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プラトンのイデア論と弁証法(かんたん版)

哲学/思想

現象の世界

私の目の前には、さまざまな事物があります。
目の前の現実に現れる象(かたち)という意味で、それを「現象」と呼びます。
いま目の前に、私の好きな女の子「しずかちゃん」がいたとすれば、「しずかちゃん」が私の目の前に現象として現れていると言えます。
分かりやすく言うと、五官という感覚器官を通してとらえられる世界が、現象の世界(現象界)です。

イデアの世界

仮に「しずかちゃん」がお風呂に入るために私の目の前からいなくなり、現象として現れなくなっても、私の頭の中に「しずかちゃん」は残っており、のび太君のようにエッチな妄想をしたりできます。
ただ、この際、現象として現に現れていた「しずかちゃん」と、頭の中の「しずかちゃん」には、決定的な違いがあります。
頭の中の「しずかちゃん」は、現実の現れと異なり、無駄な細部が取り去られ、重要な特徴、しずかちゃんをしずかちゃんたらしめている本質的な要素のみで構成された姿形をしています。
その頭の中の本質的な形を「形相」と呼び、物理的な「形」と区別します。

例えば、好きな女の子が前髪を切ったりホクロを除去しても気付けなかったりしますが、それは、その髪型やホクロが好きな女の子の本質的な要素ではなかったからです。
反対に、例えば、オフの日にバンド活動をしている会社の同僚ツグム君と街でばったり会っても気付かなかったりしますが、それは会社ではメガネとセンター分けが本質的な特徴となっている同僚ツグム君が街ではカラコン立て髪になっていて、ツグム君の本質的な要素が失われていたからです。

そういう心の中にある、事物の本質的な形(形相)が「イデア」です。
現象としての「しずかちゃん」や「ツグム君」と、イデアとしての「しずかちゃん」や「ツグム君」は、別の次元にあるということです。

イデアの方が本物

ここで難問が生じます。
イデアと現象、一体どちらが本物なのか、ということです。
会社ではメガネとセンター分けがトレードマークだった同僚ツグム君に街では気付かず、目の前のツグム君をツグム君という存在として認知しなかった私にとって、本当の実在とは、むしろ心の中の形(形相)の方なのではないかという疑問が湧いてきます。
そして、プラトンは、この心の中の形(イデア)の方が真の実在だと考えます。

例えば、現象としてあらわれる現実の円は、すべて違う形をしています。
地球の円は赤道方向に伸びた楕円ですし、コンパスで描く円は近くで見ると画用紙の凸部についた不定形の黒鉛の帯状の集積です。
原理的に真の円は現実には存在できません(必ずどこかに微細な歪みがあり、円の定義-本質-から外れる)。
現実には幅のない線は存在しえず、面でない点は存在できないように。
だから私たちは様々な円に似た物体を見て、頭の中にある真円「円のイデア」という参照枠に照らしてから、それら現象としての円を「円」という存在として把握しているのです。
人間が事物を存在として認識する際、頭の中の形(イデア)が先行しているということです。

諸々のイデアは<善>のイデアによって統合される

事物に対し「それは何であるか」と問うた時に出る答えが「イデア」です。
例えば、「ダイヤモンドのイデア」は、「炭素でできた元素鉱物、比重3.52、モース硬度10、屈折率2.42」というように、頭の中で把握されている本質的な形(形相)です。
これと同じように、現象の世界に現れる世界中のあらゆる事物には、各々のイデアがあり、さらにそれらイデア間には関係性があります。

中学校の理科(生物)の教科書に載っていた生物学分類のピラミッドの図(高校野球のトーナメント表のようなやつ)を思い出してほしいのですが、すべての生物の本質や定義(要はイデア)が、網羅的に把握され、統一的に関係づけられています。
世界の事物のすべてイデアも、これと似たような構造をもち、各イデアは網羅的統一的な関係の階層構造をなしており、その頂点に、イデアのイデアと言われる「<善>のイデア」(神様、あるいは宇宙を統括する普遍的な原理のようなもの)がある、というのが、イデアの世界(イデア界)です。

