付け加わるのです。
「子どもは純粋で、大人は嘘吐きだ」などとよく言われますが、それは年齢の問題ではなく、知識の量の問題です。
子どもは無知なので、その分だけ嘘の数も少なく、大人は知識が詰め込まれているので、嘘の可能性も膨大になります。
子供は心が純粋で嘘を吐かないのではなく、知識がなくて吐けないのです。
子供は心が純粋だから人を信じるのではなく、知識がなくて彼の頭の中に嘘が存在しないので、疑うことができないだけです。

嘘吐きと無知な人を混同してはいけない

物事を学べば学ぶほど、世の中は嘘の言説で溢れているように見えて嫌になってくることは、誰しもそれぞれの分野で経験のあることだと思います。
しかし、みんな悪びれず大嘘を吐いているように見えても、実際は単に無知の状態にある、善良な人々である場合が多いのです。
「人間など皆、嘘吐きだ!世界は嘘で溢れている!」と言って嘆くニヒリストは、本人が知識を持ちすぎているだけなのです。
実のところ、ニヒリスト自身が知識を持ちすぎて誤りを見抜く力が強くなりすぎていて、世界が嘘だらけになってしまっているのです。
さらに彼は、無知な人と嘘吐きを一緒くたにするというカテゴリーの錯誤を犯し、自分で勝手に全ての人(嘘吐き+無知の人の総体)に幻滅しているのです。

残酷な天使の戒律

ここから分かってきますが、知識を有しかつ正直であるということは、それだけどんどん「ズルの力」という必殺技を使えなくなっていき、あらゆる行動を封じられるということです。
知識を持てば持つほど無数の嘘が見えてきて、正直であることのハードルが上がっていき、最終的には身動きが取れなくなります。
そんな恐ろしく不利な状態で、闘えるわけがありません。
正直者が損をするのは必然であり、その損の量は知識の量に比例しています。

知識の有りすぎる(かつ正直を美徳とする)人は、最終的には、太宰治の『人間失格』の主人公のようなお道化にならざるを得ません。
嘘を嘘と知りながら、後ろめたさを感じつつも、生きるために嘘を吐かねばならないという、悲しきピエロ状態です。
あるいはサルトルの『嘔吐』の主人公のように開き直って、社会という舞台の役者として、人間という嘘を演じきることです。

「正直者であれ」という残酷な天使の戒律と「正直者は損をする」という現実の間に引き裂かれた僕は、一体どうすべきなのでしょうか。
方法は無数にありますが、とりあえず、よく採用されるものを三つ挙げます。

方法1、ダークサイドに堕ちる

正直者でいることが損であるなら、単純に嘘吐きになればいいという、一番よくある方法です。
良心のガードが弱い人は、これが一番楽かもしれません。
悪魔には、生まれながらの悪魔と、はじめは天使だった堕天使系の悪魔がいるように、厳しい天使の戒律に堪えられなかった元天使としての悪魔(堕天使)に成ることです。
いわば元正直者の嘘吐きに成ればいいのです。
愛が深すぎるがゆえに悪の帝王になってしまった聖帝サウザー(北斗の拳)のように、悲しみを背負った悪漢という自己満足に浸りながら生きるのも粋なものです。

方法2、正直であることに満足する

正直者が損をするのは、あくまで物質的な領域においてです。
正直者は、本当は何も損をしていません。
なぜなら、上辺だけでない真の正直者は、金や権力や肉欲のような実利的なものより、人格的なものに価値を置く人だからです。
正直者は人格的に嘘吐きより勝っており、嘘吐きは実利的に正直者より勝っている。
そこに何の矛盾も葛藤もありません。
正直者は人格を選び、嘘吐きは金を選び、お互いに欲しいものを手に入れています。
問題は、正直者がこのカテゴリーを混同してしまっていることです。
「正直者は損をする」を言い換えれば、「人格的に優秀な者は、経済的に優秀なわけではない」という当たり前の事実を述べたもので、何ら悲しい言葉ではありません。

しかし、ここに一つの問題があります。
正直者は、その人格的な優秀さを、社会的、客観的に評価してもらえないということです。
なぜなら、嘘吐きも正直者を装っているため、傍から見れば、同じものに見えるからです。
正直者が二人並んでおり、片方は自由に必殺技を使え、もう片方は見えない鎖で縛られており、正直な僕はただの無能な者にしか見えません。
同期で、ズルをして成り上がった嘘吐きの部長の横に、万年係長の正直者の僕がいるだけです。

昔は、そんな正直な自分をいつも見てくれ、人格的価値を評価してくれる、「神様」や「ご先祖様」や「お天道様」がいてくれた(信じられていた)ので、これでも良かったのですが、今はもういません。
こうなると、正直という人格的優秀さは自己満足的にしか得られない、主観的なものになってしまいます。
夜明け前、人知れず近所を掃除して回ってくれているお爺ちゃんみたいな存在です。

方法3、ヒーローになる

上の二つの自己満足的な方法は、消極的です。
正直者が損をしない為のポジティブな正攻法は、嘘吐きをぶっちぎる実力を付けるか、嘘吐きの嘘を暴き出す戦闘能力を身に付けることです。
要は悪漢に負けないヒーローになることです。

ただ、これにはかなりの努力が必要です。
どんな汚い手段を使ってでも勝とうとしてくる相手に、正しい行いと美しい所作のみで勝つ本物の横綱のような、圧倒的な実力が必要です。
また、相手は土俵外でも様々な手段を講じてくるので、単に土俵上で競技者として強いだけでなく、土俵外でも弁護士のようなクレバーな理性的強さが必要です。

このヒーロー的な戦い方で、ある程度のレベルの嘘吐きは倒せますが、実力が拮抗している場合は難しいので、永遠の努力を必要とする、いばらの道です。

勿論、一つの方法のみに頼るのは稀で、人は時にヒーローであったり、時に悲しき悪漢であったり、時に諦念の境地の傍観者であったり、状況に応じて対処します。
しかし、いずれにせよ、これらはあくまで個人的な解決法です。
次いで全体について考えてみます。

 

(2)へつづく