正直とは何か

人生/一般

正直と嘘

子供の頃は皆、大人に「正直であれ」と言い聞かされます。
しかし、大人になると、「正直者は馬鹿を見る(損をする)」ことが分かり、多くの人が正直であることを止めていきます。
むしろ社会の中で生きていく際に、正直を止めることを推奨されたり、嘘を吐くことを命令されたりします。
社会というものは、不正を黙認することや嘘を吐くことによって成り立っている部分が多くあるので、自己欺瞞的にそれを見て見ぬ振りできるスキルや、「大人の事情」を汲める態度を身に付けなければ、上手く生きていくことは出来ません。
上手く嘘や欺瞞を使いこなせる器用な人は良いのですが、問題は不器用で正直と嘘の葛藤に苛まれ、人生が極めて生きにくくなっている人です。

本頁では、「正直」が原理的に不可能なこと、必然的に損をするという現実を見て、それでも正直な生き方を選ぶとすればいかなる帰結が生じるかということを考察します。

三種の人間

まず、人間の知の状態はふたつあります。
ひとつは知識の無い「無知の状態」。
もう一つは知識の有る「有知の状態」。
有知の状態にある人はさらに「正直」と「嘘吐き」という二つの態度に分けられます。
よって人間の知の状態は「無知」「正直」「嘘吐き」の三つになります。

ちなみに無知は有知と同じように、態度によってさらに分けることはできません。
なぜなら、正直と嘘は知識を持っていること(有知の状態)を前提としなければ、成り立たないものだからです。
例えば、8時30分集合と知っていながら遅刻して9時に到着し、「え、9時集合じゃなかったの?」と嘘を吐いたり、「ごめん、大遅刻しちゃった」と正直に謝れるのは、「集合時間8時30分」という知識を有しているからです。
本当に正しい集合時間を知らない無知の状態にあれば、正直も嘘も原理的に成り立たず、ただ単に知らずに遅刻してしまった馬鹿な人なのです。

正直者は必然的に不利な状態にある

一般的に嘘吐きとは、意図的に嘘を吐いて自分を有利な状態(あるいは他人を不利な状態)にしようとする人です。
意図して自分を不利にする嘘を吐く人は稀です。
[例えば、嘘の証言で愛する人の犯罪を庇って自身が投獄される]

一、嘘吐きの人は、意図的に不公平な状態を作る「ズルの力」という必殺技をいつでも使えます(明らかな刑罰の対象でない範囲で)。

二、無知な人とは、知らず知らずのうちに嘘吐きと同じズルの力を使う人です。
先ほどの例の、遅刻してわざと嘘を吐く人も、無知で遅刻して来る人も、実際の結果としては、待っている人に与える損害は同じで、30分の時間損失です。
例えば、軽犯罪には知らずに為されるものが多くありますが、加害者が意図しようとしまいと被害自体は何も変わりません。
こんな風に、無知な人は「ズルの力」を非意図的に時々使います。

三、正直な人とは、知識をもち、かつ正直であるため、この「ズルの力」が全く使えません。

これら三つを強い順に並べると、

必殺技を常に使える嘘吐き 必殺技を時々使える無知の人 必殺技を常に使えない正直者

という風に、この時点で半ば勝負がついてる、ハンデ戦となっています。
以下で、この関係をある流行歌の歌詞で喩えてみます。

喩え話

世の中には、寂しさや悲しみなどの心に開いた小さな穴に付け込んでくる偽善者がよくいます。
それは非常に効果的なズルの力で、詐欺師やカルト教団などの常套手段です。
それを知っている僕は、そんなズルの力を使えません。
しかし、僕の恋敵であるアイツはそのズルの力を利用し、僕の大好きな女性を奪い去り、弄び、捨てました。
正直者の僕は、必殺技の使えるアイツに恋愛において負けたわけです。

さらに言えば、無知な人もこれに劣りません。
よかれと思って善意で心の隙を突いてしまう、無知な人もいるからです。
無知で異性を騙し、無知で異性を弄び、無知で異性をポイ捨てする、子供のように純粋に悪を為す人が、特に恋愛においては沢山います。

正直者で必殺技を使えない非力な僕は、嘘吐きどころか、無知な人にまで、大切な彼女を連れ去られることになります。

世界の嘘は知識の所有量に比例する

嘘を吐くためには、その前提として「知」が必要だと最初に述べましたが、裏を返せば、その人の心の中に知識が増えれば増えるほど、世の中にも嘘が増えていきます。
まるで光と影の同時生成のように、自分の頭の中に世の中の「真実」がひとつ知として付け加わるごとに、その反対概念である「嘘」もひとつ付け加わるのです。
「子どもは純粋で、大人は嘘吐きだ」などとよく言われますが、それは年齢の問題ではなく、知識の量の問題です。
子どもは無知なので、その分だけ嘘の数も少なく、大人は知識が詰め込まれているので、嘘の可能性も膨大になります。
子供は心が純粋で嘘を吐かないのではなく、知識がなくて吐けないのです。
子供は心が純粋だから人を信じるのではなく、知識がなくて彼の頭の中に嘘が存在しないので、疑うことができないだけです。

