継続とは何か

人生/一般

継続は力

「継続は力なり」などとよく言われます。
様々な文脈で言われるので、その意味するところも色々です。
それら色々な意味の中で主だったものについて、少し考えてみたいと思います。

一、単純な意味での継続

多くの人があることを為そうと奮起しても、かなりの数が三日坊主で終わります。
たとえ数か月は継続できたとしても、三年ともなると、ほとんど続けられる人はいなくなります。
同じことをコツコツ三十年も続けるとなると、もはや偉人です。
ゴールのないマラソンのように、次々と人々がリタイヤしていき、いつの間にか地味に走り続けていた自分がトップランナーになっているような感じです。
そういう意味で「継続は力」と言われます。

ただ、この力が機能するのは非常に限られた領域であり、多くの場合、根性論と同じ様な害(手段の目的化など)が生じます。

二、習慣化としての継続

意識的な行為を継続すると、習慣になります。
その習慣化された行為は無意識の底に沈み、半ば自分のデフォルトの機能となり、その上に新しい意識的な行為を付け足すことが可能になります。
その新しい行為を継続しさらに習慣にすると、またその上に新しい行為を追加することができます。
そうやって、人は単純な行為から複雑な行為へと段々と移行し、パワーアップしていきます。
継続によってある行為を習慣化しない限り、より上位の機能を搭載することは不可能です。
人間の成長とは習慣化の産物であり、当然、習慣は継続なしにあり得ません。

ちいさい子供の頃は、歩くことや箸を使うというような単純なことでも、意識的に一生懸命しなければなりませんが、慣れると無意識にできるようになり、どんどん複雑な機能をその上に追加していき、最終的にはダンサーやピアニストのような超絶技巧の動きが可能となります。
低次の機能であれば一度獲得すれば失いにくいものも多いですが(一度自転車に乗れると長期間乗っていなくても乗れる)、一般的に高次の機能になればなるほどその期間が短くなり、ほんの少し当該の行為から離れただけで獲得した能力が崩れ去り、失われてしまうものもあります(膨大な練習量で結晶化される薄氷のようなプロの技術など)。
そういう意味で「継続は力」と言われます。

ただ、人間の記憶力や無意識の力には、当然限界があります。
それを補うためには、「記録」という特殊な継続の力が必要になります。

三、記録としての継続

人間の歴史において、最も継続的に発展してきたものは、科学です。
科学の始まりは紙という記録媒体によってであり、その発展は複製技術に依っています。
テキストによって無数の事例を記録として残せるからこそ、比較検討や帰納(理論化、抽象化、法則化)が可能となり、時間空間をまたぐ無数の事象を網羅的に傘下に収めることができます。
もし、この記録媒体が複製不可能で、時間的空間的な制限があれば、時間とともに過去に獲得された事例は失われ、歩みは堂々巡りを繰り返し、空間的に限られた局所性の中に幽閉され、進歩は非常に限られたものとなります。

これは、どのような領域についてもいえることです。
例えば、歴史を残さない、あるいは歴史に学ばない国は、何度も同じ過ちを繰り返すことになり、いずれ滅びます。
例えば、よい夫婦は、記念(記し念う)日や、アルバム写真や、居間に飾られた二人の旅行土産(Souvenirの意)などによって、過去の記憶を記録として定着することで、継続的な関係性を忘却することなく、二人三脚の人生を積み重ねていくことができます。

個人の場合も同様に、個人の持つ継続(習慣)の力以上の力を利用するためには、低次の継続(過去の軌跡)を記録し、それを現在において常時意識化できるような媒体が必要となります。
人間は極めて忘れっぽい生き物なので、常に過去(記憶)を意識化する想起のトリガーを用意していないと、歩みのない同じ日を繰り返すことになります。

記録の仕方も、その媒体も、人それぞれです。
ロードマップとして過去を視覚化し壁に貼る人もいれば、過去の経験を理念化してまとめ作業前によむ人もいれば(社訓の唱和など)、予習復習の日誌を書き今日と明日を継続的につなごうとする人もいれば、自分の物語(自分史)を常に想像しその主人公として行動する人もいます。
その媒体は何もテキストである必要はなく、記憶のトリガーとなるのであれば、物や絵や音楽や香りなど、何でもよいわけです。

人間は意志が弱いとよく言われますが、多くの場合、意志の問題ではなく、記憶の問題です。
娘の涙を見て禁酒を決断した父が、一週間後にはまた飲んで帰ってしまうのは、意志が弱いからではなく、禁酒を決意したその文脈を忘却してしまうからです。
なので、更衣室のロッカーの中に、娘の写真を貼り、その文脈を思い出すためのトリガーとすれば、帰宅の度にその写真によって禁酒を決意したあの時の自分と接続され、継続的に前進することが可能となります。

昨日より今日の自分、今日より明日の自分がより成長しているよう日々心掛け、その積み重ねが大きな成功へと導くと、よく言われます。
しかし、いくら昨日より今日の自分が成長していたとしても、1000日前の自分より今日の自分が劣っていては意味がありません。
昨日できなかったことを今日できるようになったとしても、忘却によって1000日前にできたことをできなくなっていれば、そこにあるのは成長しているという錯覚と自己満足だけであり、実際はある範囲を堂々巡りしているだけにすぎないことになるのです。

とにかく人は忘れる。
忘れたことすら忘れる。
忘れたことすら忘れ、思い出すことすらできない記憶は、もう無いものに等しいのです。
せっかく努力して、昨日より今日の自分を成長させたなら、その大切なものを無くさないよう記録として残し、未来の自分のための記憶のトリガーとして、忘れない今のうちに準備しておく必要があるのです。

おわりに

最初にも述べたように、これらは「継続の力」が必要な領域においてのみ、意味を持つものです。
当意即妙に時代や状況に合わせ、カメレオンのような変身を必要とする領域においては、何の意味もありません。
また、継続的な進歩を嫌い、同じ日をただ繰り返す原始的な人間の姿に憧れや理想を持つ人にとっても、必要ないものです。
幼児のような忘却力も、積極的なひとつの力になりえます。

 

おわり

 

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