ゴッフマンの『行為と演技』(1)

社会/政治 芸術/メディア

※本書では「役割 role」「役目 part」「役柄 character」と使い分けられていますが、読みやすくするためにすべて「役割(role,part,character)」として記述しています。

 

<序章、相互行為>

意図的、非意図的表出

他者の前にある人(主体)が現れると、他者はその人の情報(事前に得ているもの、その場で得られるもの、及びそこから自己の経験に照らし合わせた類推など)によって、彼の人間像を知ろうとします。
そして、その情報をもとにして、他者は自身の行動を方向付けます(例えば、相手が王様か乞食かという情報によって、行動-反応-は大きく変わります)。
本書ではこの分析の対象となる主体を「エゴ」と記述します。

エゴ(主体)は自分の情報を、「意図的な表出(狭義のコミュニケーション、例-会話、動作)」と、何気ない「非意図的な表出(徴候、間接的な二次的情報、例-表情、しぐさ、身なり)」の二つによって他者に伝達します。
前者による嘘が「詐術」であり、後者を意図的に利用した嘘が「偽装」です。

エゴと他者

エゴは他者の行動(反応)を、自分の利益に従った方向へ先導し、統制できるよう考慮した上で、自己の情報を提示します。
自分の利益になる行動(反応)へ他者を操作するために、自分の行動を操作するのです。
相互行為の軸にあるのは、他者の反応を先導、統制しようとする、お互いの願望の掛け合いです。
意図するにせよしないにせよ、伝達の努力(印象付け)相応の反応が得られるにせよ得られないにせよ、その印象の伝達によって他者が何らかの反応をするなら、エゴはある特定の意味付けを状況に対して投企(プロジェクト)したと言えます。[投企については後述、あるいはルトル、ハイデガーの項を参照]

他者はエゴから与えられる二つの情報(意図的表出、非意図的表出)を読み解き、エゴの意図的表出(コミュニケーション)の妥当性を測ります。
例えば「美味しい」と言いながら食べる客人の情報(意図的表出)と、あまり進まない手の動き(非意図的表出)を照合し、「美味しくない」という情報へと変換します。
しかし、エゴはこの裏をかいて、制御しにくいと思われている非意図的表出を意識的に制御し、印象付けの正しさと信頼性を上げる努力をすることがあります。

これはエゴと他者の間で、無限のサイクルをなす情報のシーソーゲームの場となりますが、非意図的な行為を制御するエゴの能力よりも、それを観察する他者の読解力の方が上回るのが普通なので、コミュニケーションは他者有利の初期値を回復、保持するのが普通です。

状況の意味付け(投企)

エゴと他者は、お互い、行動や反応によって、状況の意味付けを投企(プロジェクト)しあいます。
[例えば、エゴは偉そうな主人的態度を取ることによって、状況の中で自分を「偉い人」であると意味付け(状況の定義付け)ようとします。行動は常に状況を意味付ける作用があり、この主体的行動を「投企」と言います。それに対し、他者が大人しく従うという反応(行動)をすれば、他者は自身を「隷属者」として投企し、状況を意味付けることになります。反対に、他者が反抗して、もっと偉そうな態度で反応すれば、エゴと他者の間において状況の意味付けの投企の抗争が生じることになります。]
勿論、状況の意味付けは、あらかじめある程度決められ調整されているので、極端な矛盾は生じません。
[例えば、いかに偉そうな生徒が居ても、生徒と先生の役割の主従関係が逆転することはない。]
しかし、この調和は素直な承認ではなく、エゴの抑制と、他者との妥協的、暫定協定的な状況把握によってなされる、表面的な合意です。

この投企のゲームにおいて重要になるものが、最初の投企です。
はじめにエゴが作り出す状況の意味付けや立場は、その後、相互行為の中で変更され修正されていくそれより、基礎的です。
状況は投企の積み重ねによって作られるので、後の投企は積み重ねられた前の投企にかなりの拘束を受けますが、最初の投企はより自由で拘束はゆるいのです。
例えば、学校の先生は第一印象が肝心だと言われます。
最初の投企で厳しい教師として状況を意味付ければ、後に優しくしても生徒は感謝しますが、最初の投企で甘い教師として生徒にナメられれば、後に厳しくしても生徒にバカにされるだけであり、その後の修正は難しくなります。
最初の投企によって生じた状況の意味付けは、以後の相互活動の大まかな見取り図になる傾向があります。