嘘吐きと無知な人を混同してはいけない

物事を学べば学ぶほど、世の中は嘘の言説で溢れているように見えて嫌になってくることは、誰しもそれぞれの分野で経験のあることだと思います。
しかし、みんな悪びれず大嘘を吐いているように見えても、実際は単に無知の状態にある、善良な人々である場合が多いのです。
「人間など皆、嘘吐きだ!世界は嘘で溢れている!」と言って嘆くニヒリストは、本人が知識を持ちすぎているだけなのです。
実のところ、ニヒリスト自身が知識を持ちすぎて誤りを見抜く力が強くなりすぎていて、世界が嘘だらけになってしまっているのです。
さらに彼は、無知な人と嘘吐きを一緒くたにするというカテゴリーの錯誤を犯し、自分で勝手に全ての人(嘘吐き+無知の人の総体)に幻滅しているのです。

残酷な天使の戒律

ここから分かってきますが、知識を有しかつ正直であるということは、それだけどんどん「ズルの力」という必殺技を使えなくなっていき、あらゆる行動を封じられるということです。
知識を持てば持つほど無数の嘘が見えてきて、正直であることのハードルが上がっていき、最終的には身動きが取れなくなります。
そんな恐ろしく不利な状態では、競争社会の中で上手く生きていけるわけがありません。
知識をもち正直者でもあるアニメ版のハイジのお爺さんのように、人間嫌いになって、山にこもって嘘を吐かない自然や動物と共に生きるしかありません。
正直者が社会で損をするのは必然であり、その損の量は知識の量に比例しています。

知識の有りすぎる(かつ正直を美徳とする)人は、最終的には、太宰治の『人間失格』の主人公のような、お道化にならざるを得ません。
嘘を嘘と知りながら、後ろめたさを感じつつも、生きるために嘘を吐かねばならないという、悲しきピエロ状態です。
哲学者のサルトル風に言えば、人間に対し「正直であれ」と言うことは、「正直のフリをしろ(正直という嘘をつけ)」というダブルバインド(二重拘束)的な命令に外なりません。
そうすると、サルトルの小説『嘔吐』の主人公のように開き直って、社会という舞台の役者として、人間という嘘を演じきることしかできなくなります。

「正直者であれ」という残酷な天使の戒律と、「正直者は損をする」という現実の間に引き裂かれた人は、一体どうすべきなのでしょうか。
方法は無数にありますが、とりあえず、よく採用されるものを挙げます。

方法1、ダークサイドに堕ちる

正直者でいることが損であるなら、単純に嘘吐きになればいいという、一番よくある方法です。
良心のガードが弱い人は、これが一番楽かもしれません。
悪魔には、生まれながらの悪魔と、はじめは天使だった堕天使系の悪魔がいるように、厳しい天使の戒律に堪えられなかった元天使としての悪魔(堕天使)に成ることです。
いわば元正直者の嘘吐きに成ればいいのです。
愛が深すぎるがゆえに悪の帝王になってしまった聖帝サウザー(漫画『北斗の拳』の悪の皇帝)のように、悲しみを背負った悪漢という自己満足に浸りながら生きるのも粋なものです。
不良漫画やヤクザ映画の主人公は、だいたいこのタイプです。

武論尊原作、原哲夫画『北斗の拳』集英社

方法2、無知のままでいる

知識を得れば得るほど、正直であることが難しくなるので、知識を得るのを止め、正直のハードルを低くする方法です。
例えば、名探偵コナン君のように賢すぎれば、他の人すべてが見落とすような些細な情報から、嘘や不正が見えてきてしまいます。
世の中の嘘や不正が嫌というほど見えてくるので、正直さを保つことが非常に難しくなります。
逆に馬鹿であれば、他人の嘘も自分の嘘も見えず、正直でいることのハードルも低くなり、生きやすくなります。
良く言えば、戦略的に鈍感に成る、馬鹿に成るということです。
大阪のオバチャンのような鈍感さは、ある種の悟りといえます。