例えば、「しずかちゃん」のイデアは、「日本人」のイデアの一種ですが、この階層構造の上にあるものを「類」、下にあるものを「種」と呼び、これを「類種関係」と言います。
イデアは見る位置によって、「種としてのイデア」「類としてのイデア」に変化するということです。
「しずかちゃん」と「日本人」の関係では、「しずかちゃん」が「種」、「日本人」が「類」になります。
さらに「日本人(いわゆる人種)」のイデアを「種」として見れば、その上の「ヒト(いわゆる人類)」が「類」となり、さらにその上では「霊長類」→「哺乳類」「脊椎動物」→「動物」→「生物」→「物体」→「存在」となり、もうさかのぼることのできないこの「存在」を成り立たせる超越的なものが「<善>のイデア」です。
この類種関係の複雑な網で張りめぐらされたイデアの世界の中に、個々の事物のイデアは存在の場所を与えられます。
この事物のイデアを明確にし、同時にその関係の網を把握することが「学問」です。

「善」とはイデアの正確な把握、「悪」とは誤ったイデアの認識

このイデアの誤認や、関係性の錯誤が、人間の過ちと災いをもたらすため、イデアを把握する知こそが「善」となり、イデアに対する誤った知が「悪」ということになります。
例えば、私が「しずかちゃん」のイデア(本質)を見誤り、彼女に妙な幻想を抱いていれば、いつか彼女の本当のイデアを知った時に激しく幻滅し、愛が憎悪に代わり、ストーカーになってしまうかもしれません。
「正義」のイデア(本質)を捉え違えて、人殺しを正義だと勘違いしてしまえば、ジェノサイド(大量殺戮)に結びついてしまいます。

しかし、大半の人間は、意図的、あるいは半ば意図的(無意識の意図)に、イデア(本質)をとらえ違え、悪をもたらそうとします。
なぜなら、彼らにとっての「知」とは、自分にとって利益になる都合の良い価値観を合理化するための「言い訳」、そしてそれを他人に強制し採用させるための「詭弁」にすぎないからです。
そういう独り善がりの自分だけの正しさの「思いこみ(ドクサ)」を押し付け合おうとする、闘争的で相対的な知のあり方を止め、個々の主観的な善いと善いの対立を総合し、人々を知的に進歩させて、お互いを共により善い状態へといたらせようとする和合的なものがイデア論です。
それは、皆の心を納得させる共通(普遍)の理(ロゴス)へと導くことを目的とします。

弁証法

このイデアを把握する方法が「弁証法」です。
弁証法とは、異なる意見を集め、それらをよく考察し、その中にある矛盾対立を解決するような総合的な新たな意見を見つけ出し、共通の意見へと高める方法です。

例えば、ジャイアンは言います。
「のび太はだらしない臆病者だ」→のび太の本質は“臆病”

ドラえもんがそれに反論し否定します。
「確かに普段のび太君は臆病に見えるけど、皆が危機的な状況(大長編ドラえもん)になると勇敢なしっかり者になる」→のび太の本質は“勇敢”

それを聞いていた出木杉君は、それら両意見の矛盾を総合する上位の意見を述べます。
「のび太君は、能動的に常時勇敢さを発揮するジャイアンと違い、やるっきゃない状況になった時のみ勇敢さを発揮する受動的な人なのでしょう」→のび太の本質は“受動的勇敢”

このように、異なる意見の総合を積み重ねることによって、のび太君のイデア(本質)の精度が上がっていきます。
この弁証法はあらゆる学問の基礎であり、いわゆる帰納法の源泉です。
例えば、ケプラー運動(ケプラーの法則)は、個々の惑星の動き(種)を総合した上位の動き(類)です。
ケプラーの法則(種)の上位にあるのは、ニュートンの万有引力の法則(類)です。

のび太君の様々な側面(種)を集めて弁証法的に総合し、のび太君のイデア(類)を明確にしたなら、今度はのび太、しずか、ジャイアンなどの様々な個人のイデア(種)を集め、弁証法的に総合し、人間のイデア(類)が導出でき、先に述べたように動物や存在を経て、最終的に「<善>のイデア」へとたどり着き、その時ついに万物のすべての理をとらえることができるのです。
この仕事こそが「哲学者(知を愛する者)」のただ一つの使命です。

 

おわり