社会的役割

また、投企に従う意味付けは、状況にある種の道徳的性質を与えることになります。
エゴは自己の投企する社会的特性に基づいた権利を与えられること要求し、他者に反応を義務付けようとし、行為主体(エゴ)の何であるか(本質)を主張し、それに相応しい評価を期待します。

エゴは、自己が投企した意味付けに対する攪乱に常に注意を払い、様々な防衛的措置を取ります(詳細は第六章)。
この投企のゲームの参加者がそれを「察し」、他者が投企した意味付けを救う場合も多々あります。
この自他両者からのの措置なしには、エゴの印象が社会的に保持されることはあり得ません。

行為主体(パフォーマー)が他者(オーディエンス)に向って、ある特定の役割を演ずる時、一定の社会関係が成立します。
役割は、特定の機会に同種のオーディエンスに向けて呈示されることで生じます。
一つの社会役割が、複数の機会やオーディエンスによって構成される場合、その数だけ異なった役回りを演じねばなりません(例えば教師という社会役割は、教室と職員室で異なるオーディエンスとパフォーマンスをもちます)。

 

<第一章、パフォーマンス>

役割への信頼

パフォーマーには二つの様態があります。
自分の行為(役割を演じる)に没頭し自らに欺かれ、自身の作り出した舞台(投企した状況)を現実そのものだと信じ込んでいる生真面目なパフォーマーである場合と、自分自身の役割やルーティーンにまったく欺かれていない醒めたパフォーマーである場合とがあります。
醒めたパフォーマーは利己利益のため(詐術)というより、オーディエンスや社会の利益のために、他者を欺く道化であることが多く、他者が心から欺かれたいという要求を出すので、欺くのです。

「人間(person)」の語源が「仮面」であるように、人が他人を知るのも自分を知るのも何らかの社会的な役割においてであり、むしろ仮面は真の自己、第二の天性として、後天的社会的に人間に成っていく過程で生ずるものです。

行為主体が自らの行為に欺かれている場合と醒めている場合の両極の間にエゴはあり、往復運動をなします。
例えば、嫌々はじめた醒めた仕事のはずがいつの間にか没頭していたり、反対に盲信的に没頭していた仕事から醒めて義務的に役割を担うように変化したり、あるいはこの中間状態に居り現実に対する欺瞞と真実性の錯綜した状態にあったりします。

外面

「外面(front)」は、エゴがパフォーマンスにおいて状況を反復的に規定(固定)する一般的標準的な型の表出を指します。
「舞台装置(setting)」は、行為主体がその内でそれに向かって演じ、状況を生じさせる背景であり、所与(前提条件)です。
適切な舞台装置内において、はじめてパフォーマーは演じることができ、その出番の内に手際よく行為(演技)を終らせねばなりません。

パフォーマーの表出において、背景的な備品となるのが舞台装置であるわけですが、もっと行為主体に近い位置にある密着した備品を「個人的外面(personal front)」と呼びます。
例えば、地位、服装、性別、年齢、身体的特徴、姿勢、動作、表情などで、性別のような極めて固定的なものもあれば、表情のようにパフォーマンス毎に変化するものもあります。

「見かけ・外見(appearance)」は、相互行為現時点での静的な役割の情報の伝達です。
「態度(manner)」は、相互行為時点で将来の役割を予告し将来の状況内で為すことを予示する動的なものです。
[例えば、強い態度は今後の主導権を、弱い態度は今後の依存的振る舞いを期待するものです。]
私たちは一般的に、この「見かけ」と「態度」の整合性を求めていますし、さらに言えば「舞台装置」との整合性も期待しています。
その裏返しが整合性の矛盾への関心であり、見かけや態度の印象を壊すようなゴシップ記事に、読者は強い関心を持ちます。

特定の社会的カテゴリー内での社会的外面は、類型化、制度化され、集合的な表象となり、パフォーマーを拘束し、他者に紋切り型の期待を抱かせることになります(例えば、医者=清潔、よい姿勢、落ち着いた表情、など)。
その社会役割に応じた仕事の遂行だけでなく、同時に適切な外面(見かけ・態度・舞台装置の整合性)を維持する必要があるのです。

