プラトンの『ソクラテスの弁明』

哲学/思想

はじめに

紀元前399年、ソクラテスは告発され処刑されます。
ソクラテスの新しい思想に脅威を感じた保守派の有力政治家アニュトス、およびその取り巻き(詩人メレトス、弁論家リュコン)によって起こされたものです。
準備された告発の内容は、ソクラテスがポリスの神以外の神を語ったという不敬と、彼の言動がポリス(都市国家)の若者を堕落させてきたという不正についてです。

告発者による告発の演説(演説を担当したのは主にメレトス)と、被告人(ソクラテス)の弁明の演説を、それぞれ聞いた聴衆(市民からクジで選ばれた裁判員)によって、有罪無罪の票決および量刑の票決が為されます。
その際のソクラテスの弁明内容が、本書『ソクラテスの弁明』です。

 

『ソクラテスの弁明』

<第一幕、導入>

一、
アテナイの皆さんが告発者の演説を聞いてどう思われたかは私には分かりませんが、彼らの言葉には強い説得力があり、私自身ですら我を忘れ立場を変えてしまいそうになりました。
しかし、彼らは「真実」については何一つ語りませんでした。

私は、彼らのように美しい言葉や巧みな言い回しによって言論を創作することはできません。
思いのままに素直な言葉で、すべての「真実」を語るのみです。
何しろ、70歳になってはじめて法廷に上がったものですから、下手な話し方をするかもしれません。
しかし、裁判にとって大切なことは、話し方の優劣に目を向けることではなく、「真実」を見定めることにあると思うのです。

二、
私のこの弁明は、今回の告発者のアニュトスたちにのみ向けられる訳ではありません。
私は長い間、もっと手強い者たちに告発され続けてきたからです。
彼らは市民をつかまえては、ソクラテスは偽物の知恵を吹聴する危険な者だと告発(告口)し、何一つ真実でない噂を広めてきたのです。
私(ソクラテス)という事実(証拠)の見えない場所で。
私という被告が弁明できない隠れた場所で。
私からは決して顔を見ることも闘うこともできない匿名の告発者たちによって。
皆さん(聴衆)の中にも、小さな頃から彼らに説得され、そう信じこんでしまっている方も沢山あるでしょうし、その噂を真実として他人に伝えてきた人もいるでしょう。

ですので、私は二つの告発に対して弁明しなければならないのです。
先ずは昔からの告発(噂や中傷)に対して、次いでいま現在の告発(アニュトス等)に対して。

<第二幕、昔からの告発に対する弁明>

三、
私が不正を犯し無神論や詭弁術を広めるという噂や中傷は、皆さんの耳にも届いていると思います。
アリストファネスの喜劇のネタにもされていて、それをご覧になった方も多数おられるでしょう。

そこで、お願いがあるのです。
私の問答や対話を実際に見たことのある人たちに、事実がどうであったかを訊ねてみて欲しいのです。
そうすれば、私がそのような不正を行ってこなかったことが証明されると思うからです。

四、
また、私がソフィストたちのように、知識の謝礼として大金を巻き上げていると噂されています。
しかし、私にはそんな職業的知識はありません。
授業料として100ムナも取ったゴルギアス(当時最高のソフィスト)どころか、5ムナのエウエノスほどの知識も持たないのです。
むしろそういう知識(金になる知識)を持つ彼らが羨ましいくらいです。
[ちなみにこの時のソクラテスの全財産が1ムナです。]

五、
では、私は真実として一体何をなしてきたのか、そしてこのような中傷が生じてきた原因を語りたいと思います。

ある時、皆さんの同志であるカレイフォンが、神託を受けるためにデルフォイの神殿を訪れ、「ソクラテスより知恵ある者はいるか」と尋ねたのです。
すると巫女(神の代弁者)は、「彼より知恵ある者は誰もいない」と答えたのです。
カレイフォンは亡くなってしまったので、彼の弟がその事実を証言してくれます。
[ここでカレイフォンの弟が、演台に立ち証言する。]

六、
しかし、私は自分が知恵ある者だなどとまったく考えておらず、神が何を言わんとしたのか、思い悩みました。
そこで私は、当代の知者と言われる人たちの元を訪ねて歩きました。
それによってこの神託が何かの間違いであることが、確認できると考えたからです。
「神様、ご覧になってください、ここに私より知恵ある者がいます」と。

