プラトンの『ソクラテスの弁明』

哲学/思想

<第四幕、哲学者(愛知者)の生き方>

十六、
アニュトスらへの弁明は、これで十分でしょう。
結局の所、ことの本質は、人々の妬みや中傷にあるのです。
まさにこれこそが、今まで無数の無実の善き人々を罪に陥れてきたものであり、これは私で終わることなく、これからもずっと続いていく問題でしょう。

常に死の危険と隣り合わせの私のこのような生き方を、不憫で恥ずべきものだと言う人もいます。
しかし、人間にとって大切なことは、生と死の損得勘定などではなく、正しさや善きことを重んじる姿勢です。
親友を殺したヘクトルを討つために、死の必然を覚悟の上で立ち向かった英雄アキレウスのことを考えてみて欲しいのです。
彼は、不正を黙認したまま恥ずべき人間として生き続けるより、生命を捨ててでも正しさのために生きることを選んだのです。
きっと皆さんも、人間として恥ずべき事はどちらなのか、心の底では分かっておられるはずです。

十七、
私は先の戦争で、祖国と神のために命を捨てる覚悟で闘いました。
[ソクラテスは武勲を立てた非常に勇敢な戦士で、見た目はゴリラのようにいかつく屈強です。]
その神が、今度は知を愛し求めよと、愛知者(愛知-フィロソフィア-は哲学の語源)として生きよと命じているのに、死を恐れてその命に背くとしたら、その時こそ不敬、無神論者として、裁判にかけられるべきでしょう。

そもそも人間はだれ一人、死というものを知りません。
[人間は死ぬ瞬間、意識を失うので、永遠に死を体験できません。また、仮に死後の世界があったとしても、生者の経験世界とは異なる次元にあり、経験として共有不可能です。]
結局、死を恐れるというのは、先に述べた「知らないことを知っていると思いこむ」ことなのです。
死後のことなど私には分からないので、善いも悪いもなく、ただその事実を淡々と受け容れるだけです。
しかし、善き者(神や善き人)に従わないことは、悪いことであると明確に知っています。
ですから、善いか悪いか分からない「死」を恐れるより、善いか悪いかよく分かっている神の命に背くことを畏れるべきなのは当然のことでしょう。

裁判員の方々が、今後私がこの活動(フィロソフィア、知を愛すること)を止めることを条件に無罪放免にし、死刑ではなく釈放を与えてくれると言ったとしても、私は神の命に従い、知を愛する活動を続けることでしょう。
そしてこう言うでしょう。
「あなたたちは文化的に優れたアテナイという国の人間でありながら、知や真理や魂をより善くすることに配慮せず、金銭や評判や地位を得ることに躍起になっていて恥ずかしくないのですか」と。
金銭から優れた魂が生ずるのではなく、優れた魂が金銭を善いものにするのです。
金銭に目がくらみ、魂を育てることをなおざりにしている人たちを、説得していくことが私の仕事です。

私を死刑にするにせよ、釈放するにせよ、私のこの決意は決して変わりません。
たとえ何度死のうとも、変わることはありません。

十八、
騒がないでください、皆さん。
これはきっと皆さまのお役に立つ話なのです。
私を死刑にした場合、それは私の損害であるというより、皆さまの損害であるということなのです。

我らのポリスは、極めて能力は高いがその大きさのゆえに鈍くなり、本来の力が発揮されていません。
優れた血統を持つ駿馬を目覚めさせる小さなアブの一咬のように、ポリスに付きまとい、常にその能力が発揮できるよう刺激を与える存在が必要なのです。
そのアブは、神からの贈り物なのであり、鬱陶しいからと言って叩き殺してしまえば、ポリスは永遠の眠り(死)についてしまうのです。

別に私は自分の命が惜しくてこの弁明をしている訳ではないのです。
私はこの使命のために自分の生活を放棄し、敵意を持つ多くの人々から攻撃されても、構わずに続けてきました。
金銭や延命や地位などの報酬のためではなく、知への愛(フィロソフィア)から為すのです。
その証拠がここにあります。
何一つ持たない貧しい一人の老人です。

十九、
そこまでポリスを想うなら、何故お前(ソクラテス)は、直接国政に関わる仕事に携わらなかったのか、と思う人もあるかもしれません。
しかし、公人として国政の内にいながら、多数派に反対したり、正直なことを述べたり、不正や違法を阻止していれば、私はとっくの昔に消されていたでしょう。
可能な限り長く、正義のために闘おうとするなら、私人として活動する方がよいのです。
ダイモーン(神霊)が私にその危険を警告しているのです。