劇化

相互行為において、エゴは自らの一つ一つの挙動に記号を与え、他者に意味を伝達しようとし、他者からもそれを求められています。
例えば、野球の審判は、その一挙一動に迷いの記号を示してはならず、常に果断な動作でなければなりません。

警官のように役割の遂行に劇的な記号的伝達(自己表出)の機能を有するものもあれば、事務員のように極めて地味で不可視的で非表出的な遂行を為す社会役割もあります。
前者の劇的な社会役割(警官、医者、野球選手など)が、映画や小説の主題になりやすいのはそのためです。

それに対し、後者の非表出的な役割の遂行を為す者が、自らの役割の性質を劇的に表現する必要がある場合、相当の意識的な努力を要します。
[例えば、学者が読みもしない総革装の全集を壁一面に並べた部屋で取材に応じる。例えば、葬儀屋が遺体を移動させるためだけに天使の彫刻で豪華に飾ったリムジンを用意する。]

ここに「行為」と「表現」の間のジレンマが生じます。
行為の遂行に労力を費やせば表現が疎かになり、表現に労力を割けば行為が疎かになります。
組織によっては行為と表現を分け、役割の意味表現のためのみに特化した部門を作ることもあります。
[例えば、私たちは企業イメージのブランディングとして刷り込まれた爽やかなマックの店員を、その役割表現として受け取っています。]

理想化(理念化)

一定の類型、公準となった役割遂行の外面は、社会役割のカテゴリーにおける理想(価値の理念型)のようなものとなります。
パフォーマーは、より理想的な役割表現を為すことによって、より「社会化」されます。
パフォーマンスは、社会的価値の具体的表示であり、共同体の価値の再確認のための手段となります。
儀礼というパフォーマンスによって、個人が部族や共同体に統合されるように、パフォーマーは理想化されたパフォーマンスを提示することによって共同体内での価値を有し、社会的なリアリティを獲得することができます。

社会役割を移動する際に、体系化された役割遂行の理想が乗り越えるべきハードルとしてあることにより、役割の境界が明確になります。
移動をなすためには、転入先の役割のパフォーマンスを習得していなければならず、特に社会階層の低い方から高い方への移動、および下降しないための外見の維持のためには、多くの犠牲を必要とします。
適切な記号表現に習熟し、日々のパフォーマンスを理想的なスタイルで飾り、装備を万全にすることで、自らのステータスを明確にするのです。
それは物質的富であったり、高い教養や品のある振舞いであったりします。

半面、これは拘束ともなり、黒人が白人の前で意図して楽天的に振舞ったり、女性が男性の前で無知無能を装ったり、己が社会役割の理念型(黒人は能天気、女は弱く男に守られるべき存在、というような)に自らを帰属させるという仮面劇を演じさせることになります。
理想化された役割遂行の表現によって、他者はエゴ(行為主体)の社会的地位を受け取るため、パフォーマーは自らの理念型の基準に相反するパフォーマンスは抑制したり隠したりする必要があるのです。

しかし、これは単に消極的な面であるだけではなく、積極的な面もあります。
悲劇役者が舞台裏ではおどけ、泣く観客を覗いて面白がるように、女はカマトト(無知を装う)で騙される馬鹿な男を女友達で話題にしたり、黒人はあえて楽天的に振舞うこと(メタレベルに居ること)に優越感を感じていたり、夫の前では廉潔な主婦がヘソクリで豪勢なコース料理のランチを楽しんでいたり、むしろ拘束されている側が能動的な主体であることもあります。

パフォーマーは、オーディエンスに隠された領域を持っています。
そのいくつかの機能を挙げます。
・表の役割とは異なる利益を得ている領域、努力の跡や失敗が隠される領域。
・不都合な事実のある領域(役割遂行のために必要な非合法非道徳性など)。
・重要度ではなく可視性によって犠牲にされる理想的基準の領域。
[理想的基準を構成する複数の要素から取捨選択せねばならないような制限が生じた時、多くの場合その重要性(実質)によって選ばれるのではなく、可視性(見栄え)によって選ばれます。]

パフォーマーは理想化された役割遂行の形式的表現に反するようなものを隠す傾向にあり、オーディエンスに対し実際以上の理想的自己(理想的社会役割)を見せようとします。
例えば、教師や先輩の前では実際以上の優等生に見せようとし、同年の仲間たちの前では実際以上に悪ぶって見せようとする青年は、オーディエンス毎に理想的な役を演じ分けています。

