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未来とは何か

人生/一般

時間の定義

事物の何であるかは、「定義」次第です。
定義とは、それが何であるか(本質)を述べるものです。
ある事物の定義は、時代や場所によって(さらに言えば個人によって)異なるため、たとえ同じ一つのものであっても、複数の定義を持ち、様々なものとして捉えられています。
ある文化では定義上クジラやイルカは魚の仲間なので躊躇なく食べますが、ある文化では魚の定義(生物学分類)が異なり人間の仲間に近いので食べなかったりします。

時間の定義も同じように、時代や地域や文化によって異なり、その捉え方は様々です(時間の比較社会学の項を参照)。
その中で特に大きな傾向として、時間は直線的なものvs時間は円環的なもの、という対比があります。
直線的な時間を採用する場合、それは私たちの頭の中にある抽象的なものであることが多く、円環的な時間の場合、頭の中ではなく現実的なものに立脚したものであることが多いようです。

直線的な時間

「未来は予測で、過去は記憶で、存在するのはただ現在だけである」という考えは、古代ギリシャの時代から存在しています。
さらにここに付け加えていうなら、過去は記憶(記録)だけでなく予測も含まれます。
現在において存在する記録から、過去に何があったのかを考古学的に予測することによって生じるのが歴史(過去)であり、それが歴史家の仕事です。
新しい発掘によって歴史が大きく書き換えられることがあるのは、歴史(過去)が現在において生成されるものであることを物語っています。
個人の記憶(過去)も同様であり、精神医学や心理学から見れば、人間の過去の記憶は純粋な事実ではなく、現在においてかなりの程度編集捏造された想像の産物でしかありません(もちろん、本人は嘘をついているのではなく、自身にとって揺るがぬ事実であると本気で考えています)。

当然、予測というものは、現在に近いものほど正確で、遠いものほど漠然としたものになり、ある限度を超えるとその漠然とした予想の像も消失します。
また、記憶というものも、基本的に遠くなればなるほど薄れていき、やがて消えます。
それらは音量調節のボリューム記号のように、遠い未来から段々と現在に向けて大きくなっていき、現在を頂点として、今度は過去の消失点に向かって徐々に小さくなっていきます。
絵文字にするとこうなります→(.。oOo。.)
必然的にそれは両端のちぎれた紐のように、直線的にならざるを得ません。
時間の数学化、抽象化とかいう面倒な議論ではなく、単純に頭の中の時間は直線と似た構造を持っているということです。

円環的な時間

これに対して、円環的な時間というものは、多くの場合、現実(自然)に即したものであり、広く世界中で採用されていた時間の観方です。
中島みゆきの「時代」の歌詞のように、人間(生物)の生の営みの中で時間というものは、めぐるもの、まわるもの、として捉える方が自然です。
ある仏教哲学者(後期西田幾多郎)は言います。
過去は未来とつながっており、過去は決して消え去らずに、ぐるっと未来へと一周し、また現在へと還ってくる、と。

例えば、現在において人間が資源を湯水のように浪費すれば、その事物がぐるりと未来へ円環し、当然、後々やってくる未来は、資源の枯渇した地獄のような未来です。
反対に現在において工夫し大切に使えば、それは廻り廻り、豊かな未来がやってきます。
例えば、私がいま勉強という行動をなせば、それは過去を廻ってやがて裕福な生活という未来として来たり、私がいま勉強せず遊び惚ければ、それは過去を廻ってやがて貧しい未来としてやってきます。
現実や自然の運動というものは、すべて循環(円環)しています。
小学校の理科の時間に習う水のサイクルの図のように、川の終点から海に流れ出た水は、空を廻り、やがて山頂の雨となり、川の始点の水として還ってきます。
人はこのつながりのサイクルを「因果」と呼ぶわけですが、因果は個を離れ全体へ広がるほど見えにくくなってしまいます。

例えば、私が生卵を自分の部屋に落とせば、即、汚い部屋へと変化し、そのつながりが明瞭に見えます。
しかし、窓の外に生卵を放り投げれば、何も変化は起こりません。
それを忘れて、ベッドで漫画を読んでいると、突然ドアが激しく開き、父が怒鳴り声をあげて私を引っ叩きます。
「卵が落ちる→部屋が汚れる」という、オセロの表裏をひっくり返すような単純なサイクルではなく、「卵が落ちる→庭が汚れる→父が見つける→私の部屋へ駆け上がる→私を叩く」という大きな円を描くことになります。
私が今勉強しないことで大人になってから困る場合は、もっと大きな円を描き、川を流れた水の分子が水源に還ってくる場合は、想像できないほどの大きな円環を要します。
水滴の落ちた位置から広がる波紋のように、私のイマ・ココで為す変化から遠い関係であればあるほど、このサイクルの円環は大きくなっていき、把握し難くなっていきます。

