愛とは何か

人生/一般

愛の定義

「愛」という概念の定義付けは、芸術家や宗教家の永遠の課題です。
たぶん、論理理屈だけで説明できる代物ではないので、偉い学者などより、感性や実践を重んじる彼らの方がよく理解できるのでしょう。
理屈だけでは理解できない難物だからこそ、多くの学者は、反証不可能な無敵の仮説(おとぎ話)である進化論をベースにして、「愛」の概念をテキトーに説明し、片付けます。

ここでは「愛」の何であるかというような大袈裟なことではなく、その一番の特徴である「無償性」の問題について考えてみたいと思います。

基本的に人間は装飾を愛している

ここに女性画家フリーダ・カーロの有名な断髪の自画像(愛する人との決別の画)があります。


“Self-Portrait with Cropped Hair” by Frida Kahlo, 1940 (MoMA)

彼が愛していた長い髪を切り、普段お洒落で女性らしい服を着ていたフリーダは男性のスーツ姿になっています。
画の上の方に書いてある文字には、「髪」が私とあなたの愛の媒介であったということが示されています。

ここで多くの人が感じるのは、一体、男は女の何を愛していたのか、ということです。
彼が愛していたのは、「長い髪」や「可愛い服」のような女性らしさの装飾であり、フリーダ本人、いわば「フリーダそのもの」ではないということです。

こう言ってしまうと、この男性が悪い奴みたいに聞こえてしまいますが、そうではありません。
ドストエフスキーの表現を借りれば、リアルに物事を見る人は、人間を玉ねぎのように捉えています。
人間は皮だけで構成されており、一枚一枚むいていって、すべての皮を剥いだら、中は空っぽだと。
要は、無数の皮(装飾)そのものが、その人自身だということであり、その芯に本体(その人そのもの)などというものは存在しない、ということです。
長い髪、可愛い服、顔の構成、体形、人種、役職、財産、性格、等々、そういう付帯的な装飾の集合がその人のアイデンティティーの全部です。

人が他人を愛する時、その装飾を愛しているのであり、「その人そのもの」ではありません。
玉ねぎの皮を一枚一枚剥くように、恋人の装飾を剥いていけば、必ず、どこかで、その愛する人を愛せなくなる境界にきます。
彼女が髪を失い、若さを失い、美しい体形を失い、笑顔を失い、優しさ(性格)を失い…、そうやって自分が愛していた装飾が彼女から消えていけば、私の愛も自ずと消えていきます。

装飾の先にあるもの

しかし、世の中にはたくさんの例外があります。
例えば、一部の母親は、その皮を全て剥いで何の装飾的魅力がなくなったとしても、子供を愛します。
世界中のすべての人間が愛さないような惨めな装飾しか持たない子供であっても、愛します(時には実子でなくても)。
本来、芯のないはずの人間の芯に、かけがえのない「子供そのもの」を見て、母親は愛しているのです。

また、最初は装飾を愛し合ってつながった夫婦が、互いの装飾を失っても、愛し続けることは、稀ではありません。
例えば、男は女の容姿を愛し、女は男の金を愛し結婚し、その後、老いて互いにその装飾(金、容姿)を失ったとしても、愛し続けることがあります。

装飾の束の先(空っぽであるはずの玉ねぎの芯)に、かけがえのないその人自身である「あなたそのもの」が存在するかのようです。
果たしてそんなものが本当にあるのでしょうか?

一部の思想家は、あると答えます。
例えば、マルティン・ブーバーは、それを「汝」と呼びます。
「私という主観が、世界という客観的事物(モノ、それ、It)をとらえる」というのが、近代以降、一般的に流布している人間の認知の構造です。
他人も事物の一つであり、事物的に記述可能な特徴(装飾)の集合が、他人である、という世界観です。
けれど、ブーバーはそんな「我-それ」関係よりも、もっと根源的で直接的な「我-汝」関係というものがあると言います。
かけがえのない私と、かけがえのないあなた(汝)が出会う、言葉以上、言葉以前の関係です(例えば、ハグした時に感じる、私とあなたの強い存在感)。

ただ、そういう言葉以上の言葉で表現できない愛の関係があるにしても、文章オンリーの当サイトでは、それを扱うことができません。
あくまで言葉の範囲内で考えます。

実体化する記憶

ここで思い出すのが、坂本九の歌『心の瞳』です。
心の目で見れば愛の本質が見えてくる、そしてそれが記憶の絆であること、が語られています。
坂本九『心の瞳』(Youtubeへ飛びます)

本来何もないはずの人間の芯に、心が記憶によって、かけがえのない愛の対象を構成する、ということです。
子がすべての装飾を失っても、母がその子を愛することができるのは、出産という強い記憶、はじめて子を抱きあげた際の感動、子育ての喜怒哀楽の奮闘、共に成長した記憶などが、その子供そのもの「あなたそのもの」を生じさせます。

愛する人が老いて、すべての装飾を失ったとしても、共に歩いてきたその記憶が、かけがえのない愛の対象としての「あなたそのもの」を生じさせ、人間の芯の空虚の穴を埋めるのです。

もし、フリーダと夫の間に、もっと強い愛の経験の記憶や、共にいた長い時間の記憶があれば、心の目に映る「愛する人そのもの」が生じ、長い髪を切ったフリーダをすら、夫は愛することができたかもしれません。

 

おわり

※ちなみに、DNAレベルの前前前世の記憶を持ち出して愛を語るのが、最初に述べた進化論ベースの「愛」ですが、ここで言う記憶とはそんな何でもありの抽象概念のことではありません。
喩えるなら、ダークサイドに堕ちてラスボスになった幼馴染の親友にとどめを刺そうとした時、主人公の脳裏に彼と一緒に遊んだ記憶がありありと浮かび、どうしても殺すことができない。
そういうリアルで強い力のことです。
昔とは、すべての装飾が変わってしまった別人であるはずの親友の向こう側に、記憶が「親友そのもの」を実体化してしまっているということです。