人間の自己は単純なものではなく、オーディエンスのグループの数と同じだけの多様な社会的自己(役割)を持っています。
仮にこの分離した社会的自己(役割)の幻想を、パフォーマー側が壊そうとしても、オーディエンス側がそれを妨害するため不可能です。
先の青年が悪態をつくことを教師は許さず、反対に悪友たちは良い子であることを許してくれません。

このパフォーマーとオーディエンスの間には、特別な関係が生じ、その状況固有の要素と交渉の独自性が強調され、実際以上に役割がより強化されることになります。
例えば、単に趣味が同じだけでつながっている友人を心分かり合える友と感じたり、私に向けられた友人の笑顔を他者に向けられたそれより過大に評価したりします。

表出の統制

パフォーマーによる表現が、その意図する状況の全体的定義(意味付け)から外れないよう、何気ない仕草や取るに足らないような要素や間接的に意味を成す象徴的なもの(先に挙げた非意図的表出のような)にまで気を配る必要があります。
調子の外れた音がひとつあるだけで、その音楽の全体の印象が壊れるように、状況の意味に不適合な些細なひとつの表現が、投企された全体の意味のリアリティーや信頼性を壊してしまうことがあります(例えば、よく映画にありますが、他は完璧でも些細な仕草の不適合ひとつで、スパイであることがバレてしまいます)。

社会化された自己を維持する安定的なパフォーマンスのためには、精神による自己の統制化が必要です。
社会化の過程は、自己の身体や意識を変化させるだけでなく、それを維持、固定する働きをもちます。
役柄は相貌を決定し、相貌は感情を作り、感情は身体を拘束します。
この役柄の自己サイクルによって役柄の理想は強化され、自己は安定し、やがて仮面は人格となります。
リーダーを任された私は、リーダーらしく振舞うよう努め、その振る舞いは私の感情を高揚させ、その感情はさらに私の振る舞いを強化し、やがて私は模倣された振る舞い(仮面)ではない、本当のリーダーに成ってしまうのです。

偽り

パフォーマーは、可能性として、偽りの自己を提示する能力を常に持っています。
それに対し、オーディエンスは、統制の難しい部分の不調和を見極める力を養い、その真偽の判断を可能とします。
この際、オーディエンスが真偽を問う矛先は、パフォーマンス自体ではなく、パフォーマーにそのパフォーマンスを行う権限があるかどうかです。

例えば、乞食が王様に偽装していれば、その嘘は激しく糾弾されますが、王様が乞食に扮装していても、その嘘は咎められることはありません。
善人が普通の人を演じるのは慎みですが、悪人が普通の人を演じるのは詐欺です。
周りに心配させぬよう健康を演じる思いやりの人もいれば、就職に有利になるよう健康を演じる卑怯な人もいます。
偽りの自己の呈示には様々なものがありますが、これらの例の後者が全て、その演ずる役割の地位を占める正当な権利を待たぬ者であるように、問われているのは行為の真偽ではなく、その権限なのです。

役割の成員となる境界線は、医師のように客観的で厳格な資格を有する明確なものから、絵描きや宗教者のように曖昧で程度の問題によるものもあり、偽装というものの規定もそれに応じて異なるものとなります。
また、偽りというものにも程度があり、明瞭な偽りの表示もあれば、誤魔化しのような曖昧なものもあれば、マスメディアの編集作業のように真実の羅列で偽の解釈へと誘導するようなものもあります。
真偽の基準も、時代と場所によって異なるため、ある偽装的職業が十年後には正当な職業になっていたり、ある正当なパフォーマンスが他の地域においては偽装とみなされたりします。

世界には完全に明快な真偽などなく、真実と虚偽のグラデーションによって成り立っているという現実を反映するものとなっています。
ですので、法的な領域などでは、これらの曖昧さを回避するため、厳密な規定によって、パフォーマンスの真偽を形式的に定めることになります。

そして、何より重要な認識は、この世の中に完全に正当なパフォーマーなどおらず、程度の差はあれ、その印象の裏側に適合しないものが隠されているということです。
役割の関係性や行為の範囲や数が大きいほど、その秘匿されたものも大きくなります。
例えば、幸福な結婚生活(夫婦という社会役割の理想的パフォーマンス)を維持するためには、過去の経験や家計の問題や不満や本音や浮気心などを、お互いが適度に隠すという黙約によって生活する必要があります。