二十、
[この実例として、ソクラテスが国政審議会の委員を務めた時に不正に与しなかったため、拘禁と死の危険にさらされたことが語られます。また、ソクラテス告発の政治的な遠因(三十人独裁政権への反抗)についても具体的に語られます。そして、それらの事実が証人たちにより証言されます。]

ニ十一、
私は人生を通し、正義に反することに対して、譲歩することはありません。
私はただ自分の使命を遂行しているだけであり、誰の教師でもありません。
ソフィストのように年齢やお金の有無によって対話者を選ぶようなこともしません。
私から教えを受けたと言う者たちは、自分勝手にそう思いこんでいるにすぎないのです。

二十二、
では、なぜ若者たちは私の周りに集まってくるのでしょうか。
それは知者と言われている人々が調べられ、本物では無いということが明らかになることに、若者らは強い興味を持つからです。

もし本当に、私が若者を堕落させ続けてきたのなら、若者の親族や友人や、あるいは年をとって目を覚ました本人が仕返しにやってくるはずです。
けれど、ご覧のように、彼らは今日、被害を訴えるどころか、みんな私を助けるために駆けつけてくれています。
なぜ、メレトスは堕落させられたはずの直接の被害者たちを証人として呼ばなかったのでしょうか。
今からでも遅くはないので、彼らに証言してもらえば、私の言っていることが真実であることがはっきりするでしょう。

二十三、
私の弁明は以上になります。
皆さまは物足りないと、お怒りかもしれません。
いつものように被告が涙を流し、子供たちや親族と共に哀願し、裁判員の皆様に同情や憐みの念を与えなかったことに対して不満をお持ちかもしれません。
それが裁判員の気持ちを硬化させ、腹立ちまぎれの有罪投票をさせてしまうかもしれません。

私が死刑を目前にしても毅然とした態度でいるのは、決して意地を張っているためでも、皆さまを軽蔑しているためでもありません。
知恵、勇気、徳であれ、傑出した優れ者であったはずの人が、いざ裁判にかけられ死刑をちらつかせられると、呆れるほど惨めな醜態をさらしてしまうのを、私は何度も見てきたのです。
そういう連中は、我らのポリスに恥辱を塗り付けているように思えるのです。
外国人がそれを見たら、きっとこう思うでしょう。
「アテナイ人の中で傑出した人物と呼ばれる者は、女子供と大差ない軟弱者ではないか」と。
同情を買うような情けないお芝居をポリスに持ち込む者は、己が国を笑いものにするに等しいのです。

二十四、
裁判員というものは、私情ではなく正義によって判決を下すよう神に宣誓した者です。
その皆さんに対し、私情に訴えるような哀願をなすことは、神への誓いを破るように誘導する不正かつ不敬な行いです。
また、皆さんもそのように(私情によって裁くこと)ご自身を習慣付けてしまってはならないのです。

私にとっても皆さんにとっても最善の判決がなされるよう、神とあなた方に委ね、弁明を終わります。

[ここで裁判員による票決がなされる。]

<第五幕、刑罰に関する応答>

二十五、
[集計の結果、僅差で有罪となる。次いで、告発者および被告人の双方から刑罰の提案がなされ、それに基づき二回目の票決がなされる。メレトスは死刑を提案し、以下がソクラテス側の提案となる。]

私はこの判決に驚いています。
それは有罪に対し怒っているからではなく、ここまで僅差になるほど支持していただけるとは思っていなかったからです。
[裁判員500人中30人がソクラテス側に移動していれば、判決は覆っていた。]

二十六、
メレトスは死刑が償いとして値すると提案しましたが、私自身はどのような償いを提案すべきでしょうか。
驚かずに聞いてください。
それはオリンピックの優勝者に与えられるような、迎賓館での食事が値すると思うのです。

私はお金や地位などの自らの処世に対してはずっと無関心であり、アテナイの人々が自身に付帯する二次的な事柄(金や権力など)でなく自分自身そのもの(魂)をできるだけ善くするように、そしてポリスに付帯する二次的な事柄でなくポリス自体を本当に大切にするように、促すためだけに生きてきました。
オリンピアの優勝者のように、人々の幸福に貢献したそんな私に値する刑罰は、迎賓館での食事が適当だと思うのです。

二十七、
これは意地を張って言っていることではありません。
食事とは、もう少し生きる時間、弁明の時間の必要性のことを指してもいます。
私はあなた方と一日のほんの短い間しか対話していません。
もし、他国のように死刑判決に数日かけるのであれば、私は必ず誤解を解き、皆さまを説得できたはずだと思うからです。