その結果、ひとつ重要なことが分かったのです。
知者と呼ばれている人たちに問いを重ねているうちに、彼らが知恵を持たないにもかかわらず、知恵を持っていると思い込んでいたということです。
それで神託の真意が理解されたのです。
「私は自分が知らないと思って(自覚して)いるが、彼らは知らないのに知っていると思いこんでいる。この小さな差が、私と彼らを分けるものなのだ」と。
[教育上、誤った知識を持つ大人より、無知な子供の方がまだマシなのと同じ原理です。]

そんな対話を続けている間に、有力な政治家などのインテリ層の無知を暴き出してしまい、彼らや彼らの取り巻きの怒りを買い、私は憎まれるようになってしまったのです。

七、
人に憎まれることは苦しく恐ろしいことでしたが、神の言葉の方が私には大切でした。
その探究の中で、世間で高名な人たちより、むしろ身分の低い人たちの方が、思慮を備えており立派な人であると分かったのです。

八、
高名な芸術家や技術者のような専門家に関しては、確かにその領域の知識においては私より勝っていましたが、彼らは自分の専門外のことまで知恵があると思い違いをしており、その自惚れがせっかくの知恵を覆い隠してしまっていたのです(いわゆる専門バカ)。

九、
こうして、私は多くの人々の敵意を買い、中傷されるようになったのですが、それと同時に「ソクラテスは知者である」という噂も立てられるようになったのです。
無知な私はただ問い続けているだけにもかかわらず、傍から見ればその姿が、当代の知者に反駁する、より知恵を多く持った者として映るらしいのです。

しかし、本当に知恵ある者は神だけです。
きっと神は神託を通して、こう言おうとしているのでしょう。
「人間的な知恵など、何ほどのものでもない。むしろソクラテスのように、自分の知恵など何の値打ちもないと自覚している者こそが、人間たちの内で最も知恵ある者なのだ」と。

今なお私は本当の知者を探し求め、その人が知者でなかった場合は神の言に従い、その思い違いを明らかにしているのです。
私はこの仕事に忙殺されているため、社会的営み(処世)がなおざりになり、ひどい貧乏にあえいでいるのです。

十、
時間のある裕福な家の若者たちは、私に興味を持ち、追従し、私の真似をしはじめたのです。
多くの知識人たちを吟味し、無知を暴き出し、それに怒った人々が、その矛先を私に向けたのです。
「ソクラテスは若者をたぶらかし、堕落させる」と。

彼らはこの真実(自分が知ったかぶりの無知な人間であると暴露されたこと)を隠すために、事実の私ではない嘘の噂や中傷によって私に攻撃を加え、数の力と威勢によって、組織的に人々を説得していったのです。
今回のアニュトスらの告発も、この憎悪の延長線上にあるものです。

以上が、隠し立てない真実です。
真実を話すと憎まれるということは、よく理解しています。
憎まれるというまさにそのことが、真実の証左でもあると言えるのです。
私への中傷は、真実に対する防衛反応であり、それがこの度の告発の根本的な動因です。
もし、この事実を、今からでも皆さまが調べ上げて下されば、その通りであることが明らかになるでしょう。

<第三幕、今回の告発に対する弁明>

十一、
これで昔からの告発(噂や中傷)に対しては十分弁明できたと思います。
次いでアニュトスら(告発演説はメレトスが担当)の起こした現在の告発に対して弁明させていただきます。

メレトスの語った告発内容は、「ソクラテスは不正を犯し、若者を堕落させ、ポリスの神を信じず新奇な神霊(“ダイモーン”下位の神、デーモンの語源)の類のものを信じる」というものでした。
しかし、私は主張します。
不正を犯しているのは、むしろメレトスであると。
彼は今まで何の関心もなかったことに対し、真剣に心配をするフリをし、軽々しく他人を裁判にかけ、犯罪者にしようとします。

十二、
では、メレトス、答えてくれ。
若者ができるだけ善くなることは大事なことだと思っているね。

メレトス「もちろん」

君は私が若者を悪くすると言ったが、では、誰が一体彼らを善くする人なのか教えてくれないか。

メレトス「・・・」

君はこの問題に関し深く考えてきたはずなのに、こんな基本的なことを答えられないのか。
答えられなければ、君がこの問題に対し無関心あったことの証拠になってしまわないだろうか。