一般によく考えられるように、この秘匿された部分が真のリアリティというわけではありませんし、その反対の外的印象がリアリティというわけでもありません。
そんなことを決定する必要はなく、重要なのは、人間のパフォーマンスによって抱かれた印象は、常に攪乱の可能性にさらされており、その印象の信と不信はいかに決定されるのか、という問題です。
不実なパフォーマンスを研究することによって、誠実なパフォーマンスの本質を理解することができます。

神秘化

提示されるもの、知覚されるものの制限の基礎となるのは、接触の制限です。
オーディエンスに与える情報を規制できない場合、役割維持のために秘匿されるべきものが晒されるため、パフォーマンスという役割資格の儀礼に綻びが生じます。
パフォーマーが状況に対して投企された意味付けに攪乱を生じさせないためには、社会的距離(接触の制約=情報の規制)が必要になります。

人為的に神秘化(秘匿化)することにより、近い接触を避け、社会的距離を生みだし、オーディエンスの中に理想化された役割の印象を生じさせる余地を与えます。
例えば、行儀作法による上下の境界線なしには、階層秩序は守られませんし、王様が市井の人間と共に生活すれば、王という社会役割を保つことが不可能です。
人格の価値はある種の雰囲気(空間的距離)に守られており、この距離内に侵入することは、自尊心を侮辱することに等しくなります。

これは、パフォーマーが社会役割を維持するための、オーディエンスの協力、配慮、言葉を変えれば、人格への敬意、畏敬です。
この敬意(社会的距離)は、上下の階層から同等平面にいたる全ての役割遂行者に与えられているものです。
この距離(情報の規制)によって、舞台裏の余裕が与えられ、パフォーマーは自己の印象を作り上げることが可能になります。

神秘の本質は、それが虚構であり、人為的に作られた秘匿の領域であるということです。
パフォーマーは、オーディエンスにこの事実を知られないようにする必要があります。

現実と嘘

一般的に人間の行為には、自己意識なき非意図的な「正直な真のパフォーマンス」と、意識的で作為的な「偽りのパフォーマンス」があると信じられています。
しかし、この分割は、正直なパフォーマンスの側から出されるイデオロギーにすぎず、正確に分析すると、この境界線は瓦解します。

私たちは、習慣的パフォーマンス(投企される状況の意味付け)を、正直な真のリアリティであると信じ込んでいます。
オーディエンスは完遂されたパフォーマンスを素朴に信じると同時に、パフォーマーは偽りのパフォーマンスを問題なく完遂する能力を持っています。
見せかけとリアイティの間に明確な区別などなく、夫の前で妻は妻を演じ、別の場所で不倫相手の前で愛人を演じつつも、その両方において役割のリアリティを有しています。

日常的な社交の場が、そもそも劇空間であり、コミュニケーションにおける行為は劇的に作られたものであり、即応的なアドリブ劇のようなものとなっています。
人間は日常生活において、自身の役割遂行の傍ら、周囲の様々な他の役割遂行の仕方を目の当りにし、それを観察学習した上でストックしています。
予め得られたそのリアリティのピースによって、私たちは新しい舞台装置(状況)でアドリブ的に必要とされるパフォーマンスを再構成し、うまく演じきります。
人が新しい役割につき、新しいパフォーマンスを遂行する際、詳細に教わることなく、僅かな手がかりや指示のみによって、それをこなせるのは、この膨大にストックされたリアリティのピースによってです。

パーティーで貴婦人が男性を誘うために自らの弱さを演出する場合、そのカマトトぶった演技(パフォーマンス)については意識できても、社交界の貴婦人であるということ自体の大部分のパフォーマンスについては疑うことなく信じ込んでいます(パフォーマーもオーディエンスも)。
自己をある社会役割(社交界の貴婦人)として表出するためには、適切な動作と装飾によって、文化的規定の基準を遵守するという極めて高度なパフォーマンスが必要になる訳ですが、それを演技(パフォーマンス)ではなく自明のリアリティと考えるのは、認識の甘さ、あるいは先に述べたイデオロギーにすぎません。

 

(2)へつづく