円環の時間の部分が直線の時間

この円環(自然の運動)の一部を切り取って作ったものが直線的な時間です。
当然、円の一部を切り取った円弧は、短い直線になってしまいます。
そしてその短い直線を単位として、頭の中でつなげ、無限へと続く長い直線にしたものが、私たちにお馴染みの数学物理学的な直線の時間です。
例えば、太陽の円環運動の一部を切り取ったものが、時計の時間であり、そのサイクルが水滴(水時計)でも水晶振動子(クォーツ)でも同様です。

私の人生の時間が生に始まり死に終わる直線なのは、私の寿命という短いスパンで切り取って見るからであり、大きな自然の営みからすれば、私の死は次の物への変化へのサイクルの一過程でしかありません。
私は死によって分解し、それが新たな生命を生む素材となります。
地球が爆発して宇宙の塵になっても、その塵はやがて収束し、また別の星へと生まれ変わります。

混同される時間

まとめると、頭の中の時間(予測と記憶としての時間、および数学的に抽象化された運動変化としての時間)は直線的であり、自然の現実的な運動変化としての時間は円環的です。
これらは本質的に時間の定義が異なるので、同じ時間でもまったく別のものを指しています。
中島みゆきのまわる「時代」と、歴史の教科書の図にある直線的な「時代」は異なります。

しかし、多くの人はこれらの違いを混同し、様々な問題を引き起こします。
その中でも特に私たちの生活に直結する大きな問題が、「イマの忘却」です。

忘れられる現在の重要性

一般的に私たちは事物を捉える時、「未知の未来があり、それが段々と現在に近付いてきて明瞭になり、ついに事物は現在に到来し、それは過去になり、段々と不明瞭になっていき、やがて消える」と考えています。
これは現実の事物の円環的な因果を、頭の中の直線的な時間(.。oOo。.)に当て嵌めてしまうという錯誤をおかしています。

ここから生じるのは、現在の重要性の忘却と無責任、自分の行為に対する無力感です。
「私の前に迫る未来は、どこからやってきたかもわからない未知なものであり、私が現在においてなした行動も過去へと消え去るものなので、自分がイマ何をしようがどうでもいいことである」という感じです。
これは卵を窓の外に投げて、急に怒られてビックリする少年と同じです。
自分の未来は自分の現在が作っているという、事実の円環的なつながりが見えていない状態です。

「とんでもない世の中になった!」と年配の方はよく言いますが、そのとんでもない未来を生み出したのは、過去の自分たちです。
例えば、人口曲線は最も確実に予想できる類のものです。
超高齢化社会の問題が自分たちを苦しめたとしても、それは自分たちが選び取ってきた未来が到来しただけにすぎません。
数十年前から自分たちが準備してきたこの自業自得の世界を、まるで未来からやってきた未知の危機と捉えれば、自分たちの今までの無責任な行動に対し見て見ぬ振りすることができます。
勿論、彼らは別に無責任であろうと意識して無責任であったわけではありません。
ただ現在と未来の円環的なつながりを見ていなかった(あるいは見て見ぬふりをしていた?)だけです。
つながりが見えないもの(予測不可能な事象)なら仕方ありませんが、見えるはずのものを見ないのは怠慢か逃避でしかありません。

映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も言っていることは同じです。
「過去(かつての現在)」が「現在(かつての未来)」を作っているので、「かつての現在(過去)」の行動によって「かつての未来(現在)」を変えよう、ということです。
現在の行動と未来の円環的なつながりが見えていなかったことを反省し、その認識を持って、もう一度現在をやり直し、より良き未来を創ろう、という訳です。
しかし、私たちにはデロリアン(タイムマシン)がないので、常にこのつながりを自覚しながら、後悔なきよう生きるしかありません。
それは、現在の私は未来の私に対しての使命と責任を負って生きているという意識です。

イマを生きる

これは今、リアルタイムで世の中を動かしている人たちにとって、重要な意識です。
私たちが現在においてどう行動するかによって、未来が作られていきます。
未来は待ち受けるべき受動的なものではなく、自分たちの手で能動的に創っていくものです。
未来とは現在の帰結であり、未来は私の前にではなく、後ろにあるものなのです。
今日という日をいかに生きるかに、すべてがかかっていると言っても過言ではありません。
私たちはイマ、何を選び、何を為すか、それが未来へとどうつながっているのかを考えながら生きられるかどうかが、やがて到来する未来の明暗を分けるのです。

 

おわり