死刑が恐いからと言って、別の少しマシな刑罰を代替案として自ら提示し、正しいことを行なっている自分に対し自ら不正を加えるなど、そんな恥ずかしい行為は考えることもできません。
そもそも、拘束、罰金、追放、いかなる刑罰であれ、私にとっては刑罰にならず、相も変わらず同じように生き続けることでしょう。

二十八、
皆さまの中では追放を求める声が多いようで、黙って大人しく生きるよう望んでおられるようです。
しかし、黙って生きるということは、愛知(フィロソフィア)の活動を命じた神に従わない不敬を意味するのです。
吟味のない生は人間の生ではありません。
日々語り合い、対話し、より善きものを求めるのが、人間の本当の生なのです。

[ここでプラトンやクリトンなど、ソクラテスの支持者が集まり、1ムナの財産しか持たないソクラテスに対し30ムナを援助し、それを罰金として提案する。そして、メレトス側提案の“死刑”とソクラテス側提案の“罰金”の、どちらが刑罰として相応しいかの票決が行われ、死刑が確定する。]

<終幕、最後の言葉>

二十九、
もう少し我慢していれば、自然と私もいなくなっていたはずであろうに(当時としては高齢の70歳)。
あなた方(死刑に投票した人)は、ほんの少しの時間のために、ポリスを非難する者たちに口実(アテナイ人は善き人を殺す愚者)を与てしまいました。

私が泣き叫び物乞いのようにひざまずけば、あなた方の悦びを買い、死刑をまぬかれることはできたでしょう。
戦争においても、武器を捨て丸裸で命乞いをすれば、敵が与えようとする死から逃げることもできるでしょう。
手段を選ばずに何でもするなら、死をまぬかれることは難しくはありません。

しかし、魂の「劣悪さ」をまぬかれることは非常に難しい。
それは恐ろしく素早く、人々を呑み込み、悪徳と不正に染め上げます。
私には死という刑罰が与えられましたが、あなた方(死刑に追い込んだ人たち)には劣悪という刑罰が与えられたのです。

三十、
あなた方のために私は予言しておきます。
自身の生を吟味されることを恐れ、私を死刑に追い込んだ人たちは、間もなく大きなしっぺい返しを受けることになるでしょう。
今後、あなた方を吟味する人間は、さらに手強くなり、数もずっと多くなるでしょう。
なぜなら、私が情熱的で才気ある若者たちを今まで引きとめ、抑え込んでいたからです。

他人を殺すことで面倒な問題を避けようなどということは、よい考えではありませんし、最終的には解決にもなりません。
他人を押さえ付けるより、自身がよりよく成るように変わる方が、ずっと簡単な解決法なのです。

三十一、
私が何か悪い決断をなそうとすると、決まってかの神霊(ダイモーン)が反対の合図をくれるのです。
しかし、今日は朝から一度も私の言動に対し、反対することがありませんでした。
考えるに、きっと今回の出来事は、何か私にとって善いことであるように思われるのです。

三十二、
そもそも「死」は、そんな悪いものではないでしょう。
死というものは「何の感覚も持たない全くの無の状態」、あるいは昔から伝わるように「別の世界への移動」、のどちらかです。

夢も見ないようなスヤスヤとした深い熟睡にある時ほど、快い時はありません。
起きている間、人間にとってそれ以上に快い時間というものは、数えるほどしかないでしょう。
また、この不正と虚偽にまみれた世界から、別の世界へ引越しができることほど、素晴らしいことはないでしょう。
今は亡き過去の偉人や英雄たちと会える機会でもあり、それは彼らと対話をしながら時を過ごすという驚くべき経験、無上の幸福となるでしょう。

三十三、
私は、私を告発した人や有罪の票を入れた人に対し、怒ってはいません。
非難すべき問題は、彼らが、私のために善いと考え死刑を与えてくれたのではなく、私に危害を加えようとする悪意によって為した点なのです。

最後にあなた方(ソクラテスに敵意を持つ人)にお願いがあります。
もし、私の子供たちが大きくなって、自身の魂を善くすることより、金銭や地位のような付帯的なものを得ることに配慮していたなら、私があなた方にしたことと同じことを仕返してあげてください。
何の値打ちもない人間なのに偉い人間であると勘違いしている子供たちを非難し、配慮を魂へと向け変えてやってください。

もう、行かなければならない時間です。
私は死への旅へ、皆さんは生の旅を続けるべく。
どちらの行く手により善いものが待っているかは、神のみが知っていることでしょう。

 

おわり

 

※本頁は本書の内容を対話風にまとめただけであって、抄訳でも編集でもありません。ソクラテスの言葉そのままではなく、ただまとめればこんな風になる、という創作で書いたものです。誤って引用しないよう、ご注意ください。