メレトス「・・・法律だ!」

私の質問をきちんと聞いてくれ。
誰が善くするのか、人を訊ねているのだ。
法律を一番に理解している人のことかね。

メレトス「ここにお集まりの裁判員の皆さまだ」

では、この人たちが若者を教育し善くしているのだね。

メレトス「その通りだ」

それは全員かね。
あるいは中にはしない人もいるのかね。

メレトス「全員だ」

では、国政審議会の委員の人たちも、民会議員たちも、若者を堕落させず善くしているのかね。

メレトス「彼らも同じだ」

では、私を除くすべてのアテナイ市民が若者を善くしており、私だけが悪い方へ堕落させているのだね。

メレトス「まさにそれが、私の主張だ」

もし、一人の人間だけが若者を悪くしようとしても、残りの全市民が善くしようと助力するなら、決して堕落などさせられるはずもなく、若者には幸せが約束されていたはずだろう。
馬をより善く教育できるのはごく少数の優秀な調教師だけである様に、人間を含めどんな動物に関しても、善き方向へ導けるのは一部の者であることは当然であるように思えるが、どうかね。

メレトス「・・・」

やはり君はこの問題に関して、何も考えてこなかったようだ。
裁判を起こすために、君は何の関心もないことに対して、真剣である風に装っていたのだね。

十三、
悪い人は隣人に悪を与え、善い人は善を与えるものだね。

メレトス「そうだ」

共に暮らす隣人から善ではなく悪を与えられることを望む者などいないだろう。

メレトス「ああ、いない」

私が若者に悪を与えていると君は言うが、それは私が意図的にやっていることか、知らずにやっていることか、どちらかね。

メレトス「間違いなく意図的にやっている」

では、こういうことになる。
悪い人が隣人に悪を与えたら、当然、その悪くなった隣人に悪を与え返される。
私は知らず知らずにそれを為しているならともかく、君はそれを意図的にやっていると言う。
私は意図して自分に害悪を与えようとしているなどという主張は、おかしくはないかね。

また、もし故意にやっていることでないなら、それは法の裁きに関わる問題ではなく、個人的に教え諭すべき事例であろう。
知らずに悪をなしている人なら、それを指摘して貰えれば、当然止める。
法廷は処罰を必要とする者を呼ぶ場所だ。
学びを必要とする者を呼び出す場所ではない。

君は私には何の忠告もしてくれず、いきなり法廷へ連れ出した。
つまり、君はこの問題の改善に対しては本当は無関心なのであり、関心は私に処罰を与えることだけだったのだろう。

十四、
若者に対し、ポリスの認める神ではなく、新奇な神霊を信じさせるように仕向け堕落させたというのが、君の主張だね。

メレトス「それが私の強く主張するところだ」

君は私が別の神々を信じている異端者として罪があると述べているのか、神々を認めていない無神論者として罪があると述べているのか、どちらかね。

メレトス「むろん後者だ。あなたは神々をまったく信じていない。太陽の神もただの灼けた石にすぎないと主張する男だ」

それはアナクサゴラス(自然学者)の説だろう。
君は皆がアナクサゴラスの書物を読めない文盲だと侮っているのかね。
君の主張にはあまりにも矛盾が多すぎて、まるで私たちを試そうとしているかのようだ。
告発の体裁をとった矛盾の言説で、聴衆を騙し通せるだろうか、知者と呼ばれるソクラテスを欺き通せるだろうか、とね。

[ここでメレトスは取り乱し、ソクラテスの質問に答えなくなり、不規則的な発言で騒ぎ立てるが、周囲に強いられてようやく応じる。]

十五、
人間に関係する事柄の存在は認めても人間の存在は認めない、などと言う人はいないだろう。
同様に、神霊に関係する事柄の存在は認めても神霊の存在は認めない、などと言う人もいないのではないだろうか。

メレトス「ああ、いない」

答えてくれて、嬉しいよ。
君は私が神霊の類のもの(関するもの)を信じていると主張するが、そうであれば私が神霊を信じているのも必然だろう。
神霊は神の一種あるいは神の子であると私たちは考えているね。

メレトス「勿論」

では、私が何らかの神(神の一種)である神霊を認めて、神の存在は認めないというのは矛盾しているだろう。
また、神の子を信じていながら、神は信じないというのも、矛盾しているだろう。

もし、君が私たちを矛盾の謎かけで試しているのでないなら、私を訴えるための罪状が見つからないから、矛盾だらけの無理矢理な理屈で告発状をでっち上げたと考えざるを得ない。