方法3、正直であることに満足する

正直者が損をするのは、あくまで物質的な領域においてです。
正直者は、本当は何も損をしていません。
なぜなら、上辺だけでない真の正直者は、金や権力や肉欲のような実利的なものより、人格的なものに価値を置く人だからです。
正直者は人格的に嘘吐きより勝っており、嘘吐きは実利的に正直者より勝っている。
そこに何の矛盾も葛藤もありません。
正直者は人格を選び、嘘吐きは金を選び、お互いに欲しいものを手に入れています。
問題は、正直者がこのカテゴリーを混同してしまっていることです。
「正直者は損をする」を言い換えれば、「人格的に優秀な者は、経済的に優秀なわけではない」という当たり前の事実を述べたもので、何ら悲しい言葉ではありません。

しかし、ここに一つの問題があります。
正直者は、その人格的な優秀さを、社会的、客観的に評価してもらえないということです。
なぜなら、嘘吐きも正直者を装っているため、傍から見れば、同じものに見えるからです。
正直者が二人並んでおり、片方は自由に必殺技(嘘)を使え、もう片方は見えない鎖で縛られており、正直な僕はただの無能な者にしか見えません。
同期で、ズルをして成り上がった嘘吐きの部長の横に、万年平社員の正直者の僕がいるだけです。

昔は、そんな正直な自分をいつも見てくれ、人格的価値を評価してくれる、「神様」や「ご先祖様」や「お天道様」がいてくれた(信じられていた)ので、これでも良かったのですが、今はもういません。
こうなると、正直という人格的優秀さは自己満足的にしか得られない、主観的なものになってしまいます。
夜明け前、人知れず近所を掃除して回ってくれているお爺ちゃんみたいな存在です。
フランスの作家ジャン・ジオノの短編小説『木を植えた男』の主人公のように、その生涯をかけた善行を誰に知られることがなくても満足して死ねる、強い精神的自立性が求められます。

方法4、ヒーローになる

上の三つの自己満足的、自己欺瞞的な方法は、消極的です。
正直者が損をしない為のポジティブな正攻法は、嘘吐きをぶっちぎる実力を付けるか、嘘吐きの嘘を暴き出す戦闘能力を身に付けることです。
要は悪漢に負けないヒーローになることです。

ただ、これにはかなりの努力が必要です。
どんな汚い手段を使ってでも勝とうとしてくる相手に、正しい行いと美しい所作のみで勝つ本物の横綱のような、圧倒的な実力が必要です。
また、相手は土俵外でも様々な手段を講じてくるので、単に土俵上で競技者として強いだけでなく、土俵外でも弁護士のようなクレバーな理性的強さが必要です。

このヒーロー的な戦い方で、ある程度のレベルの嘘吐きは倒せますが、実力が拮抗している場合は難しいので、永遠の努力を必要とする、いばらの道です。

勿論、一つの方法のみに頼るのは稀で、人は時にヒーローであったり、時に悲しき悪漢であったり、時に諦念の境地の傍観者であったり、状況に応じて対処します。

最善の方法はバランス

最初に述べたように、これら四つは「正直」と「嘘」をバランスよく使いこなせない不器用な人が採る方法です。
そもそも「いかなる時も正直であれ、嘘をついてはいけない」という戒律に問題があります。
厳密に言うと「正直」と「嘘」は、人間の内面と外面の整合性/不整合性の状態を指す概念にすぎず、本質的に善し悪しの価値判断が含まれているわけではありません。
「嘘はよくない」のではなく、「嘘を悪用することがよくない」のだという当たり前の事実を確認する必要があります。
単に嘘は正直に比べ悪用しやすい状況が多い(つまり流れやすい)というだけで、嘘=悪と決めつけられているのです。

「正直⇒善」「嘘⇒悪」という固定した観念の連合関係を壊し、「正直⇒善ときどき悪」「嘘⇒悪ときどき善」であることを認識し、状況に応じて使い分けられるようになることが、最善の方法です。
しかし、ここで言う正直と嘘の使い分けは、最初に述べたいわゆる「汚い大人」になることではありません。
「汚い大人」とは、嘘の中にある善悪の相対性に慣れ切って、「嘘も方便(嘘はより大きな善のための手段-方便-としての小さな悪)」という言葉を錦の御旗にし、堂々と悪や不正に手を染める人です。

まとめると、「嘘はよくない」のではなく「嘘を悪用することがよくない」かつ「嘘は悪に流れやすいので常に警戒して善用すべし」となります。
しかし、いかなる方便(手段)が善に導くかということを判断できる賢い人は少なく、一般的に嘘は人を悪や不正に染めやすいので、凡夫のための戒めとして「いかなる時も嘘をついてはいけない」という極端な戒律が生じます。

正直と嘘の善悪の相対性を悪用する人⇒「汚い大人」

正直と嘘の善悪の絶対性を頑なに信じ苦闘している人⇒「純粋な少年」

正直と嘘の善悪の相対性を善用する人⇒「立派な大人」

 

おわり